サイレントシャーク

 静寂こそは最大級の精神の癒し。そのように言ったのが誰であったか、それは然程重要では無い。現状においてサスケは静寂の懐の深さを感知し、その言葉の重要性に触れているだけで完全に充足を得ていたのだから。

 人の少ない海岸――プライベートビーチとまではいかないが、いてもせいぜい十人程度――でサスケの視界の右端から女が現れた。乳房は水風船のように元となる形を保とうと努力している。女が歩く度、振動で原形を失う乳房はまるで生き物のようにも見えた。海岸にいる男が、一度はちらりとその乳房を窺った。男という生物は総じて乳房に弱い。サスケもその例に漏れず、乳房に弱かった。そんな自分を恥ずかしがるように、サスケは目を逸らす。

 キイヤァァーー!!

 女の悲鳴。サスケは女を再び見た。乳房があった場所は赤く、そして膨らみは無い。サスケは状況が読み込めなかった。しかし忍者としての本能か、襲撃の気配を察知したサスケは周囲を観察する。砂浜になにかを引きずったような跡。微かな蛇行。サスケに頭に浮かんだテレビジョンの画面。トカゲが砂の上を歩くと尻尾が地面に跡をつける。蛇行した跡を。なにかは砂の上を移動している。しかしトカゲとは明らかにサイズが違う。もっと巨大な、ワニのような。

 キイヤァァーーー!!

 再びの悲鳴。その方向に、蛇行した跡は続いている。なにかがいる。長年ニンジャとしてニッポンで生活を続けたサスケは気付いた。

 クセモノ。

 クセモノというのは、ニッポンのテレビジョンで放送されているジダイゲキというものに出てくる――とはいっても姿を見せない敵だ。海岸にいる女を襲っているなにかは、クセモノに違いない。

「クセモノだ!」

 サスケは叫んだ。海岸にいたサスケ以外の数人のニンジャが、シュリケンを構える。蛇行した跡を追う。その跡の先端。そこにいるはずのなにか。

 なにか。

 それは透明で、姿が見えない。

 だがそこにいるのは確かだ。

 その証拠に、血が滴っていた。

「サ、サイレントシャークだ」

 サスケの後ろにいたニンジャの一人がいった。

 海を支配する、伝説の鮫。サイレントシャーク。別名をニンジャシャーク、インビジブルシャークと呼ばれる姿なき悪魔。サスケの背を夏の日が刺す。灼けた肌が痛むのか、サイレントシャークの隠匿された視線が刺さって痛むのか、サスケには分からなかった。それでもここが地雷原より危険な場所であることを理解し、なんとしてでもここから離脱しなければならないと足を踏み込んだ瞬間、サスケの目の前に光。咄嗟に屈み込むとサスケの上方にうろが出現する。光はサイレントシャークの牙、虚はサイレントシャークの口。

 うおおおおおお

 間一髪。感じたことのない恐怖に、サスケは声が漏れた。

 うぐあああああ

 サイレントシャークの鳴き声。それは悲しみにまみれていた。サスケには「自然破壊をやめろ」とそういっているように聞こえた。

「ファッコーーーーフ!!」

 サスケの故郷は自然破壊や森林伐採、その後のダム開発によって水の中へと沈んだ。しぶしぶ都会に出てきたもののニンジャの需要は少なく、企業のスパイ活動などを行う者もいたが、その多くは都会という環境に慣れていくと次第にニンジャとしての本懐を忘れ、ニンジャとして生きていくことから遠のいていった。本来ニンジャは君主への忠誠を誓い君主に従うもの。それを忘れたものはニンジャとは呼べない。ニンジャの多くは都会に生きる人間の身体能力の低さ、ニンジャを奴隷のように扱う態度に辟易として君主への忠誠から逃れ、独自の判断で悪事を働くものが増えた。本来影に生きるニンジャは、姿を見せないことに長けていたこともあり、クセモノに成り下がっていった。ニンジャもクセモノも今や社会にとっては大差ない。それでもサスケはニンジャの本懐を遂げるべく、今も環境保護や保全を訴えながらニンジャとして君主を探し続けていた。だからこそ、サイレントシャークのように自身の怒りを晒して、他者を死に至らしめるという安直な行動を許すことが出来なかった。

 虚が完全に閉じるより早く、シュリケンを投げる。

 ぎゃうう

 当たった。ただ当たったシュリケンの輪郭が太陽の光を反射することを拒絶する。サイレントシャークの特性。ステルスが発揮されるのは、本人だけではなく、本人に隣接するものにまで及ぶことをサスケは知らなかった。虚はもう閉じてしまっていた。先程まであった蛇行の跡は、途切れている。そうなると、ちょうど途切れた先端部分で、サイレントシャークは影を潜めているだとサスケは確信して、シュリケンを投げた。

 シュリケンが突き刺さったのは砂浜。

 海岸にいた人々は、噛まれた二人の女性を除いて全てがこの場を離れていた。誰もが見て見ぬ振りをするのなら、姿が見えていようと姿が見えていまいとなにも変わらないのではないかと、人のほぼいない海岸の静寂の中でサスケは思っていた。最初海岸にいた時の静寂は最大級の精神の癒しであったが、今は緊張の糸が張り詰めている。あまりにも脆い緊張の糸。縒った糸の一つ一つが悲鳴をあげて、少しずつ切れているのをサスケ自身認識していた。

 サイレントシャークの鳴き声も、移動の音も、海岸に残していた跡もなにもない。風がべたついている。サスケの肌を黒く灼く太陽。

 サスケは今になって、静寂の懐の深さを忌々しく思い始めていた。サイレントシャークなどという、野蛮で利己的な存在すら匿おうとする静寂。

 ごうるぐぐるる

 傲慢?

 サスケの背後に迫る虚。

 投げるシュリケン。

 ぎゃぎゃうぎゃーー

 虚の中に吸い込まれるシュリケン。

 虚の中から吐き出されるサスケを傲慢と罵る咆哮。

 虚の奥から匂う血の芳香。

 サスケは殺した。サイレントシャークを殺した。サイレントシャークの虚はサスケを支配していた。

「傲慢? 俺が傲慢だっていうのか? 馬鹿いうんじゃない。サイレントシャークさんよ。俺だってな、あんたと同じ、故郷を奪われた身だよ。いや、でも、それなら俺はなぜあんたの気持ちを分かってやらなかったんだ、あんたのためにあれが出来ることがあったんじゃ、ないのか。あんただって俺と同じ、安心して生活が出来る静寂が支配する海が欲しかっただけなんじゃないのか? それを無視してあんたを殺した。俺は傲慢か? おい、寝てねえで答えてくれよ。俺とあんたは似た者同士だろ? なあ、おい。おい、まさか本当に死んじまったなんてことはねえだろ?」

 サイレントシャークの姿も見えなければ、鳴き声も聞こえない。果たして本当にそんなものはいたのだろうか。静寂の中、サスケは悲哀と寂寥に襲われた。

 静寂こそは最大級の精神の癒し。その言葉が、サスケに重くのしかかった。

 なにも知らずに海岸にやってきた女の乳房を餞別に、サスケはドスを腹部に当てた。

 海岸には乳房のない女の死体が二つ転がるばかりだった。


(了)


【編集・翻訳者解説】

 リンチは日本好きの作家だ。しかし、しかしである。知識が豊富とは言い難い。それはこの作品を読んだ読者なら容易に分かるだろう。

 アメリカといえばハンバーガーと自由。イギリスといえばフィッシュ&チップスとビートルズ。インドといえばカレーとダンス。鮫映画といえば低クオリティと90分。それくらい安易な知識である。

 だからといって作品の出来が悪い。というわけではない。


 この作品は鮫小説でありながら鮫の姿は出てこない。そして鮫小説らしい騒がしさがない。

 鮫小説というと、鮫映画などの影響で騒々しい内容(いわゆる一人称で、パニック要素を全面に出したもの)が多いが、鮫小説においてはいくら鮫を出現させてパニックを演出しても読者の読書スピードによって、作者の意図とは異なる作品の質になってしまうというデメリットを含んでいる。それに鮫をいくら出したところでビジュアルイメージも読者頼みになってしまうのだ。これも当然デメリットである。

 そこでリンチは、サイレントシャーク(姿は見えない上に、音も鳴き声程度しか立てない)という鮫を作り上げ、三人称視点を用いてパニック感をあまり作らず、更に作品内で静寂を強調した。

 これはある意味革新的であると私は思う。

 ただ文章量や知識面などは、まだまだ劣っているのも事実だ。これからの成長と鮫小説の発展に尽力していただきたい。

 終わり方は曖昧で答えのないような自己の確立と、社会への軽い批判。これも含めてB級感の演出についてはなかなかのものがある。

 これからが期待できる新人作家であることは間違いない。


 余談ではあるが、リンチは鮫映画よりも鰐映画が好きらしい。

 この点において、私は彼に注目こそするものの好きにはなれないと思う。これまでも、これからもである!!


【原本】

 Sharquiet

 Donald S Lynch

 2018年

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