鮫の場所

 俺に入ってくる感情の端々に痛いとか辛いとか恥ずかしいとか、そんな人間らしいものは全然ない。人間じゃないんだから当然だろって、もう死んでるんだから当たり前だろって、そんな風に思うかもしれないけど、それは違う。実際問題として俺の中に流れ込んできた感情の中に人間らしいものが存在していたことはあるし、それに死んでいても今みたいに感情が流れ込んでくることはある。一度や二度じゃなく何度も何度も何度もだ。

 そいつが生きていた時に、海で周囲を威嚇し蹂躙し背びれの周りに立てていた波のように、静かでありながら恐怖とプレッシャーを強制的に植え付け芽生えさせる、そんな宿り木のような喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたいという欲だけが、俺の中で水面に出来た波紋より早く全身に行き渡って、俺はその展示の前から動けなくなる。

 The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living【生者の心における死の物理的な不可能性】と題されたダミアン・ハーストの作品は、鮫自体の凶暴性から見る狂気だとか、生きている以上死を回避することはできないという当然の事実をまざまざと見せつけたりだったりとか、死の保存という自然の摂理に反する行為を長年繰り返してきた人類への批判であったりを俺に感じさせることはなくて、ただ単純に生物であれば誰もが持っている捕食への恐怖を、内角高めのストレートそれもめっちゃ早いのがサシュッパと顔面に迫ってくる勢いをそのまま残してぶち込んできた。全人間が食物連鎖の頂点にいると勘違いしている。そんなバカバカしさをアウストラロピテクスから現代人に至るまでを追憶し、改めて人類が捕食される側であるのを認知させようとする恐怖が右足の小指の先からずぞぞぞっくぞと這い上がってくる。

 この美術館の中で、男に胸を押し付けて作品なんて見ていない女はさておき、俺だけがこの恐怖を感じているんだとしたら? 高慢ちきに作品の前で講釈垂れ流しながら二十分くらい突っ立っているじいさんや、美術学校で奇抜と個性を履き違えたまま現実に目を向けれないでいるんだろう何人かのグループや、いかにもこの場にいるのがお洒落だとでもいいたげな全身真っ黒の意味不明なスカートみたいなズボンを更にスカートみたいに履いている破壊と構築の関係性を考慮できないバカ男だったりって、あれ、この場にいる全員作品なんて二の次で自分のことをどう見せるかで必死なんだ。それじゃあこの場にいる俺もこいつらと同じなんじゃないのだろうか。でも、俺はしっかりと【生者の心における死の物理的な不可能性】から恐怖を感じとっていて、それは俺がこいつらとは違うってことの証明であるのだからという考え自体が、もうこいつらとそう大差ないのかもしれないと思うと俺は俺が分からなくなる。

「どないしたん?」

 いや、ならない。

 俺がこの恐怖を、少し前に紗安來さあくが俺に感染うつしてきたみたいに、俺から紗安來に感染すことは簡単なはずだ。そうやって恐怖を共有することができたら、俺と紗安來は自分のことをどう見せるかなんかにこだわっていない人間としていられるのではないだろうか。人間として大多数に属することで恐怖を緩和させるのが常識的である社会の中で、その恐怖よりも原始的な恐怖である補食。生死。そこに気付くことは、生物としての根本であるのではないか。そう思いながら紗安來を振り返って、俺は俺の考えが間違えなんだと気付いた。

 紗安來は、【生者の心における死の物理的な不可能性】を見て、涙を流していた。それも紗安來本人が、泣いている事実を知らないまま。今涙が床を叩いてこの静謐をぶち壊してやろうとしていることに本人が気付いていない。そんなことがありえるのかどうかは分からないって分かっている。なぜなら目の前で、それを見せられているのだから、分かっているに決まっている。いや、でも、それは勘違い、違う。思い込みだ。見たから理解しているわけではない。もしそうなんだったら、この【生者の心における死の物理的な不可能性】を見た全員が、ホルマリン漬けにされてしまった憐れな鮫の衝動を理解しているってことになるはずなんだ。でも実際はそうじゃない。それじゃあ、この涙の意味だって俺は本質的に理解はできていない。それよりなにより常温の部屋で一日放置した白米を噛んだみたいに、自分の凝り固まった思考を一生懸命にがりがりもぐもぐぐにぐにとやっているだけなのに自分を総理大臣とか大統領とか国王とか法王とか天皇とかみたいに偉い人間だと思い込んでいた。それに紗安來の涙は気付かせてくれた。そんなぐんるんぐりぐる複雑になったウインチェスター・ミステリー・ハウスみたいな思い込みに、俺は閉じこもって、自分の亡霊を見てううわあぎゃわわあと騒いでいたのだと思うと恥ずかしくなった。でもなんで恥ずかしがる必要があるのか分からなくなって、紗安來を【生者の心における死の物理的な不可能性】で鮫をホルマリン漬けにして閉じこめている透明のケースに押しつける。

「ほんまにどないしたんって。待って待って、なんか怖いし自分」

「いいから服脱げって。ヤるから」

「はあ? なにいうてんの? 自分頭おかしなったん?」

「普通だって。いや普通ってなんだろ。人間の、鮫の根本ってなんだろ」

「待って待って。根本とか知らんし、それ閉まいーな。捕まんで」

「ええんやって! はよ脱げって!」

「なんなん。今日めっちゃSやん」

「あかんの?」

「まあ、あかんくないけど。っていうかさ、いきなり関西弁出すん卑怯やわ」

「卑怯とか知らんし」

「分かってやってんねやろ? まあええけどさ。めっちゃ勃ってるやん」

「せやろ。さーも濡れてきてるんやろ?」

「濡れてへんよ」

「そんなんいうてるけど、エロい顔なってんで?」

「そんなんいわんとってよ。恥ずかしいやん」

 右手でズボンのファスナーをずらして、パンツをずらすけど、ベルトは外さない。ここでズボンをずらすと、いざ逃げる時に足がもつれて逃げることができなくなるから。昔読んだ漫画で、ズボンをずらした瞬間を狙われてボコボコにされた人を見たことがあったから、それを読んでからは紗安來と外でヤる時は絶対にズボンをずらさなくなった。紗安來は膝上丈のスカートで捲りやすい。俺と一緒で性欲が強いから、ヤりたい時にすぐヤれるよう短いスカートを履いてるんじゃないのかっていうのは、さすがに俺の思い込みだとは思うけど、でもヤるには適していて最高だ。愛してる。紗安來、愛してる。

「おい! お前ら、なにやってんだ!!」

 そんな言葉で俺と紗安來が止まるわけがない。【生者の心における死の物理的な不可能性】のケースが、ギリシグシギリギリグリシギギと音を立てて揺れる。俺と紗安來の腰の動きと連動して、揺れたケースの歪みからホルマリンが漏れる。刺激臭。紗安來が顔を歪めているけど、感じているのか、刺激臭に耐えられないのか、そのどちらかではなくて、そのどちらでもあるように思えた。衆人環視の中のセックスに不快な臭い、後ろには死んだ鮫。そんな異様な状況でこそ俺も紗安來も興奮の度合いは跳ね上がる。まだ全然挿入したばかりだっていうのにイク。ゴムをしてないけど、紗安來がピルを飲んでいるから問題ない。って、ことにしている。実際、過去にクラミジアにもなったことを考えたら、全然問題ないってこともないけど、まあ問題ない。避妊云々なんかより快楽が大事だ。それは純粋な欲求。俺の前、紗安來の後ろで死んでいながら感情を垂れ流している【生者の心における死の物理的な不可能性】の中に入った鮫と同じ。喰うことで満たされる。その満たされるという感覚の後に訪れる虚無。

 そのどちらを俺は愛しているのか。

 そのどちらを鮫は愛しているのか。

 そのどちらを紗安來は愛しているのか。

 この二つは互いに絡まり合っている。しかし、満たされたあとに虚無が訪れることが必然であるのに対して、虚無の前に満たされるということが必然として存在しているわけではない。虚無を抱くと知っていながら、どうして人間は、どうして鮫は、満たされようとするのだろう。虚無とはなんだ。死とは虚無だろうか。だからといって虚無が死ではない。それがなんだというんだろう。

 喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい。

 俺の前、紗安來の後ろにいる少し前までホルマリン漬けになっていた鮫の感情が、ホルマリンから揮発したホルムアルデヒドが拡散していくように徐々に美術館を支配していく。

「なあ。足めっちゃ痛いんやけど」

 紗安來はホルマリンを直接浴びてしまったのか、痛みを訴えている。俺は直接ホルマリンを浴びることはなかったが、揮発したホルムアルデヒドを吸い込んだせいか喉が痛い。紗安來も声が変だ。

「やばいなぁ。はよ水で洗わん喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい」

 俺は今なんていった?

 紗安來の血。紗安來の体を染める血。紗安來の薄い陰毛に血。垂れる紗安來の血。ホルマリンの緑と血の赤が混じり合う。鮫はいまやホルマリンを周囲に飛び散らせるほど、自由に体を動かしばたついている。そして、口を開いて、牙を食い込ませて、肉を千切って、血を啜って、誰かれ構わず欲望のままに喰う。揮発したホルムアルデヒドと混ざって拡散された鮫の感情は、周囲の人間を巻き込んでいる。男に胸を押し付けて作品なんて見ていなかった女は、誇らしく自慢気に見せびらかしていた大きな胸を男に食い千切られていた。胸はもう今となってはAカップよりも小さく見える。高慢ちきに作品の前で講釈垂れ流しながら二十分くらい突っ立っていたじいさんは、隣にいた美術学校で奇抜と個性を履き違えたまま現実に目を向けれないでいるんだろうグループの中でも特に奇抜な女の足を執拗なまでに噛んで、足フェチぶりを忌憚なく披露している。

「なんなんだよぉ、こ、これ、わわわ」

 全身真っ黒の意味不明なスカートみたいなズボンを更にスカートみたいに履いている破壊と構築の関係性を考慮できないバカ男は、バカ男っぷりを無限に発信していて、ある意味自分を貫いていて尊敬に値する。いや、しない。あの手の人間は、逃げていく最中に曲がり角でぶつかった鮫の感情に汚染された人間に喰われるのがオチってところだろう。やっぱり喰われた。鮫にも喰われない、B級映画のモブキャラみたいな男。

 いや、そんなことはどうでもいいんだ。

 俺は視線を、下に逸らしてから周囲へと振っていった。そうして現実から目を背けようとした。でも最初に見ていた。知っていた。分かっていた。首から上。紗安來の頭は、鮫に喰われてしまって、ない。死んだはずの鮫に喰われてしまって、ない。俺の紗安來。紗安來がいない。まだ俺と紗安來は繋がっているのに、紗安來の体と紗安來の頭は繋がっていない。こんな状況なのに、いや、こんな状況だからこそ、俺はまだ紗安來と繋がっていたいと思ってしまうし、実際にそうする。鮫は紗安來のすぐ後ろで暴れていて、今にも俺にだって襲いかかってくるかもしれない。でも、紗安來と同じ場所で同じ鮫に同じ殺され方をされて死んでいくなら、それは単純な悲劇なんかではなくて少しくらいは演出のきいたロミオとジュリエットみたいな死に方なんじゃないだろうか。ロミオとジュリエットを見たことはないから、その考え方が正しいのかどうかは分からないけれど。

 俺は泣いている。早く殺せ。喰え。俺を喰え。喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい。だから早く喰えばいいだろう。俺を、喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたい。感情ばかり押し付けてくるくせにどうして俺を喰わないんだ。

 捕食される側の恐怖。

 今この美術館の中で、恐怖を抱いている人間はどれだけいる?

 俺を除いたほぼ全ての人間じゃないのか?

 この鮫は恐怖を感じ取っているのかもしれない。紗安來は衆人環視の中でのセックスを拒まなかったが、一方でそこに不安や恐れを抱いてそれをそのまま快楽に昇華していた。それに漏れたホルマリンが足に付着し、喉は揮発したホルムアルデヒドで犯されていって、痛みから恐怖を伴っただろう。その恐怖をこの鮫は捕食される側の恐怖と思い込んだのかもしれない。恐怖を鋭敏に察知し、そして喰う。それがこの【生者の心における死の物理的な不可能性】の鮫。この展示品は、ただの美術品ではない。

 鮫は、芸術において多く狂気の対象とされる。

 狂気を他者に振りまく、そして恐怖を与え、更に狂気を蔓延させる。それがこの鮫の目的なのではないのだろうか。製作者における死へのアプローチと鮫の捕食への欲望、その両方を兼ね備えた展示品であるのではないか。それが作為的に行われたことであったらと感じ、僕は恐怖を抱いた。

 鮫が僕を見る。

 逃げるんだ。そうだ、ここで死んでもロミオとジュリエットみたいに演出のきいた死になんかならない。死ぬことに意義を見出すのは、残された側の人間であって死んだ側の人間じゃない。俺は紗安來の死が特別なものであったと記録する為に、今を生きなければならない。名残惜しいけれど紗安來から抜いた屹立したままのものを無理にファスナーの間からズボンとパンツの奥へと誘う。ズボンをずらしていなかったおかげで、すぐに走り出すことが出来た。後ろを振り向くと、床の上だというのに鮫はこちらに向かって移動してくる。じたばたとした動きとは裏腹に。なかなかのスピードで。床の上を滑るように。フォーチュンクッキーみたいなかたちの牙が人々の死を、このあとに訪れると予想する俺の死を讃美するようにガリチジガリチジ不気味な音を立てる。周囲のホルムアルデヒドを含有した空気に交じる鮫の感情が、鮫自身を礼賛し鮫の欲望が高まっていく。美術館の中を走る。

 その時になって気付く。いや気付いたと思い込んでいただけ。本当は知っていたのに、目を背けていた、もう一つの事実。鮫の感情が美術館の中にいた人々に狂気の種を植え付け芽生えさせた。それは決して俺だって例外ではなかった。俺の口の周りに付いた血。紗安來の血。鮫が紗安來の首から上を噛みちぎったあとに、最後の温度を最後の生命を首から啜って貪ったのは俺だ。分かっていた。愛した人を食べるなんて、あってはならない。あってはならないのに、あの時の俺は喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたいという感情に流されて、捕食される側の恐怖を知っていながら、捕食する側に回った。罪。だからこそ俺は、紗安來の死を意義を見出し、特別ななにかに仕立てようとしているのではないだろうか。罪。罪が付きまとう。涙を流したところで、これはホルムアルデヒドの刺激からきたものだろうか。俺には分からない。分かっていると思っても、全ては思い込みかもしれない。罪。分からない。分かっている。分からない。分かっている。

 後ろにいた鮫は今も変わらぬスピードで、じたばたとじたばたと俺のあとを追ってきている。なぜ俺なのか。

「なんで逃げるん?」

「紗安來?」愛する人の声。浮気性で性病を何度ももらってくる愛する人の声。走る速度が落ちる。

「どこ、どこにおるんよ」

「鮫。鮫と一緒におるんよ。やから逃げんとってや」

「鮫?」

 足が止まってしまう。嘘だったらどうする。俺の妄想。幻聴。もしくは、そうであって欲しいという思い込み。でも俺の前でちゃんと鮫は止まった。

「そう、鮫。鮫に首から上を食べられて、鮫と同化したんよ」

【生者の心における死の物理的な不可能性】という言葉。なんとなく、それが単純に【生きている俺に死とかいきなり見せつけたってまじ無理だから】っていう言葉に変換されて、まるで耳なし芳一みたいにびっしりと脳みその皺と皺の間まで、その言葉で埋め尽くされる。でも耳なし芳一みたいだと俺自身が感じたってことは、その言葉に埋め尽くされていない部分がどこかにはあるのだろうか。それとも、それともそんな部分があるということすらも思い込みだったりするのだろうか。耳なし芳一が怨霊に耳を持っていかれたように、俺も鮫にどこかを持っていかれたりするのだろうか。


 要するに紗安來の意識は生きているというわけだ。かといって鮫の意識が死んだというわけではなくて、当然のように鮫の体の中に存在している。欲望に忠実な鮫の意識はとても単純で、紗安來は簡単に喰いたい喰いたい喰う喰いたい喰う喰う喰いたい喰う喰いたいという意識を別の意識に向けることに成功したわけだ。今までの意識は食欲に完全に偏っていた。それを性欲に向けた。いかにも紗安來らしい。

「この鮫はな、イタチザメっていうねん。イタチザメってなんでも食べるんよ。死んでるもんとか、あとゴミとかも。やから、他のどの鮫より欲が強いってわけやん? そう思ったら、あとはちょちょいのちょいちょいちょいやん」

「いや、ちょい多いねん」

「そんなん別にええやん。まあ欲が強いってことやねんよ。そうなったら、あとは私のテクニックでな、鮫の交接器を刺激してあげたら一発。一気に交尾モード。それに、私も交接器二つ相手するん、なかなか興奮したし」

「はあ、そんな簡単なもんやねんな。っていうか、交接器ってなんなん?」

「そんなん女の子に言わさんとってや。えっち」

 紗安來の「えっち」という言葉の使い方が好きだ。でも今はその時じゃない。言葉を生唾とともに飲み込む。今は興奮している場合じゃない。今はその時じゃない。その時じゃないその時じゃその時じゃヤりたいヤりたいヤりヤりたいヤりヤりヤりたいヤりヤりたい。ここに飛び交う鮫の感情は感情を上塗りする感情。際限なく広がる感情の大海。青でも透明でもなく、ひたすらにピンク。

「ごめん。むりや」

 鮫のフォーチュンクッキーみたいな牙を愛撫する。ノコギリみたいになった牙に手を押し付け動かすと指が切れる。容易に切れる。

「ちょっと、なにしてるんよ」

「ムラムラすんねん」

 血が鮫の口腔内に垂れる。その血が喉の奥へ奥へと流れていく様子が妖艶で勃つ。俺は俺自身の血を紗安來が流した血と同じ血であるように感じてその血を見て勃つ。立って鮫の奥に頭から入ると俺は俺の全身が俺の俺自身の一部だったそれになったように思い込み、そうすると紗安來は鮫は紗安來のあそこであるように思い込む。手から血を流しながら紗安來である鮫の口の中を行ったり来たりする度にそるはさながらセックスとなりどんどん繋がっていく。

 俺と紗安來と鮫は三位一体となる。

 三位一体の根本は神。

 三位一体の根本は同一。

 俺と紗安來と鮫の感情は全てが同じ脳内回路を通って筋繊維に微かな電気を送る。一つ一つの微かな電気の流れを汲み取って変形させることも出来るが三位一体となった俺紗安來鮫にとって必要な変革なんてものがあるとすれば、コロンブスのたまごのような思いもしない思い込みもしない思い込ませもしない一点一条の光闇を裂く奇想天外摩訶不思議な気が狂った誰かの常識を逸脱した感情の殺害殺戮。死。

「喰う」

 誰の声が/俺が声が口に/牙/もうあらへん首から上に話してる声が/なくなった紗安來の首から上に/喰う喰いたい/ヤる/鮫の感情が大海の感情の感情が/大海/ホルマリンの中/揮発したホルマリンで固まった体でも/喰いたい喰う喰う喰いたい喰う/ヤりたい/美術館の全員を殺りたい/ホルマリン/ホルムアルデヒドの刺激で興奮して/勃つ勃つ/勃つ/立った警備員と/ヤりたいヤりたい/喰う喰う/ヤりたい。

 私を見つけてよ。

 四メートルを超えた体は、びちびち音を立てたまま警備員のお兄さん(結構イケメン)の方にどんどん、進んでいって私のあそこにするっと入る。すごい、一気に奥まで、でもちょっとサイズが足りない気がするのは、この鮫の体が大きすぎるからで、ちょっとさすがに迷惑。やっぱりフィット感って大事だ。いや、大事やねんよ。四メートルの鮫の口ってどれくらい大きいんかっていうたら、それはもう結構なインパクト。でっかい。いくら警備員のお兄さんがそれなりにでっかいっていうても、やっぱり鮫の口にすっぽり収まってまうくらいやわ。

「ちょっと小さなりいや」

 って、私がいうただけで、鮫の体はちょみーんって小さなって一メートル五十センチくらい。私の身長と同じくらい。

「歩きにくいわー」

 って、私がいうただけで、鮫の二つあった交接器が足に早変わり。やーん、最高やん。歩きやすなった。これで美術館の外で男喰いたい放題ヤリたい放題やん。って、なんなんこれ。私化粧とか好きやのに、顔とかそのまんま鮫やん。ありえへんわ。

「嫌やー、元の姿がええわ」

 って、私がいうただけで、美術館のガラスの扉に映った鮫が、私のめっちゃかわいい私の顔に変わっていく〜♡

 えっちなボディラインとか、やっぱり私の体最高やん。おっぱいはちょっとだけ元より大きいしたけど。そんなん誰も気付かんわ、ぜったい。

 それじゃあ、壊れてもおた【生者の心における死の物理的な不可能性】に変わる、私の【生者の心における死の物理的な不可能性】を作りに行こ。一緒について来てな、鮫さん。

 それと、一番一番ほんまに愛してるダーリンの――――。


(了)


【編集者コメント】

 鮫小説界という小説界の異端の場にありながら、更にその中で異端児と呼ばれる存在。それは誰がなんといおうと、散城姫乃子である。

 異端と呼ばれる所以ゆえんは、くどい文体、執拗なリフレイン、実在と非実在の融合、視点の取り込み・理解に苦しむオノマトペなど、この作品だけでも挙げ連ねるとキリがない。その奇抜な作品内容から、読むZ級映画と揶揄されることも多いが、一方でカルト的な人気が根強くあるのも確かだ。鮫小説界のマーク・ポロニアとでもいえば、分かる読者には分かるだろう。

 それでは散城の作品には奇抜さしかないのかというと、そういうわけでは決してない。散城の作品に共通しているのは、前半部分で物語がある程度完結、もしくは読者に問題を提起し終えていること。それともう一点、後半に魔性の女性が作品をかき乱すことだ。これについては鮫小説研究家と散城姫乃子研究家とで意見が別々であるので、鮫小説研究家の見地からの意見を申し上げる。

 散城は、散城独自のスリップストリームの形を模索しているのではないかと思う。あと単純に鮫映画がそれもB級・Z級の作りのものが好きなのだろう。そうじゃないと、こんな意味の分からない小説は書けない。言い方が悪かったかもしれない。しかし、しかしである。私は散城が、今現在の鮫小説界を牽引する旗手だと信じている。


 少し語り過ぎたが、話を『鮫の場所』に戻そう。

『鮫の場所』は、ポストモダンアート(という解釈でいいのかどうかは、美術の専門家に任せる)のダミアン・ハーストの代表的な【生者の心における死の物理的な不可能性】という作品が冒頭から出てくる。死の保存と可視化、鮫がアートにおける狂気の象徴であることなど、私のような美術関係に対して疎い人間であっても、この作品から考察ができるレベルのものの全てを散城は否定していく。これは散城が、自身のエッセイで語っていた『ファンをアンチに、あとなアンチはアンチのままでええ。アンチは愛しすぎとる故に憎いっちゅう愛情の裏返しの最たるもんやから。やってほんまに嫌いやったら、ほっとったらええねん。私はアンチに殺されたいねん』といっていたように、散城流のパフォーマンスの一つであるのは間違いない。誰かを、何かを否定する、そうすることでそれに関与した人間であったり、それを好んでいる人間の怒りを買う。しかし気付いた時には、怒りを覚えていた人間たちは、なぜか散城のテリトリーの中で散城を愛しすぎてしまうのだ。ポストモダンというのは、アートとモラルの関係性に訴えかけるものでもある。その点では、散城自身の作品もアートとモラルそのどちらにも語りかけるものに思える。散城は鮫小説の異端児であるとは最初に言及したが、異端であるということは枠に囚われていないということで、もはや、散城は鮫小説界隈に留まる人間ではないのかもしれない。十年、いや五年もすれば、彼もまたポストモダン鮫小説を書き上げているのではないかと、わたしには思える。


 地元関西に根付いた口語文は、読む人を選ぶという弱点があるが、テンポがよく思えるしどことなく嘘を感じにくい。リフレインは、作中の重要ワードを的確に繰り返す向きがあるので、その部分に注視して読めばどなたでもこの作品が意味することが分かるはずだ。いや、決して私が分からないので書けないのではない。少しは読者自身も頭を捻るべきであるし、それに文字数が予定よりオーバーしているので、そろそろ切り上げなければならないのだ。鮫映画はだいたい九十分で終わるのと同じで適切な分量というものがあるのだ。


 ちなみに【生者の心における死の物理的な不可能性】は過去に、作品自体の劣化で作品内の鮫を入れ替えたことがあるのだが、それを皮肉った内容にもなっている。それは紗安來の後半部分で鮫が紗安來に支配された部分、そしてそのあとに、鮫自身が紗安來自身になったところ。ああ、もうほんとうに文字数がやばいのだ。やばいので失礼する。



【原本】

 鮫の場所

 散城さんじょう姫乃子きのこ

 2000年

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