僕らは結局、次の授業をサボった。先輩は山谷の困り顔が見れなくて悔しい、なんて気のなさそうに言っていた。排水タンクの上に二人で、液体まみれの体を横たわらせ、やりとりのない時間が過ぎていく。


「なんで私、こんな虚しいこと繰り返してるんだろうね」


 突然、先輩は全然虚しくなさそうに言った。僕に聞いてどうするんだろうと思いながら、真剣になって考えてみた。暫く考えていると、ひとつ不謹慎な考えが出現した。


「人生を心置きなくやめれるように、じゃないですか」


 そう答えたのは、彼女はこの世に未練がないのを確認したら死ぬ気でいるんじゃないかという予感があったからだ。けれど、そんな不安は杞憂だと言わんばかりに、先輩はつまらなげな顔をした。


「意味わかんない。いや、多分理由とかないからさぁ。どんなこと言われても意味わかんないや」


 そう言いながら、彼女は何もしないということに努めた。何もせず、ただぼーっと空中を見上げて、不穏な雲の動きとかを目で追っていた。

 それを真似て、僕も少し空を見た。

 空は透明に見えた。濁ったり汚れたりしてない、いやに僕らを見下したみたいな色だった。悩んで、葛藤をして、そういう醜い足掻きをして生きている僕らを、あの空が嘲っているように見えた。


「環くん、駆け落ちとか興味ある?」


 先輩は、特別なことを言ってるようでは無い口調だった。体を起こして先輩の方を見る。彼女は空に手をかざして握ったり閉じたりしていた。


「駆け落ち、するんですか?」


「するー」


「それはまた、どうして?」

 

 先輩は、考えこむような素振りをしたけれど、それは多分、形だけのものだった。


「もう行き場がないからさぁ。ここ、退屈になってきたし。よくわかんない上手くもない人とヤリまくっても、虚しいだけって分かったしね。どっかでいい人を見つけて、その人と添い遂げちゃったりするんだー。そういうのが一番かもって」


 その、いい人って、誰?なんて野暮なことを聞く気にならなかった。先輩が繰り返す動作はまごついてて、らしくないのが気になった。


「環くん」


「なんですか」


「そんなんじゃモテないぞ、ほんとに」


 怒った感じで言われて、先輩の口から言われたからか、余計に凹んだ。昔フラれた時のことを嫌でも思い出した。


「環くんって優しいのに、そういうとこでマイナスかな。プラマイゼロに近い」


「総合点はマイナスですか......」


 悲観的になって言うと、先輩は可笑しそうに軽く笑った。


「そういうところだよ」


 先輩は手を伸ばして、僕の顔に触れる。鼓動が早くなったりしないよう、平静な風を装った。


「環くん、もう一度聞くけど」


 強い目になって、今度は特別なことを言う口調で僕に念を押した。ハイライトが淡くなった彩月先輩の瞳に、いつかの輝きを見た気がした。


「駆け落ち、しない?」


 そんなこと聞かれてなかったですよ、と答えたかった。嘘だろって狼狽した。先輩は今、確かに僕に向かって駆け落ちするかと尋ねた。

 唐突な問いかけに頭は混沌としていたけれど、答えは元々持っていたみたいに直ぐに取り出せた。お決まりみたいな沈黙が、規則正しく流れていた。


「構いませんよ」


 立ち上がりながら言った。僕はもう少し、格好つけたことを言いたかった。だからこんな、なんの捻りもない返事をする自分に幻滅した。

 先輩はさっきみたいに、可笑しそうに笑ってくれた。そのケラケラと楽しそうな音が、少し篭もってくる。それはいつの間にか嗚咽に変わっていた。

 濁々だくだくと涙が溢れ出す。彼女の心の内側にある汚れが、溶けて混ざったみたいな涙が。彼女が泣くのは、僕に悪いからとかじゃない。簡単に解剖できない感情なんだと思った。僕は静かに、彩月先輩を見下ろしていた。

 夕景になり始めた世界の中に、濁った色彩の水滴がおちて、少女を鈍色にびいろにしていく。寂しい色合いの景色になった。

 そんな光景が僕には、この世界で一番美しいものに見えた。汚れていて、綺麗じゃなくても。


「じゃあ、ダメだね」


 実は、その答えをもうなんとなく分かっていた。彼女の涙はとまらない。やっぱり、汚れた色をしていた。それについてのケチを百個考えても、たった一つ、美しいとおもった気持ちは侵されることがなかった。


「環くんがもっとやらしい奴だったりさ、嫌なやつだったら良かったのに。そうだったら私、君を地獄に道連れていけたよ」


 悔しそうな声で言った。本音を言えば、僕はその地獄とやらに連れていかれなかったことに、少しホッとした。先行きのない彼女について行けばおそらく、身の破滅は避けられない。けど、彼女のためなら別にそれも構わない、そういう気持ちも本心だった。


「僕、先輩のことが好きでした」


 それは今もなのかわからないけど、過去にそうだったのは確かだ。

 先輩は意外そうな感じもなく、立ち上がって僕の目線に近づくと、じっと見つめた。

 僕は臆すことなく、睨むような眼差しを返して覚悟を示した。

 先輩は、全部理解しているような顔をして黙っていた。


「私に優しくしてくれたのは?」


「未練ってやつだと思います。僕って、そういう生き物だったみたいです。どうしようもなく情けない、あなたの奴隷でした」


 僕の声は、発する度に感情が薄まっていった。嘘は言っていなかった。それが耐えられなかった。彩月先輩は視線を切って、僕に背中を向けた。セミロングが大気をはらんで揺れている。


「環くん、それ、自分の特徴みたいに言わないで。それはね、『普通』っていうんだよ」


 無言で傷つきながら、けれど、ちょっと誇らしくも思った。僕が普通以下から普通くらいになれたのは、彩月先輩を追いかけた日々があったからだ。


「でも私さ、普通の男には興味無いよ」


 一瞬、先輩は僕に視線をくれた。鈍色の涙は枯れていたけど、その跡は頬にこびりついていた。

 それはもう一生、洗い流せない汚れなんだろうと思った。


「良かったね」


 最後に、彩月先輩は一滴、涙を零した。

 ろ過されたように、純透明だった。




 翌日、東堂彩月は学校から消えた。

 人伝いにそれを聞いた僕は、特になんの感情を抱くこともなかった。彼女ならそうするかな、と思うだけだった。

 彼女の行方を知る者はいないけれど、今頃どっかで適当な男でも引っ掛けて、日々を食い繋いでいるんじゃないだろうか。皆もそう思うように、僕もそう考えた。


 僕は彼女から呪縛を受けていた訳ではなかったけれど、やましい事が無くなってスッキリした気分ではあった。

 それでもたまに、思い出すことがある。大気がぬるくて、空が透明な時。

 そういう時に僕は、訳もなく少し泣いてしまう。多分、あの時泣きそびれた分だけ。




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鈍色の五月 葉月空野 @all5959

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