鈍色の五月
葉月空野
彩月先輩
長い廊下の向こうがわ、漆黒のセミロングを軽やかにゆらし、陽光の照り返す床を踏んで、その
「おい、あれだろ。噂の淫乱な先輩って」
少女は、そんな不潔なレッテルに合致するところがなかった。淫乱、彼女をそう評価する人間ほど、僕にはどこか浅ましく思えてならない。
友人の峰田の声を耳から弾き出して、ガラスを打ちつけたような、澄んだ音色が近づいてくるのに耳を傾けていた。
通りすがる寸前、微かに彼女と視線を交わす。その一瞬、僕と彼女にしかわからない、曖昧な伝達があった。僕は彼女より少し早めに、視線を切った。嫌悪感が残留する。間隙を経て、少女は風のように通り過ぎる。ガラスを打撃する音はそうして遠ざかっていった。
「お前ほんといい加減にしろよ、聞いてんの」
怒ったトーンで問う峰田に小さく謝りながら、振り向かずに歩く。そういえば僕は、彼が購買に向かう間、喋り相手になる約束をしていた。
「悪い、
「いや、なんかじゃねえよ。さっきの女、男たぶらかして遊んでるって有名なあの動画の先輩だろ」
動画というのは、あるアダルト動画サイトに公開されていた、一本の動画のことだ。
「らしいな」
「あれが原因でバスケ部から干されたって聞いたけど、学校やめてないの考えると怪しいもんだな。つーか、あれで淫乱ってマジかよ。ギャップあるぜぇ......ちょっと興奮してこね?」
「そうな」
露骨に、おざなりの返事を繰り返す。この学校の生徒とは、あまり、彼女の話をしたくない。
峰田はこれでも良い友人だし、実に男らしく、素直な人柄なのだが、先輩を語る態度だけは好ましくない。彼との良好な友人関係を保つために、彼女についての話はしない方が懸命だと思う。
「
けれど、峰田は食い下がった。僕は少し考えてから、峰田の期待が潜んだ瞳を覗いて、なるべく普通なトーンで応えた。
「中学の時、告白したことあるよ」
マジか、という顔の峰田に説明を加える前に、ズボンのポケットでスマホが震えた。画面を開くと、LINEの通知だった。
『▶彩月先輩
いつものとこで待ってて。ちょっと遅れるかもだから』
振り返って、先程の少女の背中を探す。廊下には、教室から漏れる静かな喧騒だけが残って、そこに彼女はいなかった。うんざりして、峰田に聞こえないようため息をつく。
「悪い峰田、用事出来たから早く行こう」
昼休み、屋上の排水タンクを背もたれにして、購買で買ったサンドウィッチを噛んでいた。
五月の暑くも寒くもない温度に浸りながら、昔の彩月先輩を思い出す。東堂彩月は活発で、美人で、いつも物事の中心に居て輝く人物だった。男女問わず人気があって、僕のような凡人には遠い存在だった。
それでも先輩に憧れていた。先輩に手が届くよう、僕は身の丈に合わない努力をした。それでも、届かないのはわかっていた。わかっていたのに、がむしゃらだった。
そのがむしゃらな努力の記念、というか。どんなに建前を並べても、結局僕の往生際が悪かっただけなのだが。とにかく、僕は彼女が中学三年生の時に告白した。大気が生ぬるい季節のことだった。
あれから二年経った。高校に入学したその時から、彼女は既に噂の淫乱少女だった。
淫乱と呼ばれる彼女を目の当たりにして、困惑しかなかった。そういう彼女の姿が、まったくイメージできなかった。
そして、なんの奇縁なのだろうか。僕は今、彼女とこの屋上で奇妙な交流をしている。知り合い、友人、恋人、愛人、夫婦とか、男女の関係には必ず名前がある。
僕らにとってもそれは例外ではなく、この関係には確かに名前があった。ただ、彼女が『セフレなんて、響きが嫌だから口にしないで』というので、互いに口を噤んでいるだけだ。
そんな虚しい関係になりたい訳ではなかったのに、僕は、彼女との関係から逃れられないでいた。それは紐解いていけば案外、簡単な理屈なんだと思う。
ドアノブを回す音がする。その後に続く聞きなれた足音が、彼女の存在感を表現していた。
「環くーん、そこに居るー?」
浮ついた声で呼びかけられ、排水タンクから飛び降りる。見れば、彼女は大運動でもしてきたかのような汗をかいていた。着衣には乱れがあり、艶やかな髪は不細工に跳ねたりしていた。
「まさか、遅れるって」
「うーん、そのまさか、的な?」
イタズラがバレた子供のように、笑う。一見朗らかなその笑顔に陰りを見つけた僕は、いつか憧れたあの先輩の面影を、遠い記憶に感じた。
「怒ってる?」
「いつものことですし」
感情のない声でそう言うと、分かってるねぇと言わんばかりに微笑んだ。
先輩はフェンスを背もたれにして座り、持参していたビニール袋からデニッシュやマフィンなどを取り出して、可愛い舌なめずりをした。多分、ここに来るのを急いで、何も食べてこなかったのだろう。
「今日はねー、世界史の山谷ひっかけてきた。うちのクラス、五限が世界史だからさぁ、ムシャクシャして。あいつ、授業に集中すんの大変そうだねぇ」
うひゃーなんて言いながら、ニヤニヤといやらしいエガオを浮かべる。こんな風に、彼女はゲーム感覚で、自分の身をすり減らすことがよくある。そしてそれを厭わない。彼女は人生を弄ぶように、自らに課せられた劣悪な環境をさえゲームに巻き込んでは、むしろそれを蹂躙しているように見える。
「明日は誰にしよう......教師陣は粗方やっつけちゃったんだよな」
彼女は心を病んでいる、傍目から見ても明らかに。それを救ってやる人が必要だ。
けど、僕もいわゆる、彼女に弄ばれる側の人間で、彼女を救う人間では決してないのだ。彼女が堕落するのを眺めるだけの傍観者に過ぎない。だから、僕が責任を感じることじゃないと思うのに。彼女を救ってやれない癖に、僕の心は既に彼女の奴隷だった。
「ゆっくり食べていいっすよ。急がせちゃいましたし」
切り替えるようにそう言うと、彼女は目を丸くして、まじまじと僕を見た。何をそんなに驚いているのか、心当たりがなかった。
「え、いいの?時間無くなっちゃうよ?」
見れば、昼休みはもう三十分となかった。
「ああ、はい」
それが嫌だとか、構わないとか、極端な答えを言うことは出来なかった。多分、どちらでもないからだ。
先輩は急に黙り込んで、フェンス越しにグラウンドの方へ視線を向けた。先程までの態度はどこへやら、彼女は情けなくしぼんで見えた。
「私って、君のこと付き合わせてるけどさ」
そんなことを口にするのは、今までに無いだった。僕に謝るような、沈んだトーンで話していた。
「環くん、別にいいんだよ、ヤリ捨ててくれて」
そう言われると、その方が正しいんだろうなって思ってしまう。僕なんか結局、彼女にとっての何者でもない、たかが何人かいるセフレのうちの一人にすぎないのだから。彼女に情が入って、余計なことを考えるのはスマートじゃない。
「君のこと、こっぴどく振ったの覚えてないの? やり返したいなって思うなら、してくれていいんだよ」
やり返し......言われてみれば、考えたことがなかった。彼女を辱めることが、僕にとってのやり返しになるんだろうか。多分、そういう発想が元からなかったといえば嘘になるが、自分の意思で封印していたんだと思う。そうだと信じたい。
「いや、別に」
「シなよ」
「いや......いや、あの」
いや、ばかりが口に出た。嫌、なのか。否、な気もする。とにかく何かを否定したかった。
煮え切らないでいると、彼女はなにかを確認し終わったという顔で、僕を横目に見ていた。
すると、不敵に笑って僕を押し倒した。
「いいね、いいよ。環くんは素敵だね」
彼女はまた、笑った。ピエロのような笑いに見えた。目の下に、黒い涙を化粧した、笑われ者のピエロの笑いだった。
「じゃあ、シようか。素敵な子にはご褒美あげなきゃね」
大気よりも熱くたぎったものを帯びて、唇と唇が触れる。これから始まる虚しいやり取りのことを思うと、心のどこかで何かが壊れたような、痛烈な感触に追い立てられた。
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