第2話

サトハラユウコ 24歳 女性 の場合


 わたしが全力の全力で作ったうにのスパゲッティーニは、どこでなにをどう間違ったのか、うすらすぼけた味のくせにしつこさだけは天下一品で、二口食べて厭になった。食べ方だけは大変上手になったわたしなのだけれども。


 わたしにスパゲッティーニのよろしい食べ方を教えてくれたのは目の前に座っている大橋さんで、歯というのか櫛というのかフォークの先のところ、例えばそれが四つの股になっていたら、右半分の二本か一番端の一本だけに麺を少しすくって巻くと、ちょうど一口分くらいになるよと、大橋さんは千本北大路にあったパスクァーレというイタリアンレストランで実地にそれをやって見せてくれた。大橋さんの友達が、厨房に見習いで入っていた店だった。大橋さんは、なんでもいかにもおいしそうに、実に品よく、優雅に食べた。白いシャツの日でも、アラビアータを注文して余裕だった。全く問題なし。ほぼ全く問題なし。一度だけ襟の下のところに赤い染みをつけてでぇええええええ、と狼狽していたことがあったけれども、そのとき食べたい物をその日着ている服によって我慢したりしなくてもいいという素晴らしい技芸者だった。


 大橋さんはものの食べ方だけでなく、自分で作ることも上手だった。一人暮らしの娘には適当に道具さえ持たせておけば自動的に料理が出来るようになると思っていたらしいウチの親の予想と期待を大きく裏切るかたちで、ざるもボウルも流しの下の収納から外へ出されたことは一度もなく、わたしは下宿の一すじ上手にあるセブンイレブンの上得意となっていた。大橋さんと出会うまでは。


「めっちゃええ鍋あるやん! なんで使わへんの?!」

 わたしが毎日コンビニのサラダ巻きと焼きカレーパンと申し訳程度に飲むデルモンテの野菜ジュースで命をつないでいると知った大橋さんは、優子ちゃんそれなあ、何か作ったるわ、と言ってうちに来て、わたしに与えられた調理器具をざっと検分して大笑いした。もったいな! 


 それから大橋さんは大体週二か週三くらいで何か作りに来きてくれるようになった。しまいにふたりで一緒に暮らすことになった。わたしはまったく腕が上がらないまま二十四になった。親元を離れて六年経っても、野菜炒め以外出来なかったし、その野菜炒めもニンジンが硬かったり玉ネギのネギ感がものすごかったり、昔のイチローの打率ぐらいの割合で何らかの瑕瑾があった。


 先月の終わりから大橋さんはなんとなく元気がなかったけど、今週に入ってそれが決定的になってしまった。仕事ではいつも頼りにして、個人的にもとても慕っていた上司が、もっと上の人たちとの軋轢で、すったもんだの末に会社を辞めてしまったのだった。料理をするのを面倒くさがる大橋さんを、わたしは初めて見た。それで日曜日、お昼ごはんに、わたしは一念発起して近所のフレスコまでディ・チェコのNO.11とかいうのを買いにゆき、クックパッドと首っ引きで、うにのスパゲティーニなるものを作成した。生クリームはいつも大橋さんがコーヒーに入れる用のが冷蔵庫にあったし、うにの瓶詰はわたしの晩酌の友達だ。

 お湯を沸かしている時に、大橋さんは首の後ろをぼりぼり掻きながら起きてきた。ジャージ姿で。紐ほどけてるで。知ってる。大橋さんお腹出てきたよね。知ってる。大橋さんは般若の面のような顔でフライパンを覗きこんでいるわたしの写真をスマホで撮った。インスタにあげてもいい? あかんに決まってる。ええやんべつに。全然よくないいいわけない。ケチやなー。しょうもな。


 わたしはフォークを投げ出した。

「まっずいわー」

 大橋さんごめん、すべてにごめん、うににも牛にもイタリア人にも心から陳謝します、と頭をぶんぶん振ってわめくと、大橋さんは、そうか? おいしいで? と首を傾げた。おいしないわー、まずい、げきまず、「げきまず」のゲキは激しい方の激やと思う? 劇的の劇やと思う? わたしは後者やと思います、と言ってから切り子のグラスに入れた白ワインをあおると、ワインはちゃんとおいしかったので気分はわずかに持ち直した。

「ワインはおいしいしそれで勘弁して。ナナキュッパやったけど悪くない。悪くないっていうかふつうにおいしいし」

 一念発起のつもりやったのに実は軽挙妄動やったわー、と緑色のボトルをそちらに押しやると、わが師匠はさすが盤石のフォークづかいで長いパスタを器用に巻いた。

「うまいって。うまいうまい。もしホンマにまずかっても、優子が作った思たら何でもうまい」

 でも今日のところはホンマにうまいで、と大橋さんがあんまり言ってくれるので、ひょっとしたら次あたりからよくなってくるのかもしれない、と考え直したわたしはもう一度フォークを握って三口目を食べた。やっぱりまずかった。くそまずい。

「大橋さん」

「ああ?」

「ありがとう」


 大橋さんは、ディスポーザー送りになろうとしていたわたしのお皿の残りも食べて、わたしは結局ほとんどひとりでワインをあけて、鍋もフォークも洗わずに甲子園球場のデーゲームを流しているテレビの前で日が暮れるまで寝た。起きたら全部、きれいに片付いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

コウフクロン 灘乙子 @nadaotoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ