コウフクロン

灘乙子

第1話

ショウノシホ 22歳 女性 の場合


 この店にしておいたのはここのアップルケーキが大好きだからで、それはもう猛烈にシナモンがきいた、甘く鋭い香りの立つ、下品ぎりぎりの美味しいものなのだった。果実本来の風味がどうのとか、そういう小うるさい物言いを一切無視するすがすがしいシナモンの盛りよう混ぜようはもはやニアリーイコール漢方薬、その芳香とともに、アル・デンテというか頸の皮一枚でキープというか、むにっとした官能的な柔らかさの中心に絶妙な噛みごたえを残す煮リンゴがわたしに与える悦びと言ったら。


「なんでそんなこと言うん。急に」

 堂道君は落ち着いた低い声で訊いた。聞きなれた、心地よい低音で。急に、って、「何かもっと前振りとかしといた方がよかった?」わたしはことさら感じ悪い感じで訊き返した。

 堂道君はいや、いいとか悪いとかそういうことじゃなくて、と視線を落として首を振った。「なんでなん」


 もうそろそろ一年になろうかという付き合いを唐突に、強制的に終わらせようとしている理由を問われて、この先あなたを失うかもしれないという可能性を背負うのがいい加減しんどいのです、などという本心を言えるわけがなく、わたしはわたしと堂道君の間に置かれた紅茶のカップと、二つのアップルケーキと、コーヒーとその湯気を順繰りに見つめた。堂道君にはわたしの目が泳いでいるように見えたかもしれないけど、わたしはちゃんと、意識的に、それらを見ていたのだった。黒い液体から立ち上る白い水蒸気は、揺れ、ねじれ、天窓からの陽で美しく光った。


 ものすごく辛いことがあると、ひとは食べたものの味もわからなくなってしまうらしい。たとえどんなにおいしい好物であっても。それなら今この状況でこれを食べたら、やっぱりおいしくないのだろうか。砂を噛むような、というヤツになるのだろうか。捨てられるくらいなら先に捨てる、と言うと随分アグレッシブなように聞こえるかもしれないけれど、好きすぎて無理やわ無理もう、というふうに言ったら百人に一人か二人くらいは同情してくれるんじゃないだろうか。だいたい一年持ったこと自体がすでに奇跡なのだ。周りの友達もみんなびっくりしていたけれど、一番驚いていたのはわたしだ。間違いなく。なんでわたしなんだろういつまでわたしなんだろうと、常に思っていた。


「なんでって言われても」

 わたしは向かいの椅子の堂道君を見た。怒ってる? 悲しんでる? 困惑してる? グラフで描くとどんな感じ? 真円きれいに三分割でベンツのエンブレムみたいになる感じ? わたしってふざけてる? いえ、至って真剣です。真剣に苦しいわ。苦しんだ結果としての行動です。わたしの円グラフは苦しいと悲しいとしんどいとその他、できっちり四分割。その他のさらなる内訳は今考えたくもない。


「それはないんとちゃう? 俺はいややけど」

 堂道君は意外にも、意外にも食い下がった。堂道君は絶対にそんなことしないだろうと思っていた。堂道君に限って。たらしのドーミチ。とっかえひっかえのドーミチ。男前のドーミチ。


「わたしだってそんなこと言いたくないけど」

 もっと自分に自信があれば言わずに済んだかもしれない。その時はその時だと思えたのかもしれない。でもわたしは所詮わたしで、堂道君は堂道君だ。


「ホンマ何なん? 他に誰か出来た?」

 両手で額を覆って、堂道君は眉間の上を揉むようにぐいぐい指先を動かした。わたしは黙っていた。黙って堂道君の前にあるアップルケーキを眺めた。飾り気のない佇まい。細かい縁飾りのあるお皿の白と、焼きっぱなしの茶色のコントラスト。去年の七月の初め頃に、県庁前の横断歩道で、左手にサンダル、右手に折れたヒールを持って突っ立っていたわたしに、それ、どうしはります? と声を掛けてきた堂道君の自転車もこういう赤っぽい、ケーキの茶色だった。横断歩道の白いペイントの上に乗っていた。え、とりあえずあっちまで渡ります。乗りません? 後ろ。いえ、そんなん、申し訳ないし。でもほら、裸足やん。そっちだけ。あ、信号変わる。乗り乗り。ううん、ほんま、いいです。とりあえずあっちまで行きます。オッケー。で、靴屋行く? 家帰る? つーか家どこなん? 仏文科のひとでしょ? わたし? 英米文学。ああ、英米か。僕社会心理やねん。え、X大生? そう、何聴いてたんですか? これ? ジーザス&メリーチェイン。ごめん僕知らんわ。はは。知らん人は知らんと思いますよ。どんなもんでもそうやけど。せやね。でも僕、じぶんのことは知ってたで。


「わかった。もおええ」

 堂道君にとって否定以外は全て肯定なんかな。わたしは立ち上がった堂道君の広い背中を一瞬だけ見送って、すっかり冷めた紅茶を飲んだ。咽喉がカラカラになっていたことに、そのときはじめて気付いた。紅茶を飲み切ってから、順序違う、と思いながらケーキを食べた。リンゴとシナモンとシナモンとシナモンのケーキは美味しかった。いつものように、美味しかった。弾ける脳内麻薬。全然、味するやん。


 ドーミチってなんで庄野さんと付き合いだしたん? ほんまや、接点なくない? あー、道で拾った。横断歩道で。な? うん、まあ、そんなとこです。


 堂道君の分だったはずのケーキにも手を出して、さすがにわたしこれどうなん、と思ったけど、やっぱりケーキは美味しかった。ただ、今帰ろうとしても、脚が立たないだろうということだけはわかっていた。今後しばらく呆けて過ごすだろうこともわかっていた。わたしにしたらこれが最大級の賛辞と愛情表現だったのだけど、まあ通じへんよね、ってこともわかっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る