紙とペンと曇り空の夜に

淡 湊世花

紙とペンと曇り空の夜に

 夜行列車から見える景色が、真っ暗な田園風景に変わった。空には分厚い雲がかかっていて、夜だと言うのにほんのり明るく、青白かった。

 窓際に座った青年は、明かりの落ちた車内で、冷めた缶コーヒーを喉に流していた。

 車内は空席だらけで、寝るにはあまりにも静かすぎる。窓に額をつけて、曇った夜空を眺めたほうが、いくらかマシだった。


「あのう、すみません」


 その時、唐突に呼び止められた。

 青年は、思わずもんどりを打って振り返った。誰もいなかったはずの隣の座席に、いつのまにか、小学生ぐらいの女の子が腰掛けていたのだ。


「ちょっとお願いがあるんです」


 女の子は、控えめに会釈をしながら、つぶらな瞳で青年を見上げた。黒いおかっぱ頭に、ピンクの花の髪留めをつけていて、可愛らしい女の子だった。


「紙とペンを貸してくれませんか?」


 女の子は、青年の鞄の外ポケットを指差して尋ねてきた。ところが、青年は堪らず目を剥いた。


「どうしてここに、ノートとペンが入ってるって知ってるの?」


 青年のその疑問は、口に出せなかった。それほどに青年は驚いて、すぐには体が動かなかったのだ。

 だが、少女が怪訝そうな顔を向けてくる。青年は、一瞬頭をよぎった“超能力”なんて馬鹿げた単語を隅に避けて、女の子にノートとペンを差し出した。


「ありがとう」


 女の子は花のような笑顔を返した。青年は、ちょっと照れくさくなり、会釈した。

 女の子は、そのまま青年の隣に座って、ノートにペンを走らせた。静かだった車内に、カリカリと紙を引っ掻く音がよく響く。青年は外を見るのを辞めて、女の子の手元に目線を下ろした。


「……何書いてるの?」


「お兄さんが書けなかった、手紙を」


 女の子はペンを持つ手を止めて、笑顔で青年を見上げた。だが、青年は顔を引きつらせた。


「……なんで、それを……」


 今度は、青年の気持ちが声に出た。

 女の子の笑顔が、窓から差し込む薄明かりの中に、浮き彫りになる。

 だがその時、ちょうど電車がトンネルに入ったらしく、車内が暗闇に包まれた。



 青年の住まいも、いつも真っ暗闇だった。

 住まいといっても、六畳一間にトイレと風呂がついただけの、おんぼろ安アパートである。家具らしい家具もほとんどない。

 何しろ、青年は生活のほとんどを、務めている会社の中で行なっていた。残業に次ぐ残業で、夢の一人暮らしも、あまり思い出に残らなかったのだ。

 もうだめだ、逃げよう。

 青年の枯れた心を突き動かしたのは、同僚の女の子の通夜だった。


 あの日も、こんな曇った夜だった。彼女の通夜には、親族のほかは、少数の友人しか来ていなかった。同僚は、青年一人だけだ。

 彼女の突然の死に、参列者は泣き崩れていた。

 だが、青年だけは違った。彼女の顔に見惚れてしまったのだ。やっと安らかに眠れたような、彼女の柔らかな寝顔に、憧れを感じてしまったのだ。


 それから青年は、会社に行くのを辞めた。

 荷物をまとめ、ガランとなった六畳一間の小さなちゃぶ台の上に、ノートを広げた。

 ペンを握って、別れの手紙をしたためようとしたのだ。

 ところが、いくら待ってもペンは一歩も進まない。青年の心は空っぽで、一つの言葉も浮かんでこなかったのだ。

 仕方なく、青年はノートとペンを、カバンの外ポケットに入れて、家を出た。

 もう二度と戻らないから、鍵は閉めなかった。



 その時、電車がプワァーンと音を立てた。トンネルを出たのだ。車内に青白い光が差し込んで、青年と女の子が再び顔を合わせた。

 青年は微動だにできなかった。一方の女の子は、相変わらず柔和な笑みをたたえている。


「ねえ、お兄さん。これを見て」


 唐突に、女の子がそっと丸めた両手を、青年の前に差し出した。ゆっくり広げた手のひらに、ほんのり赤味のついた花が乗っている。


「……桜?」


 青年が答えると、女の子は頷いた。


「電車に乗る前に、見ていたでしょ?」


「……そうだったかもしれない」


 青年は思わず、窓から外の景色を見た。青白い雲の下に、灰色の山が連なっている。だが、ところどころがほんのり色づいていた。

 それを見て、青年は呟いた。


「桜が咲いてるな、って思ったんだ」


 駅前のロータリーに着いた時、青年は時刻表を見るために、一つだけ付いている電灯の下に寄った。小さな電灯の足元には、お地蔵さんがちょこんと立っていて、まあるい頭に、小さなピンクの花が乗っていた。桜だった。

 見上げれば、枯れ木みたいな木の枝に、色づいた蕾がポツポツ付いていて、開きかけた花も、一つだけ見えていた。


 もうこんな時期か。

 青年はしばらく、一つだけ咲いた桜を見ていた。最後の花見だと思って、見納めのつもりだった。


「桜が咲くと、どうしても見ちゃうんだ。なんでかな、不思議だよね」


 青年の呟きに、女の子がノートを抱きしめて答えた。


「あたしね、そういう気持ちを残しておきたいの。花の揺れ方、風の匂い、飲んでるコーヒーの味や温度。心の中に溜まっていって、思い出がお守りになるから」


 女の子は、青年にノートをそっと差し出した。


 「ねえ、この手紙、読んでみて? あたしが代わりに書いたから」


 女の子が青年に頼んだ。女の子の笑顔が、菩薩のようだった。

 青年はそっと手を伸ばして、女の子からノートを受け取った。恐る恐るページをめくり、最初の一業目を目で追った。

 そして、ハッと目を挙げた。


「君は、まさか……」


「ねえ、お兄さん。この電車は片道なんだよ。その手紙、本当に届けなきゃいけない人は、この先にいないよね?」


 突然、女の子が話題を変えた。

 青年は、女の子に尋ねられた途端、唇をギュッと噛み締めて、目線だけを女の子に返した。だが、女の子は構わずに続けた。


「ねえ、お兄さん、桜が綺麗だな、コーヒーが美味いな、まだ生きたいなって気持ちは、それだけで素晴らしいものなんだよ。心の中に、たくさんお守りを持ててるんだよ。だから、あたしを追いかけちゃダメだよ」


「なんでそんな事言うんだよ……。俺だって、もう……」


 青年は、噛み締めた口の隙間から、悔しそうに言葉を漏らした。目に涙がこみ上げて、肩が小刻みに震えだした。すると、女の子は手のひらに乗せた桜の花を、青年の少し大きな手の中に、そっと託した。


「ねえ、電車を降りたら、一つだけお願いがあるの。今度は、自分で言葉を紡いで。手紙でも小説でも、詩でもいいの、あなたの生きたいって思いを残して。もし、あたしみたいにダメになっちゃいそうな人がいたら、貴方が外に出したお守りの言葉で、助けてあげて欲しいの」


 笑顔の女の子が、薄明かりの中で次第に薄れ、青年がよく知る女性の輪郭を形作っていった。彼女は通夜では眠っていたが、今は儚げに微笑んでいた。

 その時、電車の速度が落ちていった。


「さあ、貴方の降りる駅だよ。あたしは、降りられないから、ここでお別れ」


 女性は青年を立たせ、背中をそっと押した。


「さようなら、長生きしてね」


 青年が電車を降りると、空には分厚い雲がかかっていた。鞄の中には、文字が書かれたノートとペンが入っていた。




 気づくと、青年は硬いベッドに寝かされていた。規則的な電子音が、時計の秒針みたいに音を刻んでいる。目玉をぐるっと動かして周囲を探ると、白いマスクをつけた女性が覗き込んできた。


「……橋下さん、橋下祐樹さん、わかりますか?」


「……はい……」


 病院の一室は、すぐに大騒ぎになった。沢山の看護師や恰幅のいい医者が、ひっきりなしに詰めかけ、青年の体をくまなく調べたのだ。

 ようやく落ち着いたと思ったら、青年の両親が、泣きはらした顔をして見舞いに来た。


「お前から遺書が送られてきたんで、慌ててすっ飛んできたんだぞ!」


「お母さんが貴方の家に入った時、貴方、死ぬ寸前だったのよ。生きててよかった、本当によかった……」


 青年が両親に見せられたノートには、丸くて小さな文字が並び、ひたすら生きたいと願う気持ちが、びっしりと綴られていた。

 青年は、酸素マスクをしていても、それが自分の文字ではないことに気がついた。

 青年の母親が、涙を拭いながら言った。


「貴方の恋人が、過労で亡くなったって聞いたわ。彼女のご両親も、何度かお見舞いにいらしてくれたのよ。貴方だけでも助かって欲しいって言ってくれたわ」


「同じ職場で、二人で助け合ってたそうだな。彼女が亡くなって、お前も辛かったと思うが、戻ってきてくれてよかった……」


 ああ、そうか。あの子が両親を呼んでくれたんだ。青年は、ぼうっとする頭で、あの夢の光景を思い出した。

 いったい、どこから夢だったのか、青年には分からなかった。

 だけど、一つだけ言えることがある。


「違うよ……、俺、彼女に追い返されたんだ……」


 青年は、病室の窓から空を見上げた。

 彼女は今頃、自分のしたためた手紙の出来栄えに、満足していることだろう。

 今日も曇り空だ。だけど、雲の切れ間から、綺麗な光が差し込んでいた。



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