妹な私
無月兄
第1話
楽器と言うのは不思議なもので、人が演奏している時はいとも簡単に奏でているように見えるのに、いざ自分でやろうとすると、びっくりするほど上手くいかない。
今私が手にしているベースだってそう。まともに音を鳴らす事さえ精一杯で、ましてや一曲弾くなんて、とても始めたばかりの私にはできなかった。
だからこうして、休みの日の今日も、部屋に籠って一人指の動きを確認している。アンプにイヤホンを繋いで、しっかり音が出ているか確かめる。本当はもっと大きな音を出したいけれど、そうしたら近所迷惑になるのでそこはグッとガマンだ。
もうすぐ高校に入学して軽音部に入れば、そこでいくらでも大きな音を出すことができるんだから。
その時、不意に部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「
「ユウくん! いらっしゃい!」
その声を聞いたとたん、それまで必死で力を込めていた指さえも離して返事をする。ドアを開くと、そこから一人の男の人が姿を現した。
やや白っぽい肌に、スッと鼻筋の通った端正な顔立ち。私よりずっと年上のその人は、私と、その手の中にあるベースを見て、フッと微笑む。その表情に、思わずドキッとした。
「練習、頑張ってるみたいだな」
「うん。まだまだ全然だけどね」
彼、ユウくんは、7歳年上の、私のお兄ちゃん……みたいな人。正確にはご近所さんと言った間柄で、小さい頃からまるで妹のように可愛がってもらっていた。
それは、私がもうすぐ高校入学する年になっても変わらない。今だって、休みの日にこうして私の家に遊びに来ている。
そして彼は、今私が持っているベースの、元々の持ち主でもあった。このベースは、少し前に、高校入学のお祝いとして貰ったものだった。
「今さらだけど、これ、本当に私がもらっても良かったの? ユウ君、とっても大事にしてたのに」
「ああ。高校に入ったら、軽音部に入るんだろ。俺は大学を出て社会人になって、音楽をやれる時間は確実に少なくなる。だからそれは、より沢山使ってくれる藍に渡したかったんだ」
そう語るユウくんを見て、頭の中に、これを構えて演奏する彼の姿が思い出された。
ユウくんのがベースを始めたのは、私と同じように高校に入学してから。クラスの人から、軽音部に入らないかと誘われたのがきっかけらしい。いつも一生懸命練習して、楽しそうに演奏して、大学に入ってからもそれは変わらなかった。私はずっと、近くでそんなユウくんの姿を見ていた。
改めて手にしたベースをゆっくりと眺める。ユウくんにとってこれがどんなに大事な物か、私は知っている。それをくれると言うのが、彼にとってどれだけ大きな意味を持つのかも。
「ありがとう。大切にするね」
何度も繰り返したお礼を今また改めて告げた。
「それで、調子はどうだ?」
「うーん。それがまだ全然」
本当は上達していると言ってカッコいい所を見せたかったけど、残念ながら今の私にそんな誇れるだけの技術はない。思った通りに音を出すのだって難しい。
「見てやろうか? 最初に変な癖がついたら、なかなか直らなくなるからな」
「いいの?」
声を上げながら、だけど内心ではどこかでそれを期待していた。ユウくんに教えてもらえる。そう思うと、それだけでワクワクしてくる。
「じゃあまずどうやってるか見たいから、いくつか音を出してくれないか?」
そう言いながら、ユウくんはアンプに自分で持ってきたヘッドホンを取り付けた。ちゃんと音を聞かないと教えられないのだから当たり前。だけどそうなると、必然的に私達の距離はより近いものになってしまう。
「じゃ……じゃあ、やるね」
構える私の指を、まじまじと見つめるユウくん。何だか変に緊張して、いつも以上に力が入る。そうして奏でられた音は……
「あぅ……」
思わず情けない声が出てしまうほどの変なものになっていた。
「押さえるのに、少し力が入り過ぎてるかな。それだと指が痛いし、動きだって悪くなる。指だけじゃなくて、手全体の位置をちゃんとした方が良いかな?」
「えっと……こう?」
ユウくんに言われた通り手の位置を調整してみる。だけどハッキリした正解を知らないから、これで合ってるって言う自信が無い。
するとユウくんは、スッと手を伸ばして私の左手を掴んだ。
「ひゃあ!」
その途端、思わず変な声を上げてしまう。だけどユウくんにそれを気にした様子は無くて、変わらない様子で説明を続ける。
「そう、この位置。あんまり押さえすぎないように、肩の力を抜いてリラックスして」
いつの間にかユウくんは私の後ろに回ると、抱きしめるように手を回す。細かく位置を教えるその手は線の細い体に反して意外と骨ばっていてゴツゴツしてて、男の人の手って感じがする。ついつい、浮き出る筋に目が行ってしまう。
「それじゃ、鳴らしてみて」
「あっ……うん」
いけないいけない。ユウくんは真剣に教えてくれているんだから、余計な事考えていたらダメだ。手に対する想いは封印して、今はただベースにだけ向き合わないと。
「こうかな?」
右手を動かした瞬間、ジャーンと言う小気味いい音がヘッドホンに響く一人で悪戦苦闘していた時に鳴らしていたのと比べると、見違えるほど。と、それはさすがに良いすぎ?
それでも、何だか嬉しくなって、2、3回続けて同じように音を鳴らす。
「ありがとうユウ……く……ん……」
お礼を言おうとして振り返って、だけどその途端言葉が詰まる。ユウくんの顔が、予想以上にそばにあったから。
(ち……近い)
ほとんど密着するような形で教えてもらっているんだから、考えてみればこうなるのも当然だ。だけど互いの吐息さえもかかるようなこの距離に、込み上げてくるドキドキを隠せないでいる。
だけどそんな私を前にして、ユウくんはあくまで冷静だ。
「いいよ。その調子で、次の音も出してみようか」
動揺なんてこれっぽっちもしていない様子で、にこやかに微笑んでいる。それを見てまだドクンと心臓が跳ねるけど、同時にちょっとだけ不満も込み上げてくる。
(ユウくんは、私がこんなに近くにいてもドキドキなんてしないんだよね。私が、妹だから)
ユウくんは私にとってお兄ちゃんみたいな人だ。小さい頃から可愛がってくれて、今もこうして面倒見てもらっている。
そんなユウくんに、お兄ちゃんとして以外の感情が生まれたのはいつからだったかな?もしかしたら、ずっと前から、ほのかにそんな思いを懐いていたかもしれない。
だけどそれは、あくまで私だけが持ってる想い。一方通行の恋心。
7つもある二人の年の差は、私に張られた『妹』と言うレッテルを取り払うにはあまりにも邪魔だった。
ユウくんにとって私は妹だから。だからこんな風に、何の躊躇もなく部屋にだって入ってこれる。そばにいても平気でいられる。
それが、とっても優しいお兄ちゃんに対する、唯一の不満だった。
「藍、どうかした?」
そんな気持ちが溜まってきたのかな。気が付くと、いつの間にか手が止まっていた。そんな私を不思議そうに見つめるユウくん。そんなユウくんに対して、ついこんな事を言ってしまう。
「ユウくんは、お休みの日に私に付き合ってていいの。本当はもっと他に、やりたい事とかあったんじゃないの?たとえばその、か……か……彼女とか、いないの?」
ああ、もう! 私ったら何を言ってるんだろう。言った傍から自らの発言を後悔する。
こんな話題を振るなんて、わざわざ自分から傷つきに行くようなもんだ。私の知ってる限りユウくんに彼女がいたなんて話は聞いた事が無いけど、ユウくんの事を何でも知ってるわけじゃ無い。もしここで万が一『いるよ』なんて言われたら、とても立ち直れる気がしない。
ユウくんはそれを聞いて、少しの間キョトンとしたように言葉を失っていた。だけどそのすぐ後に、またいつもの柔らかな笑みを見せた。
「心配してくれてありがとな。だけど俺、今まで彼女なんていた事無いから」
「そ、そうなんだ」
その言葉に、いったいどれほど安堵したことだろう。それと同時に、自分自身が情けなくなってくる。
一人で勝手に不満に思ったり、心配になったり、安心したり、いったい私は何をやっているんだろう。
それに、抱いた不安だってまだ完全に消えたわけじゃない。
「でも、付き合いたいなって思う人とかいないの? ユウくんカッコいいんだし、もしかして気になる人とかいるんじゃ……」
もしくは、ユウくんを気にしている人とか。
それは絶対いると思う。もし私がユウくんの同級生だったら、絶対もっとアタックしている。
「いないかな。それに、特に彼女とか作りたいとも思わないし」
「どうして?」
「今は、藍と一緒にいるのが一番楽しいから」
「――――っ!」
その一言で、続く言葉を失ってしまった。
ズルいよユウくん。そんな事言われたら、いつまでも妹扱いされる不満とか、彼女ができる心配とか、そんなの全部吹き飛んじゃうじゃない。
だけど相変わらずユウくんはそんな私の気持ちなんて知りもしないで、「藍とこんな話するなんて、何だか少し恥ずかしいな」なんて言っている。
「それじゃ、続き始めようか」
「……うん」
こうして私は、再びユウくんにベースの弾き方を教わる。相変わらず、粋がかかるほどの誓い距離で。
ユウくん。ユウくんがこんなに優しくしてくれるのも、一番楽しいって言ってくれるのも、私が『妹』だから、なんだよね。
『妹』でいるうちは、この気持ちは伝えられない。そう思うと、相変わらず心の中がモヤモヤする。
だけど今はまだ、もう少しだけ『妹』として甘えさせて。
いつかきっと追いつくから。私がユウくんに感じているような、ドキッとさせるような素敵な女の子になるから。
だからそれまで、もう少しだけ待っててね。
妹な私 無月兄 @tukuyomimutuki
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