ある春の夜のこと
吉晴
第1話
春の夜風と共に庭に人が入ってきた気配に、女は、はっと顔を上げる。
その顔に一瞬緊張が走ったものの、男を確認すると溜息をついて一言、
「また来たの。」
と言った。
朧月に映し出される狩衣は、忍び用とはいえ質が良い物であることは離れた場所からでも分かった。
焚き染められた柔らかな香が、女の所まで春風に運ばれてくる。
その演出だけでも充分だが、そうでなくとも彼は世の女性が黄色い悲鳴を上げる絶世の美男子である。
「また、とはひどい言い草だな。
お前によく似あう花を手折ってきたのだというのに。」
男は思わず苦笑を浮かべる。
だが部屋の縁側まで出てきている女の様子にはしたないと忠告することなかった。
前回それで眉をひそめたら一蹴されたのだ。
ー重い着物と『はしたない』という言葉を足枷に、女性を家の中に軟禁したいんですか。
へぇ、いいご趣味ですこと。ー
予想外の返答に、軟禁も何もそれが世間の常識だと反論したが、聞く耳を持たれなかったのも記憶に新しい。
男は少し離れたところに立ち止まると、手に持っていた花が女から見えるように差し出す。
その桜の枝を女はじっと見てから溜息をついた。
「馬鹿なことを。
そういうのはお姫様に言ってあげてください。」
きっぱりとそう言ってから手元の作業に戻る。
「それから可哀想だからもう枝は折らないであげてください。」
静かな声がそう続き、花を送って喜ばぬ女も珍しいと次の手土産を悩む。
頭中将は中流階級の女が面白いと言っていたが、この下の下のような女は物珍しくて面白いと今度言ってやろうと思うが、目の前の、この女だから面白いのかもしれないとも思う。
「手厳しいな。
今日もまたそんな庶民のような格好をしているのか、先日着物を送っただろう。」
彼女はまた軟禁だなんだと言うかとは思ったが、『お隣さん』からいただいたというお下がりは、貴族暮らしの男からみると余りに貧相でいたたまれなかった。
適当に品の良いものを見繕って歌を添えて送ったが、返事はなかった。
自分のセンスには絶対的な自信がある男としては、女の渋い顔が理解出来ない。
美しい贈り物を送られて、不機嫌になる者がいるだろうかと。
「あんな動きにくいものを着られますか。
私を何だと思っているんです。」
照れ隠しだろうという最大限の譲歩の上、男は静かに女に歩み寄り、その手を取る。
「愛しい人だといえば満足か。」
「大いに不満です。
邪魔しないでください。」
女はうっとおしそうに振り払う。
「それからいただいた着物は、売り飛ばすのは流石に申し訳ないのでやめました。
持って帰ってください。
あそこ。」
びしっと指さした部屋の隅には、先日送った箱がそのまま置かれていた。
男はかなり心は広い方だが、流石に気を害した様子で肩を落とす。
しかしすぐに気を取り直してにやりと笑い、やはり面白い女だ、と独り言ちた。
女の手元を覗き込むと見慣れぬものがあり、男は尋ねる。
「何をしているのだ。」
「籠を編んでいるんです。お隣さんが教えてくださったので。」
「お前が言うお隣さんとは、あの・・・」
「そうです、この服をくれた、山の下に住んでいるおばあさん。」
その老婆が彼女の一番のお友達だ。
畑の世話から飯の炊き方から、多くを学んでいると以前話していた。
臣下には下ったものの、天皇を父に持つ男としては、畑の世話をするなど、あり得ない、というのが本音だ。
だがここは落とすと決めた女の眼前。
「そうか、では私も勉強せねばなるまい。」
男としては出来る限り思いやりをもっての返答であったのに、女の方は無表情に男を見てあっさりと言った。
「いえ、必要ない知識でしょう、光君と称えられる貴族様のあなたには。」
男はついに溜息をついて頭を抱える。
「お前は、どうしてそうなんだ。
都の女は誰もが私の訪れを心待ちにしている。
こんな下々の生活をしているお前がその好機を得たにもかかわらず、なぜつれない返事ばかりする?
もう3度目の逢瀬だぞ。
そろそろまともに男女として語らってはくれぬだろうか。
切なくて胸が張り裂けそうだ。」
芝居がかった調子で訴える。
これに落ちぬ女はいないと思ってのことだ。
「やめてください、そんな、女々しい。」
ところがあろうことか女は男を睨み付ける。
「私はこの時代で生きていくのに必死なんです。
この籠は明日畑で使うんですから、月が沈むまでに編み上げて、早く寝たいんです。
邪魔しないでください。」
男は苛立ちをぐっとこらえて女の手を包む。
「私の妻になれば何不自由なく暮らせる。
ろうそくの明かりを節約して月明かりで籠を編むような苦労など、させたくはないのだ。」
女は顔を顰めた。
そんな表情をされることなど初めてで、男は肩を落とす。
彼の言葉に靡かぬ女などいなかった。
形式上拒んではいても、必ず心のどこかで彼を愛しく思ってくれていた。
それが女というものだと思っていたし、自分の価値だと思っていた。
こんなに邪見に扱われる等、後にも先にも例はないだろう。
「冗談は止めてください。
そもそも一夫多妻制は、私としては有り得ません。
生物学的にはありだとは思いますよ。
でも旦那をシェアなんて、気持ち悪くないですか。」
「し、しぇあ?」
「ああ失礼、共有ってことです。」
「その発想はなかった。
面白いことを言う。」
男はふむ、と頷いた。
「あなたは複数の女性に共有されているわけです。」
「そう私を物のように言うな。」
「失礼。
ですがあなたはあなたこそ女性を物のように見ているのでは?
複数の妻がいることがステータス・・・ええっと、自分の格だと思っているのではないですか。
雨夜の品定めで中流の女が面白いと聞いたから、今度は中流の女を探し回るなんて、ふしだらな。」
男ははっと女に詰め寄る。
「お前、あの夜の話を聞いていたのか?」
「いいえ・・・例えばの話です。」
その答えに安堵して、詰めた距離を戻る。
「ふしだらも何も、それが昔からの男女の営みだろう。」
「勘弁してください、そういうところがこのころの時代の嫌なところ。」
女は溜息をついた。
「なにが『このころの時代』、なのだ?」
「失言です、忘れてください。
私はもともと一庶民に過ぎません。
それにあなたがた貴族の暮らしは不健康で不衛生極まりない。
見栄ばかりを張るそんな生活、私には耐えられません。」
女は男を睨みつける。
「お前は本当におかしなことを言う。
理解できん。」
男は呆れたように言って、女の隣に腰を下ろした。
女は再び籠を編む。
「お前は風情のかけらもない。
女のくせに嫋やかさも、上品さも微塵も感じない。
早口だし、よく話して、偉そうだ。
心遣いのこの字も知らないらしい。」
「お褒めに預かりましてどうも。」
不貞腐れた返事に男は口の端をあげる。
「私の見ている世界を、お前はまるで違った視点から見ている。
話していて不愉快だが実に面白い。
こんなに面白いと思う女は初めてだ。」
「私なんかに言葉を尽くす暇があれば、藤壺様に・・・」
女ははっと口をつぐむ。
男の方も女の顔を凝視していた。
「・・・お前・・・、なぜそれを。」
「だめ、聞かなかったことにして。」
「ならん、お前はそれをどこで、誰に聞いた?」
肩をガシッと掴んで揺さぶりながら問いかけられ、女は視線を彷徨わせる。
「違うんですって、これは誰から聞いた話でもない。
ええっと、」
女ははっと何かを思いついた様に男の顔を見た。
「陰陽道を少しかじっていまして、分かってしまうんです。」
「は?」
「光君の過去も未来もお見通し、てなわけですよ。
おほほほほ。」
「何がおほほほほだ。
詳しく話せ。
陰陽道をやっていたら何でもわかるのか?」
「分かるわけないじゃないですか、あんなの。」
「ではお前はどこで何を聞いた?」
「さぁて、どこでしょう。」
女は空を見上げた。
彼女が生まれた時代の、彼女の育った街の空は、こんな満点の星はとてもじゃないが見られない。
「遠い遠い、未来で、でしょうね。」
「は?」
「ほら、これもまた私の面白い話の一つですよ。
さ、そろそろ帰ってください。」
「一晩泊めてくれないのか。」
「仕方ないですね、泊めるだけですよ。
また蹴られたくなければおとなしく向こうの布団で寝てください。
今日干したのでふかふかですよ。」
「明日の朝食はなんだ。」
「朝御飯も食べていくんですか?
では肴の一夜干しを作りましたのでそれを。
あとは畑でニンジンが取れたのと、山でキノコを採ったのでそれで色ご飯でもしましょうか。」
「なんだ、よく分からんが美味そうだな。」
「健康第一、馬鹿な慣習に流されず、もっと運動もして、しっかり食べるべきです。
人間も動物だもの。」
男はふっと妖しげに笑って、女の顎に指を掛ける。
「では夜の営みもせねばならんな。
動物として。」
「それはまた別の話。」
軽い音を立てて、女は男の手を叩き落とすようにして振り払った。
「とぼけおって。
だがやはり、お前が妻になってくれればいいのに。
他の妻と私を共有するだなんていわずに、私や他の妻の健康も管理して、面白い話をして、うまい料理を出してくれればいい。」
「それ、妻になる必要なくないですか。
雇えば済む話でしょう。」
「それは少し違うな。」
男は立ち上がって布団の方へと歩き出す。
「お前のように面白い女を、他としぇあするつもりはない。」
女はその背中をじっと見つめる。
「私はあなたとは生きてきた世界が違うので。」
「今は同じ世界で生きている。
それで十分だろう。」
男は女をちらりと振り返ってから、部屋の奥へと消えた。
残された女は自分の隣に置かれた桜の花に目を移し、それから再び籠を編み始めた。
ある春の夜のこと 吉晴 @tatoebanashi
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