暹羅猫の肖像

狸穴醒

暹羅猫の肖像

 美幸みゆきがその絵と再会したのは、まったくの偶然であった。

 彼女が数えで二十歳、満年齢でいえば十八の春のことである。




   壱.


「美幸……美幸!」


 呼びかけられて我に返った。

 硝子ガラス窓の向こう、傾きかけた日の下で、コンクリートの四角い建物と柳の並木が流れてゆく。

 少し混雑した都電のなか、ベンチ型の座席。羽織袴の旦那もいれば、美幸たちのように洋服姿の娘もいて、車内は外のざわめき、話し声、そして時折チンチンと鳴るベルの音で賑やかだった。


 そこで美幸は、友人の恵子けいこが心配そうに自分を見ているのに気づいた。


「ごめん、恵子ちゃん。ちょっとぼーっとしてた」

「大丈夫? 疲れた?」

「そ、そうかも。銀座なんて、久しぶりだったから」


 恵子は美幸をちろりと睨む。


「美幸はなかなか遊びにつきあってくれないもんね。働きすぎ」

「でも、貯金しないと。いつまでもお寺に厄介になってるわけにもいかないし」


 言いながら美幸は、ほうけていた理由を深く問われなかったことを安堵した。


「もー、ご住職だって美幸に出ていってほしいなんて思ってないでしょ」

「そう……かな」

「変なこと気にしてないで、またつきあってよ。わたし、今度はテレビ塔が見たいの!」


 赤坂に新しいテレビ塔が建ったという話は、住職から聞いた。この国で三つめの放送局になるのだという。

 一昨年、初のテレビ放送が始まったときには、商店街の電気店に大変な人だかりができたものだ。


「……」


 美幸は再び、窓の外に視線を彷徨わせる。

 色とりどりの看板がひしめき合い、穏やかな春の夕陽を反射していた。


(変わって、いく)

 たぶんそれは、いいことなのだろう。美幸の住む町の商店街でさえ毎月のように新しい店ができて、少し前まで焼け野原だったことを示すものは目につかない。

 けれど美幸は毎年この季節になると、落ち着かない感覚をおぼえる。


(兄さんは……どこでどうしているのだろう……)




   弐.


「わたし、伯母さんの家に寄っていくからここでね」

 そう言う恵子と停留所で別れ、美幸は乗り換えの都電を待っていた。

 しかし電車は遅れているらしく、待っている他の客は新聞を読んだり、手持ち無沙汰にあたりを眺めたりしていた。

(歩こうかな)

 ここから美幸の住む寺まで、一時間もかからないだろう。


   ◆


 暮れなずむ空を背に都電の軌道沿いに歩き始めて、二十分も経っただろうか。

 美術品を売る店が何軒が続いていた。すでに大半は店じまいして、灯りがついているのは一軒だけ。その前を、足早に通り過ぎようとした美幸であった、が。


「……!」


 それを目にした途端、胸をかれるような感覚に襲われた。

 足を留め、ゆっくりと顔を上げ、目に飛び込んできたものを確認する。


 二間ほどの小さな店だ。通りに面した硝子窓から、薄暗い店の中に詰め込まれた雑多な品々が見て取れた。

 美幸の目をひきつけたのは、景徳鎮風の壺と錦鯉の掛け軸に挟まれた、一枚の絵であった。


 ほとんど無意識に『古美術・古道具』と金文字で彫られた硝子戸を押す。番台にいた初老の男がこちらを見た。閉店間際の客だ、多少は面倒な顔をされたのかもしれないが、美幸は構ってなどいなかった。一直線に店の奥を目指す。


(やっぱり……!)


 洋画だ。さほど大きくない。

 その絵に描かれているのは、暗い部屋に置かれた椅子。

 窓から差し込んでいるのだろう陽の光で、椅子の天鵞絨びろうど張りの座面が明るく照らされている。

 その椅子の上で、二匹のシャム猫が遊んでいるのだった。


 美幸は美術などさっぱりわからない。だからそれが、どのような技法のどういう流派に属するものなのか知るよしもなかった。しかし――


(これ、昔住んでた家にあった……!)


 かつての、美幸の家。

 父が居場所にしていた茶の間、母のいた台所。縁側で背を丸めて本を読む、兄の姿。断片的に思い出される風景。

 その玄関先に、この絵は確かに存在していた。


「……っ」


 空襲の夜、父母と一緒になにもかも焼けてしまったと思っていた。それが思いがけず、こんな場所にあったとは。


「その絵が気になるのかね」

「わひゃっ!」


 おかしな声が出た。

 見ればハタキを手にした短躯の男が、美幸の後ろに立っている。美幸はようやくここが古美術の店であることを思い出した。

「あっ、あの、はい……! わたし、この絵をっ」

 舌がもつれる。そのときやっと、美幸は絵の端につけられた値札に気づいた。

(――あ。無理)


 美幸は逃げるように店を後にした。




   参.


 清泉寺せいせんじの住職夫妻には感謝している。縁もゆかりもない――と言うと夫人が怒るので口には出さないが――美幸に衣食住を提供してくれただけでなく、学校にまで行かせてくれた。

 けれどいつまでも甘えているわけにはいかないと思っているのは、恵子に話したとおりである。美幸は中学校を卒業したあと安く譲り受けたミシンを寺の自室に持ち込み、近隣から服の修繕の依頼を請けて、その対価を少しずつ貯めているのだった。


   ◆


 あれから、古美術商には何度も足を運んだ。

「今日も見に来たのかね」

「はい。ご商売のお邪魔はしませんので」

 店主はふんと鼻を鳴らした。愛想はよくないが、美幸が絵を眺めていると椅子を出してくれたり、ときにはお茶を振る舞ってくれたりする。


 美幸は近ごろ、修繕だけでなく服の仕立ても始めた。古本で手に入れた外国の雑誌をもとに作る洋服は町内の娘たちに評判がよく、美幸の収入は徐々に増えていた。「よくやるわね」と恵子などは言うが、彼女が一番の客でもあった。


(いつか必ず、連れて帰るからね)

 仕事を増やしたのはひとえに、絵を身請みうけするためである。

 絵の中では二匹の仔猫が、世の憂いなど知らぬ様子でじゃれあっていた。





   肆.


 桜が咲いて散り、梅雨が来て去り、夏が過ぎて、秋雨が訪れ、雪のちらつく年が明け、再び梅の花のころ。


 小雨の降る中、その日も美幸は古美術商に向かった。けれど今日は、ただ眺めるためではない。


(ついに……貯まった……!)

 美幸の懐には、かつて持ったことのない額のお金が入っている。この一年、あの絵を買うために身を粉にして働いたのだ。

 気が逸って、つい駆け足になる。


 注意散漫になっていたのだろう。店の前で人とぶつかりかけた。

「ひゃっ、すみません……!」

「いえ、こちらこそ」

 背広姿の若い男性にぺこぺこ頭を下げて、気を取り直した美幸は、硝子戸を押す。


(――うそ)


 異変には、すぐに気がついた。

 週に二度も三度も通って眺めたあの絵。美幸の知る限り一度も場所を移されていない、シャム猫が遊ぶ絵。


 それがあった場所には――ただ、からのイーゼルが立ち尽くしているだけだった。


「あの絵はどうしたんですか!?」

「……ああ、あんたか」

 血相を変えて食ってかかった美幸に、店主は気まずそうな顔をした。

「売れちまったんだよ、ついさっき」

「そんな……」


 美幸はその場に立っているのがやっとだった。

 やっと見つけたと、そう思っていたのに。なにも持たない自分の、唯一の拠り所が。

 二番目だったのだ。自分は、二番目の買い手だった。


「あんたががっかりするだろうとは思ったんだがね……」

 店主の言葉も耳に入ってこない。

「その人も、ずいぶん切実そうでねぇ。渡米前に間に合ってよかったって。昔の家にあった品を東京中探して、やっと見つけたんだと――」

「え?」


 唐突に意味が焦点を結んだ。

 冷たくなった胸が、また強く鼓動を刻み始める。


「そ、その人、どんな人でした!?」

「若い男だよ。二十四か五か、歳のわりにちゃんとした身なりで……ちょっとあんた、どこ行くんだ!?」


 美幸は店を飛び出した。

(買ったのはきっと、あの人だ)

 先刻ぶつかりかけた人。若い、背広姿の男。立ち去った方向は憶えている。

(まさか)


 ――昔の家にあった品を、東京中探して。


(まさか、まさか、まさか!)

 走る。傘もささずに水たまりを蹴立てて、行き交う人の好奇の視線もものともせず、走る。

(兄さんは、わたしの六つ上……生きていれば、二十五……!)

 自分で縫った赤い花柄のワンピース、フレアスカートが風に舞う。


   ◆


 恨んでなどいない。そんな筋合いがあるものか。

 大東京が炎に包まれた夜、兄はまだ十四歳だったのだ。

 彼は幼い妹を抱えて焼け跡を彷徨い歩き、そうして無事な寺を見つけた。


『どうかこの子をお願いします』

 少年はそう言って土下座したのだと、住職から聞いた。

 君はどうするのかと尋ねたら『おれは自分でなんとかしますから』と、呼び止める間もなく消えてしまったのだと、いう。


   ◆


「ひゃっ!」

 躓いた。転びはしなかったが、脚も心臓も限界が近かった。

 美幸はよろめき、近くの石垣に手をついた。石垣に背を預け、天を仰ぐ。つめたい雨が顔に降り注いできた。

(ああ……)


 ずいぶん走ってきてしまったが、追いかけた人の姿はどこにもなかった。


 頬を流れる水滴に、熱いものが交じる。

 きさらぎの雨に打たれて、美幸は涙を流し――


 ――笑った。


 美幸は声を上げて、泣きながら笑った。

 通行人が遠巻きに眺めて通りすぎ、やがて警官がやってきても、「すみません、大丈夫なんです」と言いながら、美幸は笑い続けた。

 その間、涙はずっと止まらなかった。


 一瞬の邂逅。

 顔を見る余裕はなかった。少し華奢だが姿勢がよく、凛とした後ろ姿だった。

『渡米前に間に合ってよかった』――そう言ったという。もう会うことはないかもしれない。けれど。


(生きていて、くれた)


 充分だ。あの優しい絵が、彼のもとにはある。それでいい。


 ひとしきり笑った美幸は涙を拭うと、背筋を伸ばした。

 そうして軽い足取りで、雨の中を帰っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暹羅猫の肖像 狸穴醒 @sei_raccoonhall

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ