卒業

吉晴

卒業

「第二ボタン?」

 後輩の突然の問いかけに、私は本を直す手を止めて振り返る。

「そうです。」

 聞き間違いではないことが確認できたので、書棚に本を直してから再び振り返り、彼から追加の本をもらう。図書委員の仕事の1つに返却された本を書棚に直す作業がある。これが案外重労働で、上の方の書棚の本を1人で梯子を登り降りして直すのは非効率だ。3年間図書委員を務めてきた私としては、2人ペアになって、1人が梯子に登り、1人が下から本を渡すことをお勧めする。もちろん、運動不足解消等の目的があるならば、励んでくれたらよい。ちなみに私は、運動不足よりもこの仕事のためにへとへとに疲れることの方が気に掛かる生粋の帰宅部だ。最近は現代文や古典の授業で使っているのか、全集やら歳時記やら、重い本の貸し出しが多くて骨が折れる。

「なんで一番目じゃなくて、二番目のボタンを渡すのか、知っていますか。」

 背中にもう一度問いかけられたので、古典全集をぐっと書架に押し込んでから振り返って見下ろすと、当の本人はこちらに背中を向けていた。気だるげな眼差しは、窓の外の二宮金次郎に向いている。昼下がりの日差しを受ける銅像は、熱心に本を読んでいた。彼は本校が出来て以来ずっと、あの本を読んでいる。きっと一文字も進むことなく。図書室でたまに本がなくなることがあるのだが、その犯人はあの二宮さんであるという怪談が真しやかに噂されている。それは奇談好きの司書の先生の作り話であると私は踏んでいるが、実際のところはどうだか知らない。こう見えて目の前の後輩も奇談好きで、1年生の時に図書委員になった理由がその怪談だと言っていた。そしてその銅像の真剣な読書姿が私に似ているなどと言うものだから、なんと返すべきなのか困ったのももう2年も前の話だ。

「心臓に一番近いからとかなんとかっていうのは、聞いたことはあるけれど。次。」

 次の本を渡すよう手を出して催促する。私には読みかけの本があるのだ。さっさと仕事は終わらせてしまいたい。彼はのんびり振り返って次の本を手に取って差し出す。

「あ、すみません。その説もロマンチックですよね。3年間、一番近くで心臓の音を聞いているボタンだなんて。」

「これで終わり?」

「はい。次僕が登ります。」

「頼んだ。」

 梯子を後輩が怠そうに持ち、返却処理済みの本を並べたラックを私が押しながら書棚の間を進む。

「次ここ。」

「はーい。」

 気のない返事をして後輩がゆっくり梯子に登った。

「あと、1番上が自分で、2番目が1番大切な人、3番目が友達、4番目が家族、5番目が謎とかいうのもありますよね。」

 登りきったのを確認して、本を渡す。

「その5番目の謎って何。ちょっと、その本、あと2冊左。順番通りに入れて。」

「あ、すみません。分からないから謎なんですよ。」

「定義するならちゃんとして欲しいね。」

「先輩ってちょっと捻くれてますよね。先人が考案してくれた想像の余地を大切に楽しんだらいいのに。」

「想像の余地ではなくて手抜きの間違いじゃない?それから友達と家族の順番もどうかと思うな。大切な人っていうのも曖昧だよね。好きな人という意味なのか、特別というだけなのか。例えば親友は友達と特別な人とどちらに分類すべきか。この棚は以上。降りてきていいよ。」

 後輩ははーい、とまた気のない返事をしてゆっくり降りてくる。図書当番も晴れて今日でお仕舞いだ。私の出席する卒業式は、明後日なのだ。

「先輩って無駄に捏ね繰り回して考えるタイプですよね。」

「少し考えたら誰でも思うことだと思うけれど。」

「そう思うところなんかが正にそういうタイプ。」

 私は空になったラックをカラカラと押しながら、後輩は梯子を抱えながらだらだらと、カウンターの方に戻る。

「あとあれです、戦争映画。神風特攻隊に出撃する人が、好きな人に自分に何もあげるものがないからということで第二ボタンをあげるっていう。こういうシーン、僕好きです。」

「ストーリーとしては確かに客の心に訴えかけるだろうが、形見が残る事に関しては良し悪しがあると思う。新しい恋に踏み出すのを躊躇ってしまいそうだ。本当に相手のことが好きならば、行動にも熟考が必要だろう。」

「先輩って、何かとケチつけて、恋愛小説読めないんじゃないですか?人生損していますよ。」

「すぐに人を型にはめるのはやめなさい。」

「はーい。」

 後輩は今日何度目かの気のない返事をした。彼の癖だ。人を型にはめるのも、生返事をして忠告を聞き流すのも。

「うちの高校、学ランじゃないですか。先輩はもらう予定ないんですか?」

「ありません。話題が提供できなくて申し訳ない。」

「そういうんじゃありませんて。」

 ラックと梯子を所定の位置に戻し、机の上に置いていた鍵を拾い上げる。

「じゃあ、あげる予定は?」

「あげる?」

 聞き間違えたかと思い隣を見ると、後輩も私を見ていた。

「ほらうち、女子の制服もボタンあるじゃないですか。」

 彼の言う通り、本校の女子の制服はボタンがあるセーラータイプで、上品なデザインが人気だ。

「そういうことって、あるの?」

「さあ 、知りませんけれど。」

 彼の視線が私のボタンに向かう。

「ないんですか?」

「え?」

「誰かにあげる予定です。ないならほら、」

 彼はちらりと私の顔を見てから、前を向いた。窓の外に佇む噂の二宮さんは真剣に本を読んでいるように見えて、実は噂好きだったら面白いと私は思う。一歩も進めず、一文字も進まない彼の日常はきっとひどく詰まらないだろうから。学校という無機質な白い箱の中での毎日は、何も変わらない日々の繰返しのようだと思ったこともあったが、案外そうでもないのだと、卒業式を目の前にすると思う。子どもと言って許される最後の3年間は、スイープという秒針が滑らかに動く時計のように確実に、そして思いの外早く過ぎていた。

「僕が貰ってあげてもいいですよ。記念になるでしょ。」

 いつもより少しだけ早口に、彼は言った。気だるげがデフォルトの彼にしては、楽しそうな顔をして銅像を見ている。

「なにその言い方。」

 思わずぷっと吹き出すと彼もにやりと笑った。

「明後日までに考えとく。」

「はーい。」

 ワントーン上がった声に、いつもそのくらいの調子で返事をすればいいのにと思う。私たちは並んで二宮金次郎の前を通り過ぎる。後輩の言葉を借りるならば、二宮さんはいつも通り、図書室から盗んだ本を真剣に読んでいた。

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卒業 吉晴 @tatoebanashi

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