2024年 ——震災から13年――

震災から13年が経って。


 2024年3月11日。昨日、前橋でのサッカー観戦から下宿まで帰ってきた疲れのせいか13時過ぎに目を覚ました。脂っぽく少し固まった髪と、枕に落ちた抜け毛を一瞥して「またやってしまった」と思いながら、シャワー室へと向かう。昨日から着っぱなしだったジェフ千葉のユニフォームを脱いで、入念に洗髪をした。顔や身体も洗い終わり、上気した顔をタオルで拭いながら、自分の部屋に戻った。ふとスマホに目を落とすと「14時46分に黙祷がある」という趣旨のツイートがそこにあった。僕は咄嗟にテレビのリモコンを探し、普段は滅多に見ないテレビを付けた。


 去年の3.11から、早くも一年。2023年3月11日は大学合格発表の翌日であり、早速下宿の下見に父親と行っていたこともあって、当日にエッセイを書くことはできなかった。現在進行形で書いているこのエッセイも、例に漏れず書き出しが遅かった為に日付を越してしまう可能性が大ではあるが。それはともかく、去年のエッセイは少しバタバタしている時期に、直近で見た映画『すずめの戸締り』の災害描写に絡めて無理やり捻り出したものだったので、今年は少し腰を据えて落ち着いて書きたい。

 

 私事にはなるが、今年は本当に色々な変化があった。先ほど早くも一年と書いたが、体感としては「結構長かったな」と思える一年だった。楽しい時は早く過ぎるというが、かといって長く感じる時間が楽しくないというわけではない。色々と思考を巡らせたり、趣味・嗜好が変わったり……。精神・物理的、両方の変化やダイナミズムが時を遅く感じさせることもある。特に、サッカー観戦が趣味になったことは外から見た時にも大きな変化に見えると思う。その理由については別の機会に譲るとして、さっそく本題へと移ろう。去年の3.11からまた一年が経つ間に、私事どころではない大きな変化が起きたのだから。


 2024年1月1日。元旦に、能登地方を中心とした大地震が発生した。気象庁によると「令和6年能登半島地震」と呼称されているこの天災は、石川県北端の珠洲市を震央としてマグニチュード7.6にまで達し、最大震度7の内陸地殻内地震だった。死者240名以上の犠牲を出し、津波による被害も甚大であった。特に震源地である珠洲市の市街地は家屋を中心に壊滅的被害を負うこととなった。現在でも避難・救助活動は続いており、まだ復興への目途は完全には立っていない状態である。

 僕は東京の下宿から千葉の実家に帰省していて、翌日には館山の祖父母の家に行こうとしているところだった。日本全国、誰しもが完全な正月気分で、僕に関してはサッカー日本代表戦をテレビで観ている最中だった。日本代表はアジアカップに向けた壮行試合として国立競技場にてタイ代表を招き対戦、5ー0で圧勝した。地震はその試合が終了した直後、16時10分頃に発生したのである。家の床が少し揺れたかと思うとガタガタと震え出し、一部の人々にとってはトラウマ的な、あの緊急地震速報が鳴り響いた。僕が住む千葉県北西部では、恐らく震度3~4であったと記憶している。代表戦はNHKで放映されていたため、すぐに画面は国立競技場から放送局のスタジオへと切り替わり、アナウンサーが懸命に気象庁からの情報を報告しつつ、地震への警戒を呼びかけ続ける姿が映し出された。続報で、日本海沿岸の広域に渡る津波注意報・大津波警報が発令されると、NHKのアナウンサー・山内泉さんは決死の表情で避難を呼びかけた。絶叫とも取れるその呼びかけはSNS上でも話題になり「流石はNHKだ」と称賛する声も多かったのに対し、「うるさい」などの心無いコメントも見かけられた。僕が特筆に値すると思ったのは、Twitter上での「13年前に被災した母親がアナウンサーの呼びかけを見て『なんでこんなに必死に叫んでるの』と不思議そうだった」というような趣旨のツイートだ。あの大災害を経験した当事者でさえ、13年もの時が過ぎ去ってしまえば、あの時の恐怖を忘却してしまうのか。喉元過ぎれば熱さ忘れるとは言うが、それは人それぞれだろう。忘れてしまう人も、忘れられない人もいる。だからこそ僕は言おう、忘れてはならないのだと。初任地が金沢放送局だったという山内アナウンサー。彼女の人々への叫びが、忘れられない。


 最近、僕はある本を読んだ。辻野弥生『福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇』。地元の千葉県、その旧東葛飾郡福田村大字三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)で起こった惨劇を取り扱ったドキュメンタリーである。1923年9月1日の関東大震災から五日後、壊滅状態へ陥った東京を中心に「朝鮮人が蜂起した」などの流言飛語が拡散されていた状況下で、香川から薬の行商に来ていた一行十五人が朝鮮人と誤認されて自警団による暴行を加えられ、九人が死亡した痛ましい事件である。この流言飛語は一般大衆の噂によって引き起こされた面もあるが、本書によると船橋海軍無線送信所が内務省警保局長の名で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せん」としているといったデマを全国に打電したことが明らかになっており、国家権力の責任も問われている。実際に、震災の翌日には習志野騎兵連隊が戒厳令下で朝鮮人虐殺に加担したという証言・証拠も存在している。この事件には朝鮮人への差別だけではなく行商人に対する職業差別や被差別部落に関する問題など様々な要素が絡み合っていることが本書で語られ、加えて被災地やその周辺での非日常化した状況で暴走する集団心理の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。3.11を考える上でも参考になる書籍だと思うので、ぜひ手に取ってみてほしい。


 何故、本題の途中でこの書籍を取り上げたか。もちろん3.11や能登半島地震と同じく大地震であった関東大震災に関連する書籍だということもあるが、より大事な点がある。それは、この事件が「沈黙の中で忘れ去られようとしていた」悲劇だったからだ。村人たちの手で朝鮮人と誤認して日本人を虐殺したという悪しき過去は、ほぼ全く野田市史などの公式文書には記録されず、村人たちも口を閉ざしたままだった。このままでは人々の中で完全に風化してしまうはずだった記憶を掘り起こしたのが、本書の著者・辻野弥生氏だった。地道な聞き取り調査や香川県の「福田村事件真相調査会」の協力もあって、2003年には事件発生地近くに慰霊碑が建立された。また、この事件を世間に周知させるべく本書の初版本が2013年に刊行。作家・森達也氏が監督を務めた映画『福田村事件』の公開まで辿り着いたのは2023年、去年のことだ。大震災と、それに伴った悲劇。これは百年以上前だから起こったもので、現代日本では起こりようがないと考えるのは早計に過ぎる。最近、耳目を集めているクルド人問題における排外的な主張が、彼らの居住地域での震災が今後起こった際に、一体どのように転化するのかを想像してみれば明らかだろう。混乱と恐怖という極限状態に陥った人々が、正常時よりも理性を失って集団心理に傾倒してしまうこと。それは3.11や能登地震の被害に遭った人々にとって、最も身に染みて理解できることではないだろうか。だからこそ、忘れないだけではなく、沈黙しないことが必要とされている。

 

 黙祷を、捧げた。本日の(これを書いている時点で日付を跨いでしまったが)14時46分にNHKのニュース番組での報道に合わせて、目を瞑った。3.11で被災された人々への想い、今までこのエッセイで綴ってきた自身の想い、コメントを寄せてくださった方々の想い、能登半島地震や関東大震災のことなど巡らさなければならない思いは、とても一分間だけでは収まりきらなかった。それに、ただって祈しているだけではいけないとも思った。だから僕は、このエッセイを今年も書いている。

 僕は、3.11も能登半島地震も、揺れは確かに体感した。しかしどちらも震源地からは離れた千葉で経験したもので、被災者とはとても言えないのかもしれない。それでも僕は自分が率直に感じた思いを心の内だけに留めるのではなく、このように言葉にし続けたいと思う。何より、大震災は首都圏の人間にとっては全く他人事ではない。ここ十年間はずっと南海トラフ地震や首都直下型地震の可能性がメディアを賑わせてきたし、直近では2月末~3月上旬まで千葉県東方沖を震源とした大規模な地震活動が確認されている。非常食の準備や避難経路の確認など、下宿先で震災に直面した時は何でも一人で対応できなくてはならない。他人事ではないのだ。自分事として受け止め、発信し、そして他者の発信にも確かに耳を傾け、理解を相互に深めていく。人々の声を、叫びを受け止め、語り継いでいく。もちろんまだ震災の傷が癒えず、沈黙せざるを得ない人々もいるだろう。今回の能登半島地震でも、親族や友人を失うことでそのような状態に置かれた人々も多くいるはずだ。そんな人々に「沈黙をやめろ」などとは言えない。しかし、先ほどのツイートの例でも見たように、時間が恐怖を忘れさせるということはあり得る。それによって例のように他者への想像力が欠如するのは問題だが、このように考えることもできる。時間というものは、沈黙に至らしめるほどの恐怖をも少しずつ解放していく力があるのだと。


 2000年に香川県で発足した「千葉福田村事件真相調査会」は福田村事件について「犠牲者はもとより、八十年近くも沈黙を続ける加害者側も解放しよう」という精神を掲げた。地震や津波などの大災害を前にしては、我々は皆等しく被害者かもしれない。しかしその後の対応次第では、それは「人災」へと転化しうる。誰かが加害者となり、誰かが被害者になるかもしれない。その時、被害者だけでなく加害者も恐怖や罪悪感から沈黙することがあるだろう。発生直後に声を出すのは難しいかもしれない。それでも、これだけはしてほしい。「忘れてはならない」のだと。強く、心の奥底に刻み込んでほしい。そして時が経ち、恐怖が薄れた時に改めて語って欲しい。これは「ほとぼりが冷めた頃に自白する」といったようなことではない。混乱と恐怖の中で起こり得る悲劇。心の中だけに滞留していた重圧を言葉にして、想いを外に出すことによって、被害者と犠牲者を共に解放する。そして「未来永劫、起こしてはならない」のだと教訓を残すこと。その為に、沈黙しないこと。このことが、今回の能登半島地震でもそうだし、発生から13年経った3.11の記憶継承においても求められている。特に、現在の中高生や更に下の年代の子供たちには3.11を直接経験していたとしても全く記憶が無く、大震災への恐怖という実感を持っていないことが殆どだ。そもそも現在19歳の筆者が6歳の時に被災してギリギリ覚えているぐらいなのだから、その一個下の年代から怪しくなるのは当然だろう。だからこそ、覚えている人々が自分たちの覚えた確かな恐怖を、その体験を、包み隠さずに伝えていくことが必要になってくる。それはただ格言のような教訓一言では足りなくて、実際の被災者や僕のような被災したとは言えないような経験者といった、様々な人々の「生の声」が混合して在ることが大事なのだ。東北地方で被災した人々の声だけが正しく、その他の地方で経験した「だけ」の人々の声は所詮「他人事」だ……そんなわけがない。多くの人がそれぞれ固有の声を、叫びを、持っている。能登地方から遠く離れた東京のNHKスタジオで、山内アナウンサーが叫び続けたように。声に出した叫びは確かに多様であるけれども、ただ一つ共通することがある。それは、震災を「自分事」として捉えているということだ。後から生み出された教訓を受け売りにして「他人事」として震災を語るのではなく。たとえ被害を受けたわけではなくても、実際に居合わせた体感や、後日のメディア報道から覚えた恐怖を、それぞれが「自分事」として心に刻み続けること。それを何年、何十年経った後も言葉にして語り続け、当時を知らない後の世代にとっても「自分事」として感じられるように。彼らが更にその後の世代へと語り継ぎ、そしてその連綿とした語りが、叫びが、未来永劫絶えることが無いように。

 その為の一助となるように、今年もこのエッセイを捧げます。

 また来年も、その時の率直な想いを言葉にしたいと思います。それでは。


                  西暦2024年3月12日1時57分 みしょうかん

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大震災の記憶 あの時、僕は。 未翔完 @3840

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