公爵夫人の秘密の引き出し

松宮かさね

公爵夫人の秘密の引き出し


 公爵家の奥方の部屋は、贅を尽くした調度品でしつらえられていた。

 粗相のないように気を使いながらの掃除も一段落し、メイドのルイザはホッと息をついた。汚れた水の入った木桶をどけると、その下に円を描いてたまっていた水をぬぐいとった。


(やり残しはないかしら。奥様にお気に召してもらえたら良いのだけど)


 十二のときから使用人として奉公にあがり、食器洗いや洗濯などのつらい下っ端仕事を経て、ようやく上階のやんごとなき方々の私室の清掃を任されるまでに至ったのだ。楽な仕事ではないが、体を酷使して働き続けた洗い場よりはよほどましだ。

 もし実直な働きぶりが夫人の目にとまれば、さらに条件の良い持ち場の担当に引き上げてもらえるかもしれない。

 やり残しがないことを確認すると、鏡台に向かい、結い上げた赤い髪が乱れていないかをチェックした。


 それから、おもむろにルイザはひとつの家具に目をやった。

 実は、掃除中もその存在が気になって仕方がなかった。奥方があんな意味深な言葉を残していったせいだ。


「ルイザ。そこの赤いタンスなのだけど」


 よそ行きのドレスに身を包んだ夫人は、子羊の革の手袋をはめた手で、紅褐色のマホガニーの洋ダンスドロワーズチェストを優雅に示した。引き出しは四段あり、横幅は子どもが両手を広げたほどの長さだ。


「それはさわらないでちょうだい。軽くホコリを払うだけでいいわ。決して引き出しを開けてはだめよ。とくに上からふたつめの引き出しは絶対に開けないで。いいこと?」


 そう言い置いて奥方は出かけて行った。


 ルイザはうずうずしていた。

(奥様も馬鹿よね。何も言わなきゃ用もなくタンスなんて開けたりしないのにさ。絶対に開けるな、なんて言われたら気になってしょうがないでしょ)

 二段目の引き出しの秘密とはなんだろう?

 趣味の悪い派手な下着でも入っているのだろうか。それとも、愛人からのラブレターでもたんまり隠してあるのだろうか。

 もしくはもっとえげつない秘密が……?


 見れば見るほどそのタンスが異様な存在感を放ち、ルイザを手招きしているかのようだった。

 中がとても気になる。ちょっとでいいから見てみたい。

 だが、あれほど注意されたのだ。バレたらまずい。


 ……よし。


 ルイザは心を決めた。

 バレたらまずいことは、バレなければいいのだ。

 そう決めたあとの行動は早かった。タンスの前に立ち、金の取っ手に両手をかけると、ゆっくりと引き出した。


 最初に引き出した一番上の段には、ハンカチや手袋など、当たり前の物たちがきれいに整理されて入っており、拍子抜けしてしまった。


(なあんだ。普通じゃない。でも問題はこの次か)


 当初ほどの期待は薄れていたものの、身を屈めながら、二段目の引き出しをそろそろと開けた。


「え」


 中を覗きこんだとき、一瞬、自分の頭がおかしくなったのだと思った。


 緑だ。

 引き出しの中には、青々と広がる夏の平原と、その片隅を占める森の光景が広がっていた。

 まるで本物の世界を切り取って、引き出しに似合う大きさに縮めたかのようだった。ごく小さいことを除けば、どこも本物と変わりないほど、とても精巧にできている。

 思わず喉の奥から変なうめき声が出た。なんと美しい。

 森の木々は指ほどの長さもないものの、無数の力強い葉を繁らせている。

 なだらかな草地の丘、蛇のようにゆるやかにうねる川の流れ。川幅の広くなる辺りには、こぢんまりとしたかわいらしい町までもがある。

 その町と街道らしき土色の道でつながった農村には広い麦畑があり、緑から黄金に変わりつつあるあわいの魅力的な色合いをしていた。


(なんなの、これ……。おもちゃ?)


 しかし、おもちゃにしては写実的すぎて怖くなるほどだった。どこから眺めても、大きさ以外は本物そのものだ。川の水もさらさら流れているし、木の葉はときおり風に揺れている。

 木立の陰を水面に映す緑の池などは、陽光を受けてとろりと輝き、そこに極小の魚が住んでいない方が不自然にさえ思われた。

 さらに、村の敷地内には柵で囲まれた草地があり、複数の白い麦の粒のようなものが点々と動いている。虫かと思い顔を近づけてよく見て、鳥肌が立った。

 それは羊だった。白い羊たちがゆったりと草を食んでいた。

 生きているのだ。


 現実にはあり得ない不気味な状況のはずだが、ルイザは気味悪く思うよりも、その箱庭の精緻な美しさに心を奪われてしまっていた。

 頭の片隅で、これは普通じゃない、早く立ち去れと、警鐘を鳴らす音がした。だが、もっと見ていたいという欲が、その声を無視し、存在しないものとしてしまっていた。


 そのとき、丘の上に何か動くものが登ってきたのに気づいた。

 それは、豆粒ほどの大きさの、金の髪をした若者だった。

 ずいぶんと時代遅れの衣装を身にまとっているが、公爵様の若君でも敵わないほどの美麗な装束だった。顔立ちも、背を伸ばし貴公子然として歩く姿も、今まで見たことがないくらいに美しかった。

 その側には、小バエのように小さな黒い犬が忠実に付き従っていた。

 若者は丘の上でひとりたたずむと、無言でどこか遠くを眺めていた。その目は、まるで何かを探し求めているかのようだった。


 そうして彼は、横笛を取り出すと曲を奏でた。聞いたことのない曲だが、古い民謡のようだ。郷愁を誘うもの悲しい音色だった。まるで血の奥に眠る遥かな記憶を掘り起こされるかのようになつかしかった。

 ルイザの心は、すっかりその音色と若者の虜になっていた。

 やがて笛の音がやんだ。

 若者は孤独な瞳で遠くを見やると、犬を従え丘を下り、どこかへ消えていった。


 その日から、 公爵夫人が部屋に不在の日には、ルイザは掃除を大急ぎで終わらせると、こっそり二段目の引き出しを開け夢中になって眺めた。

 幸い、公爵夫人は気づいていない様子で、一度も咎められることはなかった。

 美貌の若者は、いつも丘の上にやってきては、哀しい笛を奏でた。


 日が経つごとに、ルイザの貴公子への思いは深くなっていった。

 ある日、とうとう我慢できなくなって呼びかけた。

「どうしてそんなに寂しそうなんです?」

 若者は顔をあげて、初めてルイザを見た。針の頭ほどの瞳は、深い青だった。

「ぼくは世界にひとりなのです。どうして嘆かずにいられましょうか」

 そうか。この世界には彼しかいないのか。孤独なのだ。あの悲しい笛の音は彼の心そのものなのだ。

 そう思うとルイザの胸は締め付けられた。小さな貴公子にすっかり恋をしていたからだ。

「ああ、あたしがそちらへ行けたらいいのに」

 若者の美しさと、妙なる笛の音は、魔術のようにルイザの心をとらえていた。

「本当に来てくれますか? 美しい人よ。何もかもを捨てて?」

「ええ、もちろんですとも。あなたのためなら、何もかも捨てるわ」


 その直後、メイドの姿は部屋から消えていた。





「あらあら、楽しそうだこと」


 公爵夫人は、紅をぬった口元に笑みをはいて、引き出しの中を見つめていた。魔女のごとき妖艶な笑いのようでもあり、聖母のような慈愛にあふれた微笑みのようでもあった。

 丘の上では貴公子が笛を奏でていた。もう哀しい音色ではなかった。踊りだしたくなるような軽快な曲に変わっていた。

 引き出しのふちにほっそりした指をかけると、公爵夫人は愛おしそうに語りかけた。


「ようこそ。二番目のお客様」


 笛の音に合わせて、赤い髪の娘が陽気なダンスを踊っていた。くるくる回ってはひとつ手を叩き、またくるくると舞った。

 そして、青年と顔を見合わせ笑いあった。

 その傍らでは犬が腹ばいになり、うつらうつらしながらも、ときおり尾をゆるゆると振っている。


 喜びに満ちた笛の音は絶えることを知らず、いつまでも続いていた。

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