大軍師の梟

左安倍虎

大軍師と梟

 やはりひさびさの森は気持ちがよい。清浄な空気に満ちている。こうしておぬしの元から解き放たれてみると、やはり我には人の世界は少々騒がしすぎたかと感じられる。しかし今にしてみれば、ほんの一時であれ、おぬしのような変わり者と関われたことも悪くはなかったように思える。


 我の目の前には、おぬしが名を上げるきっかけとなった大樹がみえる。そういえばあの戦いもちょうど今と同じく、夕闇の迫るころ合いであった。皮を剥がれ、白く木肌が露出しているその部分には、忘れもせぬあの文句が書きつけてある。口数も少なく、いつも静かに我に微笑みかけていたおぬしにはとても似つかわしくない、激しい怒気の込められたあの一行が。


 思い起こせば今より十三年前、桂陵の地でおぬしが身を置く斉軍が魏軍を大いに破ったのが事のはじまりであった。梟にしては少々物見高い我は、弱いと侮られている斉がいかにして魏の精兵と戦うのかと空から見物していたのだが、不覚にも魏兵の流れ矢に当たり墜落してしまった。累々と横たわる魏兵の屍のなかから我を拾い上げ、懸命に介抱してくれたのがおぬしであったな。この地では不吉な鳥と忌まれる我を助けるなど、おかしな男もあったものだ。膝から下がなく、一人では歩けもせぬおぬしが手負いの鳥に気まぐれな同情心を起こしただけかもしれぬが。


 斉に大勝をもたらしたおぬしはそれでも謙譲な態度を崩さなかったが、自室で書見をする合間に、我に兵法を語ってくれたことはよく覚えている。喋れもしない鳥相手に何をしているのかといぶかしんだものだが、今思えばああして考えを整理していたものであろうか。桂陵で私が勝利できたのは、趙に出兵しているため空になっている魏の国都大梁をあらかじめ囲んでおき、慌てふためいて引き返してきた魏軍を討ったからだ──と聞いた時は、目が覚めるような心持になったものだ。そしてこの男に名を成さしめたい、という気持が頭をもたげた。この男に翼を与えれば、いずれ天までものぼるのではないか。我こそが、その翼になるべきではないのか。いつも離れたところから人の営みをみつめてばかりいた我に、はじめて人の世に介入してみたいという思いが芽生えたのだ。

 

 それならば、我が人語を解するということをどうにかしてこの足の立たない軍師に伝えねばならない。ある日、おぬしが六韜りくとうの竹簡の欠けた個所を探しているのを見た我は、部屋の隅からそれを拾い上げ、空いた部分に嵌めた。いつも冷静なおぬしが、あの時ばかりは目を丸くしていたことをよく覚えている。あの日以来、我の前に「正」と「否」の字が書かれた二枚の木片を並べ、我にいくつもの問いを発するのがおぬしの日課となった。今日の天候にはじまり、やがて質問が政治や外交、軍事に及んでも我が一度も間違った木片をつついたことがないのを知ると、おぬしは我を間諜に用いるようになった。我は四方の国々へ飛び、それぞれの国の内情を精確に伝えた。歳月が経ち、魏がふたたび兵を発して韓を攻めたことを知ると、おぬしは魏の大将は誰だ、と我に問うた。我が「龐涓ほうけん」と書かれた木片をつつくと、おぬしは会心の笑みを浮かべたものだ。これでようやく私を無実の罪に陥れ、この両足を奪った男を葬ってやれる、と。


 おぬしと龐涓ほうけんとは同じ師から兵法を学んでいたと聞いているが、二人の間にどのような因縁があったのかは知らぬ。ただ、おぬしから聞かされた作戦の全容を知り、おぬしの怒りのすさまじさを理解したのみだ。韓を救うため田忌でんきに従って斉を進発したおぬしは、龐涓ほうけんの油断を誘うため、まず十万個のかまどを作っておき、これを五万個、三万個としだいに減らした。日に日にかまどから立ちのぼる煙が減っていくのを見てとった龐涓ほうけんはおぬしの読み通り、斉から逃亡兵が続出していると錯覚し、急ぎ斉軍を追ってきた。おぬしは馬陵の隘路の両側の山に兵を伏せ、龐涓ほうけんを迎え撃つと決めた。

 だが、この地で確実に龐涓ほうけんを討つには、かれをこの場に足止めせねばならない。隘路が死地であることくらい、龐涓ほうけんとてよく知っている。何もしなければ、龐涓ほうけんは急いでこの地を通り抜け、おぬしは好機を逸するだろう。なれば我の出番だ。夕闇が濃くなり、ようやく隘路にさしかかった龐涓ほうけんの着物の袖を、我は必死で引いた。三白眼で我をにらみつけたあと、龐涓ほうけんは我がとまっている大樹の木肌が白くなっていることに気付いた。火打石で火を点け、龐涓ほうけんが木肌に目をやると、そこには


 ──龐涓ほうけんはこの樹の下で死ぬ


 と記してあった。林間に火が灯るのを見て取った斉軍は、その火めがけて一斉に弩を放った。魏兵の阿鼻叫喚が辺りにこだまするなか、龐涓ほうけんがみずから頸をはねるのを見届けると、我はその場を後にした。


 しかし、この戦いの真相が世に知られることは、おそらく未来永劫ないであろう。我には我の果たした役割を語る口がなく、我を見た魏兵もみな死に絶えてしまったのだから。そしておぬしもまた、我を用いたことを語らぬであろう。「梟が戦の役に立つと知れたらお前の仲間が狩りだされ、森で静かに暮らせなくなる。それはよろしくない」などとおぬしは言っておったからな。しかし、それも果たしてどこまで本心であろう。おぬしは本当に我の身の上を案じているのか?己が兵法の実態を知られては困るというだけでのことはないのか?──とまあ、余計なことを考えてしまうのも、おぬしの口癖のせいだ。兵は詭道なり、であったか。手の内を明かさないことこそが戦術の基本だと、そうおぬしは説いていたではないか。なあ、孫臏そんぴんよ? 

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