第12話

 時計は午前4時半を指していた。周囲はまだ仄暗く、太陽はまだその姿を稜線の陰に隠していた。湖面は波ひとつ無く、鏡となって遠景の山肌や集落を逆さに映している。鳥の声も無く、辺りは静寂に包まれていた。ふわり、と煙がたなびく。湖に向かって伸びる桟橋のたもとで、孝次が煙草に火を点けたのだ。ジッポーの蓋を閉める乾いた音だけがそこにあった。煙草の煙を深く吐きながら、こればかりは止められそうにないな、と孝次は思う。身体に悪いことは重々承知していても、煙草の楽しみは、いかんとも捨て難かった。それもまた良いだろう、という感情が彼の中にあるのもまた事実で、心を病んで以来、その傾向はより強くなっていった。しかし、孝次は鱒釣りに臨む前の煙草を心から楽しんでいて、それは自暴自棄とも諦観とも異なる態度だった。戦国武将が決戦に臨んで茶を一服するがの如く、彼は煙草を吹かす。幾度となく繰り返されてきた儀式さながらに、それは無くてはならないものだった。少なくとも、彼にとってはそうだった。

 ぱしゃり、と水音が響く。音のした方に孝次が目を向けると、桟橋から10メートルほど先の水面に波紋が広がっていた。ルアーの届く距離で、鱒が虫を狙ってライズしたのだ。足元に目線を転じると、群れた小魚の魚影があった。西村が言った通り、公魚が産卵のために接岸している。それを眺める孝次の眼差しは何処までも穏やかで、あたかも眼前の湖面のようだった。感情の波は無かった。これほどまでに澄み切った気持ちで鱒釣りが出来るのは久し振りだな、と彼はしみじみ思う。感情はニュートラルで、嬉しさともまた違った充実感に包まれていた。鱒が再びライズする。孝次は煙草の火を灰皿で揉み消すと、足元に横たえてあった準備済みのロッドを携えて、桟橋の先端へ歩み寄った。

 大きく息を吸って、吐き出す。右足を半歩引いて、身体を斜めに構えると、孝次はおもむろにサイドハンドキャストでルアーを解き放った。銀のルアーが空を切り裂く音が小気味良く響き、着水して波紋が描かれる。幾度となく目にした光景。その見慣れたはずの光景は、決して彼を飽きさせることは無かった。10カウントを計りながら、孝次は昨夜の決意に思いを馳せていた。棚にルアーが到達したタイミングに合わせて、リールを巻いてルアーを泳がせる。気負いすぎてもいけないな、と彼は思う。今まで、何度もそれで失敗してきたのだ。けれども、負けるつもりで闘いに臨む気も無かった。後悔も、諦念も、期待も、あらゆる感情が仄暗い湖面に吸い込まれていくかのようだった。自分でも怖くなりそうなくらい落ち着いていた。ルアーを巻き取ると、再び鱒がライズした。そこを目がけて、彼はピンポイントでルアーをキャストし、浅めの棚を泳がせて探る。10カウントで中層を探り、鱒のライズがあると表層に切り替える。その繰り返しが、たまらなく楽しかった。楽しい、などという一言では語り尽くせない喜びが、そこにはあった。なんて気持ちが良いんだろう、と彼は思う。もちろん、鱒が釣れるにこしたことはないが、釣果の有無は関係無しに、ただひたすらに気分が良かった。

 鶯の鳴き声が聞こえ、啄木鳥が切り株をつつき始める。接岸した公魚を狙って、翡翠が鮮やかな羽を翻した。対岸からは踏切の警報音と、列車がレールを走る音が一定のリズムを刻み始めた。大糸線の始発列車が駅に着いたのだろう。あらゆる活動が始まりの兆しを見せていた。翡翠が湖面にダイブし、長い嘴に公魚を捕らえて、元いた枝に飛翔する。嘴に挟まれた公魚が身体をくねらせ、陽光を受けて銀色に煌めいた。それは、さながら命の輝きそのもののように孝次には思えた。

 午前6時を過ぎて陽は高くなり、サングラス越しの景色が明確な色彩を持って現われ始めていた。朝のマヅメ時が終わりに差し掛かろうとしている。鱒のライズはいつしか止んでいた。彼はルアーを巻き上げると、ロッドを桟橋に置いて、煙草に火を点けた。紫煙をたなびかせながら、足元に視線を向けると、公魚が未だそこかしこに群れを作っているのが見える。連綿と続けられてきた生命の営みがそこにはあった。煙草を吸い終えると、孝次はロッドを手に取り、もはや何度目かも分からないキャストをした。ルアーの着水と同時に10カウントを数え、緩急をつけてリールを巻きながら鱒を誘う。その時だった。突如、リールのハンドルが動きを止め、ドラグが悲鳴を上げたのだ。釣り人は針が根がかりした時に冗談めかして「地球を釣った」と言うことがあるが、この反応はまさにそれだった。孝次は内心で舌打ちをしながら、どうにか針を外せないものかとリールのハンドルに力を込める。しかし、すぐに様子が違うことに彼は気付いた。ドラグは変わらず悲鳴を上げているが、ハンドルは重い手応えながらも巻くことが出来る。もしかして、と彼の瞳に期待の色が宿る。そして、期待が確信に変わるのには、さほど時間はかからなかった。鱒がヒットしたのだ。

 はやる心を抑えつつ、孝次はリールのハンドルを巻き続けた。鱒はとても頭の良い魚で、針を外すのも上手い。ラインをゆるめずにテンションを保ち続けなければ、わずかな隙を突いて鱒は逃げてしまう。粘り続けて、やっとの思いでテニしたチャンスを、何としても、ものにしたかった。慎重に重いハンドルを巻き続け、ついに魚体が姿を現した。鱒が水飛沫を上げて最後の抵抗を試みる。ここで迷ったら駄目だ、と孝次は平静を保つために自らに言い聞かせる。そして、ロッドを立てて鱒を引き寄せ、左手のランディングネットで掬い上げた。ついに、念願の湖の鱒を得たのだ。

 孝次は陽光に煌めく銀色の鱒を無心に眺めていた。そこにあったのは、達成感でも、疲労感でもなく、ある種の敬意のような感情だった。鱒のサイズは30センチほどで、いわゆる尺ものと呼ばれるものだ。湖の鱒としては標準的だが、大きさは孝次にとっては、さほど問題では無かった。鱒を釣り上げた、その事実こそが重要だった。鱒は喘ぐかのように口を開けて呼吸を繰り返していた。孝次は両手を湖水に浸して冷やし、魚体を傷つけないように手早く針を外す。ずっと眺めていたいと思えるほどに蠱惑的な美しさをたたえた鱒だったが、いたずらに鱒を苦しめるのは彼の本意ではなかった。孝次がスカリに鱒を移すと、鱒がびくり、と跳ねる。そのまま湖水に浸すと、鱒は何事も無かったかのように、そこに悠然と佇んでいた。近くの公魚の群れが散開し、遠巻きに再び群れを作った。孝次はロッドを桟橋に置くと、胸ポケットから煙草を取り出す。つい先程までの鱒の重く力強い感触が残っている。それは、煙草の箱を落としかけるくらいに強烈なものだった。微かに震える手で煙草を咥えると、彼はぎこちなく火を点けた。紫煙を深く吸い込み、深く吐き出す。それはリラクゼーションと呼べるものではなく、あたかも、呼吸困難に陥った者が酸素を求めるが如き避難行動だった。軽い酩酊状態の中で、まるでこの鱒みたいだな、と彼は思う。ぼんやりと、そんなことを考えつつ、桟橋から足を踏み外さないように注意深く歩みを進める。ようやくベンチに辿り着くと、彼はおもむろに腰を下ろした。少しずつ、頭の中の霧が晴れていく。長くなった煙草の灰を灰皿に落とす。しゅっ、と火が消える音が耳に心地良かった。

 時計は午前8時を回っていた。流石に鱒がルアーを追わなくなる時間帯だ。孝次は湖水に浸されたスカリの中で佇む鱒をじっと見つめていた。陽は真正面から差し込み、それを受けて鱒の魚体が煌めく。ため息が出そうなくらい美しい鱒だった。背後に気配を感じて孝次が振り返ると、そこに西村がいた。孝次は口角を吊り上げて、にっ、と笑う。西村はそれに穏やかな笑みで応えた。

「夕食にありつけそうですよ」

 冗談めかして孝次が言った。

「それはようございました」

 西村がにこりと笑う。鱒が、ぱしゃり、と水音を立てた。

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湖畔 瀬山 響 @kyo_seyama

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