第11話
「お帰りなさいませ」
宵闇に染まるレッドブレスト・マナーの扉を開けると、西村が恭しく礼をした。孝次も片手を上げて応える。心地良いくすぐったさを感じつつも、彼の胸中を占めていたのは、ほんの数時間余り前に釣った岩魚の躍動と、釣り場で出会った少年の大人びた雰囲気だった。
時計は午後七時を回っていた。孝次は多少の空腹を覚えていたが、何より酒が飲みたい気分だった。
「少し飲みたいんですが、何かつまめるものは用意出来ますか」
「それでしたら、シェフに軽食を用意させて、バーまでお持ちしましょうか」
西村が変わらぬ口調で答える。そのことに安堵感を覚えながら、お願いします、と孝次が返事をした。一礼してキッチンの方へ歩き始めた西村を見送りつつ、孝次は桟橋へと通じるドアを開ける。涼やかな風が吹き抜けた。桟橋のたもとのベンチに腰かけると、彼は煙草に火をつけた。微かに手が震える。紫煙が風にたなびき、火が蛍のように瞬いた。早く西村に岩魚の礼を言いたかったが、やや興奮しすぎているように思えて、クールダウンをしたかった。煙草の甘さと苦さが、心地良かった。桟橋に湖水の波が当たる音が聞こえる。規則正しいリズムの水音が、あたかもロッキングチェアに揺られるかのように、彼を包み込んでくれた。明日はこの湖で鱒釣りが出来るだろうか、と彼は思う。夜空を見上げると、星空が広がっていた。ほんの一掴みの雲だけが、ぽっかりと空に穴を開けていた。
「月も雲間の無きはいやにて候、か」
ぽつりと呟いた独り言が水音に掻き消えた。茶の湯の美意識を表す名言が、妙にしっくりくるような気がした。不完全であるが故の美しさが、そこにはあった。灰皿で煙草の火を揉み消すと、孝次は立ち上がる。そして、再び夜空を見上げた。星も雲も、変わらずそこにあった。不完全であるからこそ、星空の美しさが際立つ。独り夜空を見つめながら、孝次は自らの不完全さに思いを馳せた。いや、そもそも人というものそれ自体が不完全なのかもしれないな、と彼は思う。神が自らの姿に似せて人を作ったのならば、あるいは人もまた神という完全な存在の贋作なのかも知れない。完全には程遠い存在ながらも、皆懸命に生きている。自分は果たして懸命に生きているのだろうか、と暗澹たる思考に支配されそうになる。孝次はかぶりを振って大きく息を吐き、そして吸い込んだ。もう一度やり直すために、自分は鱒釣りをしているんだ、と自らに言い聞かせて。自分を見つめ直す行為は散々やってきた。次は自らの外の世界に目を向ける番だ。そっと彼は目を閉じた。水音と頬に当たる微かな風の感触。どれだけの時間そうしていただろうか。こんなにも美しい世界から、目を背けてきたんだな、と自嘲気味に独り微笑んで、孝次は目を開ける。手の震えは止まっていた。
「お待ちしておりました」
バーに足を踏み入れると、カウンターの中から西村が一礼する。少し待たせてしまったかな、と若干の後ろめたさを感じながらも、孝次はカウンターのアームチェアに腰かけた。西村が料理を差し出す。
「グリーンサラダとカンバーランドソーセージ、白インゲン豆のトマト煮をご用意させていただきました。お飲み物は何をご用意いたしましょうか」
孝次は毎度のように思案する。ワインをボトルで頼むと多すぎるし、料理との相性を考えるとオールマイティに合わせられる酒が欲しかったが、蒸留酒のような強い酒の気分でも無かった。
「シェリーを下さい。出来ればフィノが良いですね」
「それではペマルティンのフィノをご用意いたしましょうか」
孝次は無言で頷くと、フォークを手に取ってグリーンサラダを口に運ぶ。ルッコラの胡麻のような刺激的な香りが鼻に抜けた。西村がワイングラスにシェリーを注いで、孝次の前に差し出した。彼はグラスの脚を持つと、シェリーを一口含んで、口の中のオリーブオイルと共に胃に流し込んだ。不思議なもので、食べ始めると食欲が湧いてくる。程よい熟成感のあるシェリーが、食欲をさらに増した。早々と一杯目のシェリーを飲み干し、孝次が言った。
「アモンティリャードを下さい。銘柄はお任せで」
自分でも、ペースが早すぎるかな、と内心で苦笑しつつも、彼は自身の欲望に忠実であることを決めた。
「BB&Rのアモンティリャードがございますが、いかがでしょう」
西村の魅力的な提案を断る理由は無かった。新しいワイングラスに注がれた琥珀色のシェリーを口に運ぶと、ナッツのような香りが体を吹き抜けた。孝次は無言で食事をし、西村も敢えて何も言わなかった。その暗黙の了解が、居心地の良い空間を生み出していた。あるいは、親密さというものは、退屈さと近いものなのかも知れないな、と孝次は思う。ある程度、空腹が満たされ、酔いも回り始めて、そのような取り止めのないことを考えられるくらいには余裕が出てきていた。カンバーランドソーセージの下に敷かれているマッシュポテトが、マスタードを混ぜ込んだドイツ風であることに気づいたのも、その時だった。そこまで余裕がなくなっていたんだな、と孝次は独り笑みを漏らす。白インゲン豆をスプーンで口に運び、それをシェリーで流し込むと、彼は小さく息を吐いた。
「釣れましたよ」
孝次が言った何気ない口調の一言に、西村が軽く目を見開いた。その瞳に、微かに感情の揺らぎが見て取れたような気がした。
「支配人が素晴らしいポイントを教えてくれたおかげです。岩魚を一匹、こちらへ来てやっと釣ることが出来ました。トラウトの躍動を久し振りに感じましたよ。本当にありがとうございます」
西村が柔和な表情で微笑んだ。
「それはようございました。私も、とっておきの場所をお教えした甲斐があったというものです。トラウトの引きはなんとも言えない魅力がございますから、私もそのお気持ちは良く分かります」
孝次も微笑み返して、二杯目のシェリーを飲み干した。
「お代わりをお持ちしましょうか」
「それではもう一杯、別のアモンティリャードを」
西村が取り出したのは、ロマテのアモンティリャードだった。抜栓してワイングラスに注ぐ流れるような動作に、孝次は、見事なものだといつもながらに思う。グラスを軽くスワリングさせて、西村が孝次の前にシェリーを差し出した。
「この一杯は私からのプレゼントです。トラウトを釣り上げたお祝いに、是非」
孝次は不器用に左目を瞑って、ワイングラスを掲げる。素直に西村の厚意に応えることに決めたのだ。三杯目のシェリーを口に含み、ほっと一息ついたところで、西村が口を開いた。
「新しい釣り場はいかがでしたか」
心の底からくつろいだ様子で、孝次が答える。屈託の無い表情は、西村に対する完全な信頼の現れだった。
「魚影も濃いですし、活性も高くて、最高の場所でしたよ。岩魚が一匹しか釣れなかったのは、ひとえに自分の腕がまだまだ及ばなかったが故でしょうかね」
「釣った岩魚はいかがなさいましたか」
「リリースしました。まだ小さかったので」
左様でございますか、と西村が目を細める。
「そういえば、そこまで考えて無かったですね」
鱒を求めてこの湖までやってきたは良いが、事実、釣った鱒をどうするかまでは考えていなかった。あるいは、どうせ今回も駄目だろうという諦観が先に立っていたのかも知れない。思案顔になった孝次に、西村が意外な申し出をしてきた。
「この湖とその周辺の流域で釣った鱒でしたら、レッドブレスト・マナーのレストランで調理してお出しすることも出来ます。調理法はお任せになりますが」
「ではそれでお願いします。もっとも、あと一日で釣れればの話ですけどね」
孝次が冗談めかして言うと、西村もつられたように、声を出さずに笑った。
「そういえば、ちょっと面白い出会いがありましたよ」
ほう、と西村の瞳に興味の色が宿った。
「一〇歳くらいの男の子と釣り場で出会って、一緒に釣りをしたんですけどね。自分のルアーには全然喰いつかないのに、その子の餌には良く岩魚が喰いついていたんですよ。地元の子だからポイントも熟知してたんでしょうけど、あれには腕の差を見せつけられたような気がして、参りました」
話の内容とは裏腹に嬉しそうな語り口の孝次を見て、西村が再び目を細める。
「良い出会いがあったようですね」
口の両端を少し吊り上げて、西村が応えた。孝次の嬉しそうな様子が、我がことのように嬉しかったのだ。それを知ってか知らずか、孝次が言葉を続ける。
「ええ。良い出会いだったと思います。何処か大人びた雰囲気の、不思議な子でしたね。近くの鹿の湯で母親が働いていると言ってました。良くあの川で釣りをしているみたいです」
そう言うと、孝次はシェリーをあおった。西村が四杯目をそっと注ぐ。西村と孝次の二人しかいないバー。そのことが、彼をより饒舌にしたのかも知れなかった。上質なシェリーの酔い心地が、それに拍車をかけた。
「もし自分に子供がいれば、あのくらいの歳になっていたでしょうか。いや、あそこまで聡明だったかどうかは分かりませんが、それでも我が子は我が子。きっと、可愛がって色々と教えようとしたでしょう。妻と、生まれてくるはずだった子供を同時に失って以来、年頃の子供を見ると、そういうことをつい考えてしまいます。男の子か女の子かも、まだわからなかったのに。自分の悪い癖ですね」
そう独白すると、孝次は四杯目のシェリーを飲み干した。西村は、孝次の口から語られた新事実に内心驚きつつも、敢えてそのことには触れずに黙っていた。孝次の独白は、酒の勢いもあるにはあったが、それでも西村への信頼が大前提だった。西村は西村で、孝次のことが気に入っていた。西村は、深くは追求しなかった。問わず語りの沈黙が訪れる。レッドブレスト・マナーの支配人として、また、一人の執事として、それは分別ある態度だった。孝次は、妻子を失った過去を口にした自分に驚きつつも、口を滑らせたとは思っていなかった。恐らくこれは必然の流れだったと、そう思えるくらいには西村に気を許していた。孝次の前に、西村が透明な液体の入ったタンブラーを差し出す。それは、酔い覚ましの水だった。
「ありがとう、ございます」
礼を述べると、孝次は水を一気に飲み干した。喉が大きく音を鳴らす。彼が空になったタンブラーをコースターの上にそっと置くのを見計らって、西村が口を開いた。
「明日は、釣り日和になるかも知れません」
孝次が顔を上げた。西村の眼差しは何処までも穏やかで、そこに宿る感情は相変わらず読めなかったが、口調は優しかった。
「天気予報もそうなのですが、ワカサギが産卵のために接岸し始めています。岸辺を歩くと手の届きそうな場所で群れていますね。先日お話しさせていただいたように、鱒もそのワカサギを求めて接岸し始めます。早朝と夕方のマヅメ時はチャンスかと思われます」
西村の優しさが身に染みた。
「そう、ですか。ワカサギが、産卵を」
震える声で、孝次が応えた。ワカサギが次の世代に新しい命を繋ごうとしている。そして、鱒もそのワカサギを求めて命を繋ごうとしていた。その厳かな営みに自分が水を差して良いものか、と孝次の瞳に躊躇いの色が浮かんだのを西村は見逃さなかった。
「人が鱒を求めるのもまた、ある意味においては自らが生きるため。永井様もそうでございましょう」
たしなめるでもなく、咎めるでもなく、西村の口調は何処までも優しかった。我が子を教え諭すかのような、その優しさが、孝次にはただただ有り難かった。意を決したように、孝次が口を開く。
「自分は、鱒を釣っても良いのでしょうか」
西村は柔和な表情を崩さずに、静かに言った。
「条件は整いました。明日は永井様と鱒の真剣勝負です。私は永井様の鱒に対する想いを存じております。真摯な思いで鱒に向き合うのですから、あるいは鱒の方でも応えてくれるかも知れません」
孝次は無言で頷いた。そして。
「少し飲み過ぎてしまいました。明日も早いですし、そろそろ休むとしますよ」
そう言ったのだった。
「明日の朝食、簡単なもので結構ですので事前に用意してもらえますか。夕食も予約をお願いします。鱒をメインにしたコースを考えてもらえると助かります」
「かしこまりました」
「負けることを前提にして勝負に臨むのはやめることにしました。鱒に対しては、特に。もしも駄目だったその時には」
「その時には。どうなさいますか」
「そうですね。その時にはまた、支配人のおごりで苦杯を舐めるとしましょうか」
西村が短く声を上げて笑う。孝次も、下手な冗談が言えるくらいには余裕が出てきていた。彼はアームチェアから腰を上げると、西村に背を向けて階段の方へと歩き始めた。そして、不意に思い出す。
「明日は魚が釣れると良いわね」
「そうだな。釣れると良いな」
昨夜の、土屋夫妻の言葉だった。
「きっと、釣ってみせるさ」
誰に言うでもなく、孝次は一人呟く。むしろ、その一言は彼が自分自身に向けたものだったのかも知れなかった。窓の外には、満点の星空が広がっていた。風は凪ぎ、葉擦れの音ひとつ聞こえなかった。
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