第10話

 「さて、行きますか」

 孝次はロッドを手に、少年は延べ竿を手に立ち上がった。釣り場を休ませ始めてから、二時間が経っていた。少年は上流に、孝次は下流に位置取って、釣り始める。青空が広がり、雲はすっかり晴れて春の陽気となりつつあった。少年が竿をさばいて餌を流す動作は様になっていて、孝次も負けじとロッドを振ってルアーをキャストする。ルアーが着水した瞬間に、水音がもう一つ、ワンテンポ遅れて響いた。岩魚が反応してライズしたのだ。岩魚がルアーを追っている。少年の言う通りに釣り場を休ませて正解だったな、と孝次は思う。そのことがやけに嬉しかった。

 少年の竿がしなる。水しぶきが上がり、岩魚の魚体が煌めいた。五匹目の岩魚だった。孝次は思わず口笛を吹く。大したものだ、と彼は思った。負けじと孝次もルアーをキャストする。しかし、岩魚は反応こそしてくれるものの、あと一歩で喰いつかない。それを幾度となく繰り返し、孝次は内心焦りを覚えていた。このまま釣果が無かったら、穴場を教えてくれた西村に対してあまりに申し訳なかった。

 ふと、孝次の脳裏に西村が教えてくれた言葉が浮かぶ。釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えば良い。ルアーを巻き取ると、煙草に火をつけ、彼は思案した。スタンダードな銀のルアーで最初に岩魚がヒットしたので、銀のルアーを使い続けていたが、それが間違いだったのかもしれない。たなびく紫煙越しに澄んだ川面を見つめながら、孝次は自分のミスを検証する。銀のルアーに岩魚がスレてきたのかもしれない。そう結論づけて、彼は銀のルアーを外し、同じサイズの金色のルアーに結び変えることにした。これで行けるだろうか。孝次が半ば祈りにも似た思いでルアーをキャストすると、再び岩魚がライズした。反応は上々だ。ゆっくりとリールを巻き、緩やかな淵でルアーを泳がせてやる。ルアーが流れに乗ってターンした、その瞬間だった。

 びりびりとした感触が孝次の手に伝わり、ロッドの先端が小刻みにしなった。岩魚がヒットしたのだ。ロッドを立て気味にして手早くリールを巻き取ると、水しぶきと共に魚体がゆらめいた。バラさないように慎重に岸に寄せ、ランディングネットに誘い込む。そこにいたのは、一五センチほどの小ぶりな岩魚だった。水に濡れた青紫に輝く魚体は艶めかしくさえあった。岩魚はランディングネットに身を横たえて、苦しげに口を開け閉めしている。孝次は右手を水に浸す。温泉で水温が上昇しているとはにわかには信じがたいほどに冷たい水だった。手を十分に冷やしてから、そっと針を外してやる。手を冷やさずに直に触れると、岩魚は火傷を負ってしまう。鱒類はそれほどまでに繊細な魚なのだ。針を外すと、岩魚が二回、尾を振って身をよじった。孝次はその生命感あふれる仕草を素直に美しいと思った。えも言われぬ達成感と、岩魚の艶めかしさに心奪われる思いとが、ない混ぜになっていた。孝次は、呆然と見とれていた。

 「まだ子供だね」

 いつしか側に来ていた少年が、ぽつりと言った。その何気無い一言に、孝次はどきりとする。そう、その岩魚はまだ子供だった。成魚というにはまだ小さいが、稚魚というほどでもない。大人と子供の狭間の微妙な年頃、といったところだろうか。

 「ああ。そうだね」

 孝次が我が子に対する父親のように、穏やかな口調で答える。

 「どうするの。それ」

 孝次は無言で岩魚をランディングネットから放してやる。解き放たれた岩魚が身をくねらせて淵の底へと姿を消した。少年も、孝次も無言でその様子を見つめていた。風に揺れる木々が葉擦れの音を立てていた。先に沈黙を破ったのは、少年の方だった。

 「キャッチアンドリリースって言うんだよね、それ」

 「いや、少し違うかな」

 孝次の言葉に、少年が意外そうな顔をする。

 「自分は釣った魚はなるべく食べる主義でね。いたずらに魚を傷めるのは良しとしない考え方なんだ。でも、まだ小さい魚の場合は話は別だ。小さい魚を釣った時に放してやることもまた、釣り人としてのマナーだよ」

 そっか、と少年がつぶやく。その横顔はどこか嬉しそうに見えた。夕方の強い日差しに照らされて、神々しくさえ思えた。自分には眩しすぎるな、と彼は思う。あるいは、それは彼にとって失われた時間の象徴のようなものだったのかもしれない。

 「さて、そろそろ終いかな」

 おどけたように孝次が言った。結局釣果はゼロだったが、心境は釣り場の風のように凪いでいた。光風霽月。釣れても釣れなくても、常にこのような境地にありたいものだ、と孝次は思った。孝次が釣り道具をしまい始めるのを見て、少年も延べ竿から仕掛けを外す。手慣れた手つきで片付けを済ませると、二人は縦に並んで歩き始めた。梯子を登り、畦道に差し掛かると、何か小さな生き物が跳ねて二人のために道を開けた。雨蛙だ。春の兆しはいよいよ強まっていた。二人は終始無言だったが、それは決して不快なものでは無かった。兄弟や親子のような、親密であるがゆえの退屈な空気感が漂っていた。

 孝次は車に辿り着くと、鍵を開けてトランクに手をかけた。道具を入れながら、少年に話しかける。

 「家まで送るよ」

 「ううん、大丈夫。そこの鹿の湯でお母さんを待ってる」

 少年はそう言うと、孝次をじっと見上げる。そして。

 「ありがとう」

 屈託のない笑顔で、そう言ったのだった。熊除けの鈴をちりん、ちりん、と鳴らしながら、少年は孝次に背を向けて歩き始めた。孝次は車の傍らに立ち、その後ろ姿をじっと見送っていた。少年は振り返らない。周囲が仄暗くなる中、少年の姿が林に隠れて見えなくなる。熊除けの鈴だけが、か細く鳴り響いていた。

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