第9話
二人は川辺から離れて、梯子の上の畦道に適当なスペースを見つけると、並んで腰を下ろした。少年は延べ竿を、孝次はルアーロッドを傍らに置くと、大きく伸びをして深く息を吐いた。そんな仕草まで息が合っていて、そこはかとない可笑しさを孝次は感じていた。自治体の設置したスピーカーから正午の時報が鳴り響き、孝次は急に空腹を覚えた。肩掛けの鞄には、西村が持たせてくれたサンドイッチと紅茶が入っていた。
「君はお昼はどうするんだい」
率直に孝次が尋ねた。
「お母さんが持たせてくれたおにぎりがある」
そう言うと、少年は背中のリュックサックを下ろして中身を取り出し始めた。孝次もつられるようにして、鞄からサンドイッチの入った折を取り出す。少年が水筒から紙コップに中身を注ぐと、湯気が風に流れて孝次の鼻腔をくすぐった。焙じ茶だ。孝次が水筒から紅茶を注ぐと、バラの花のような甘い香りが漂った。恐らくはスリランカ紅茶のディンブラだろうか。口に含むと、日本人に最も馴染みの深い、スタンダードな紅茶の味がした。冷涼な空気に冷やされた身体が、芯から温まるような気がした。
川の流れはどこまでも緩やかで、水面は飛沫ひとつ無かった。孝次も少年も、一言も発すること無く、茶を啜りながら川を眺めていた。そうするのがごく自然で正しいあり方であるかのように、互いに振る舞っていた。
曇り空の切れ目から青空が顔を覗かせ、そこから陽が降り注いでいる。陽光の中に羽虫が飛び交い、さざめくように揺れ動いていた。安曇野に、遅い春の兆しが訪れようとしていた。
少年がおにぎりを取り出し、口に運ぶのを見て、孝次も折詰の蓋を開ける。スモークサーモンのサンドイッチと、ローストビーフのサンドイッチが入っていた。ひとつ手にとって口に運ぶと、サーモンの脂の旨味と薫香が広がった。一緒に挟んである酢漬けの玉ねぎとケッパーが爽やかだった。ローストビーフのサンドイッチも肉が柔らかで、恐らくは一昨日の夜のローストビーフと同じ肉を使っているのだろう。山葵のソースが、鼻に刺激を与えて抜けていった。
しばし無言で、二人は食事をしていた。時折、茶を啜る音が響く。静かだが、決して不快ではない、たおやかな時間が流れていた。孝次は食事を一足先に終えると、携帯灰皿を手に立ち上がった。そのまま風下に移動して、煙草に火をつける。沈黙を破ったのは、少年の方だった。
「そんなに気を使わなくても良いのに」
「そういうわけにもいかないさ」
孝次が笑顔で応えた。そして、煙を深く吐き出す。煙が流れていった。孝次が煙草を吸う様子を、少年はじっと見つめていた。その瞳に、好奇の感情を宿らせながら。再び少年が口を開く。
「清澄白河ってどんな所なの」
意外な質問に、孝次の目が軽く見開かれた。煙草の火をもみ消しながら、彼は慎重に言葉を選ぶ。
「元々は隅田川近くの下町なんだけど、最近はマンションが増えてきているせいか、若い人が増えてるかな。そこでマンション住まいをしてる自分が言うのもなんだけど。あと、ここ数年でコーヒー店が増えているね。住みやすくて悪くない街だよ」
ふうん、と少年はやけに感心した風に言った。達観した無邪気さのようなものを彼の横顔に感じながら、孝次が質問を返す。
「君はよくこの辺で釣りをするのかい」
「うん。三年前、小学生になってから始めたんだ。この辺は良い釣り場が多いから友達ともたまに釣りに行くし。おじさんはこの川は初めてだよね」
「そうだよ。分かるかい」
「湖のホテルのお客さんは、湖ではたまに釣りをしてるみたいだけど、この川は本当に地元の人だけが知ってる穴場だからね。どこでこの川のことを知ったの」
孝次は少し思案して、西村の名は出さずにかいつまんで説明することにした。
「湖で釣りをしてたんだけどさっぱり釣れなくてね。そしたらたまたま知り合った地元の親切な人がこの川のことを教えてくれたんだよ。最初に岩魚がヒットしたんだけど、バラしちゃってさ。君は大したものだね。この数時間で四匹も釣り上げるなんて」
少年は気を良くしたように笑った。
「釣りだけは得意なんだ。僕はルアーやフライが駄目だったから餌でやってるけど、このやり方が丁度良いみたい。逆にルアーで釣れる人は凄いと思うな」
孝次は苦笑しつつも、この少年との交流を楽しんでいた。旅先でのささやかな出会いに感謝したい気分でさえあった。孝次と少年は他愛のない話を続けていた。ただそれだけのことなのに、それが不思議と楽しかった。親子ほど歳の離れた二人なのに、あるいはそれだからこそ、気が合ったのかもしれなかった。
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