第8話

 「こんにちは」

 おずおずと少年が挨拶をする。先客が居たことに少しだけ驚いている様子ではあったが、元より朗らかな性格なのだろう。その目に興味の色を宿しつつ、孝次の方をじっと見ていた。こんにちは、と釣られて孝次も挨拶をする。田舎の子供ならではの率直な挨拶にやや面食らいながらも、こういうのも悪くないものだなと彼は思った。

 「僕もここで釣って良いですか」

 少年の出で立ちは餌釣りのそれだった。広いフィールドだし、お互いに干渉しないように釣ることは可能だろう。

 「構わないよ。どうぞ」

 孝次が手招きすると、少年は河原に降り立った。延べ竿に仕掛けをつけ、針の先にブドウ虫を引っ掛ける。その様子を孝次は見るともなく眺めていた。慣れた手つきで仕掛けを扱う少年は、かなり釣り慣れているように見えた。孝次はロッドを手にとって下流に移動し、少年が釣りをする様子をぼんやりと見ていた。

 竿の反動を利用して少年が餌を川に放り入れる。水面から五センチほど上に、道糸につけた赤い目印が見えた。緩やかな流れに沿って、少年は餌を流していく。上手いものだ、と孝次は素直に思った。それほどまでに、堂に入った所作だった。再び川上に餌を放り入れ、川下へ流す。それを繰り返して、四回目の時だった。少年の竿が小刻みにしなり、水面にしぶきが上がる。岩魚が餌を食ったのだ。竿を立てて岸に寄せ、タモ網ですくい上げる。岩魚の魚体が青紫色の反射光に輝いていた。岩魚は網の中でしきりに口を開け閉めしている。少年は手早く針を外すと、岩魚を竹細工のビクに入れた。岩魚がビクの中で跳ねる音が響く。やがて、その音も止んでしまった。

 少年が再びブドウ虫を針につけるのを見て、孝次は気を取り直した。ロッドを横に構え、サイドハンドでキャストする。ルアーが着水すると、程なくして手に細かな振動を感じた。岩魚が反応している。リズミカルにロッドをさばいて岩魚を誘う。しかし、あと一歩のところでルアーに食いつかない。そんなことを繰り返すうちに、少年が二匹目の岩魚を釣り上げた。

 風は川上から川下に向かって吹いている。孝次は少年が風上にいるのを確かめると、煙草に火を点けて幾度目かの思案に耽ける。釣りが瞑想への導入剤ならば、煙草はさしずめ考察のための導入剤だった。数年前に抑うつ状態を患ってからは、さらに煙草に頼ることが多くなった。

 餌に反応するということは、ルアーも追うということだ。事実、岩魚は反応している。少年が釣れていて、孝次が釣れていないということは、孝次のやり方に何かまずい原因があるということになる。煙草を吹かしながら、孝次はしばらく少年の釣りの様子を観察することにした。

 少年が三匹目の岩魚を釣り上げる。見事なものだ、と孝次は内心で舌を巻いていた。少年は岩魚をビクに入れると、竿を手に孝次のいる川下の方へと歩いてきた。孝次も煙草を吸い終えて少年の方へと歩み寄る。申し合わせたかのように、二人は無言で河原の大きな石に隣り合わせで腰掛けた。いつしか、岩魚のライズが止んでいた。

 「大したものだね。こっちはさっぱりだよ」

孝次が意を決して話しかける。少年は歳の頃は一〇歳くらいだろうか。聡明そうな顔立ちは大人びてはいたが、やはりどこか幼さが残っていた。

 「おじさんは東京の人なの」

 不意に少年が質問を放つ。突然のことにやや面食らいながらも答えようとすると、さらに少年が言葉を続けた。

 「上に停まってた車のナンバーに足立って書いてあったから。足立って、確か東京の地名でしょ」

 そうだよ、と孝次は肯定する。風が吹き抜け、葉擦れの音が響いた。雲に切れ目が生まれ、春の日差しが降り注いでいた。

 「江東区の清澄白河って所に住んでるんだ。安曇野まで釣りをしに来たけれど、昨日も今日もボウズでね。下手をすると何も釣れずに東京に帰る羽目になるかもしれないな」

 冗談めかして言うも、半分は本心だった。

 「どこに泊まってるの」

 「湖の南側にあるレッドブレストマナーっていう小さなホテルだよ。君は地元の子かい」

 少年が答えて言った。

 「うん。家はこの近く。お母さんがそこの鹿の湯で働いてるんだ」

 足をぶらぶらさせながら、少年が川上の方を指差す。湯けむりが風になびいていた。陽光に照らし出された鹿の湯は、光り輝いて見えた。しばし、沈黙が訪れる。孝次も少年も、無言で川の流れを見つめていた。知らぬ人がこの二人を見たら、親子連れの釣り人だと思っても不思議は無かった。初対面の二人ではあったが、いつしか親密な空気が流れつつあった。もし自分に子供がいれば、この少年くらいの歳でもおかしくはないな、と孝次は思う。その思いが、より一層少年への興味を引き立てた。横目に少年を見ると、彼はどこまでもまっすぐな瞳で川を見ていた。頬を撫でる風に、気持ち良さそうに眉をひそめる。そんな大人びた仕草が、似合っていた。

 「少し釣り場を休ませた方が良いかも」

 少年がぽつりと言う。

 「どういうことだい」

 孝次が相槌を打った。

 「立て続けに釣り上げると、魚が落ち着かなくなっちゃうんです。落ち着くまで釣るのを止めれば、また釣れるようになるはずだから」

 釣り慣れた人間ならではの意見だった。もはや思案するまでもない。腕時計の針は、正午に差しかかろうとしていた。

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