第7話

 白樺林がほんのりと照らされて路面に淡い斑模様を描いていた。空は薄曇りで、雲が均一にかかっている。孝次は、川沿いの山道を車を走らせていた。右手でハンドルを握りながら、麓のコンビニで買ったアイスコーヒーに口をつける。爽やかな苦味が広がった。気分は上々、悪くなかった。レッドブレスト・マナーをまだ周囲が仄暗い早朝に出て、早三〇分。白いベールの向こう側に、太陽が登り始めていた。孝次は、緩やかな淵が一〇〇メートルほど続くポイントを見つけると、橋の手前の空き地に車を停めた。川上の丘の上には「鹿の湯温泉ホテル」と書かれた看板が見える。恐らくはあれが、西村が言っていた一軒宿だろう。車から降りて橋の真ん中に立つと、木立の向こうに源泉の湯気が盛大に上がっているのが見えた。足元に広がる流れを見下ろすと、笹濁りの水面に魚影が点々と見え隠れしていた。想像以上に魚影は濃い。はやる心を抑えて観察を続けると、ぱしゃり、という音と共に水飛沫があがった。岩魚が虫を狙ってライズしたのだ。岩魚が餌を追っている。活性は非常に高く、あたかも五月の盛期のそれだった。孝次は、初めて鱒釣りのフィールドに出た時の懐かしい記憶を思い起こす。あの時の昂揚した気持ちが蘇っていた。再び岩魚がライズする。水飛沫と共に波紋が流れにかき消えた。

 ロッドを継ぎ、リールをセットしてラインにルアーを結びつけると、孝次は畦道を通り抜けた。コンクリートの護岸に設けられた梯子で石だらけの河原に降り立つ。水辺はわずかに草が生えていて、そこだけ砂地になっていた。人の気配を察してか、岩魚が三度目のライズをした。岩魚は警戒心が強く、とても頭の良い魚だ。少しでも人の気配を察すると、餌を食わない。それだけに釣るのは難しいが、釣れた時の喜びもまた大きい。昔から釣り人を魅了してきた高貴な魚なのだ。

 孝次は岸から少し離れ、ルアーをキャストする。ルアーは銀色のスプーン。基本中の基本のルアーだ。ふわりとした放物線を描いてルアーが着水すると、その途端に水飛沫があがった。岩魚が反応したのだ。孝次は手早くリールを巻き、リズムと緩急をつけてイワナを誘う。何度目かの巻き取りでビリビリとした手応えを感じ、ロッドを立てる。ロッドの先端が小刻みにしなっていた。

 「よし、来た」

 孝次は思わず歓声をあげる。リールを巻き取り、少しずつ岸に寄せると、岩魚が派手に暴れて幾重にも波紋が重なった。翡翠色の川面に、岩魚の魚体が煌めいた。左手を腰に回し、ランディングネットを手にしてさらに岩魚を岸に寄せた、その瞬間だった。手応えが消え、ロッドが真っ直ぐになった。ピンと張っていたラインが、風にふわりと揺れた。岩魚から針が外れたのだ。喪失感に、孝次は愕然とする。岩魚は素早い動きで淵の底へと潜っていった。その姿を孝次は呆然と見送る。三〇センチはありそうな良型だった。釣り逃した魚は大きいとはいうが、サイズ以上に逃したショックの方が大きかった。孝次はルアーを完全に巻き取ると、ロッドを置いて煙草に火を点けた。一口、二口と紫煙を口に含み、ゆったりと吐き出す。その動作を幾度か繰り返しているうちに、ようやく気持ちが落ち着いて来た。釣り逃したのは残念だけれども、また釣れば良い。そう思える程度には回復していた。その時だった。ちりん、ちりん、と畦道の方から鈴の音が近づいてくる。恐らくは熊除けの鈴だろう。誰かがこちらへ向かって来ているのは明らかだった。孝次は携帯灰皿で煙草を揉み消すと、背後を振り返る。堤防の上に人影が現れるのと、ほぼ同時だった。

 そこに居たのは、ビクを肩から下げ、延べ竿を手にした、見知らぬ少年だった。

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