第6話

 暗闇の森を走り抜けて、幸次は愛車をレッドブレスト・マナーの前庭に停めた。ヘッドライトを消し、エンジンを止めると周囲が漆黒に包まれて、レッドブレスト・マナーの灯りだけが浮かび上がった。レストランに人影が見える。恐らくは土屋夫妻がまだ夕食をとっているのだろう。車から降りると、幸次は煙草に火を点けた。車で一五分ほどの距離にある国道沿いのコンビニで、食事を済ませてきたところだった。腕時計は午後七時半を指している。バーへ行くにはまだ早すぎる気がした。幸次は携帯灰皿で煙草の火を揉み消すと、正面玄関のドアを開けてロビーに入り、暖炉の前のロッキングチェアに腰掛けた。揺り籠のように規則正しい動きが心地良かった。夜になって気温が下がり始め、暖炉がその効果を如何なく発揮していた。火は偉大だな、と幸次は思う。火は原始の頃より分け隔てなく人を暖め、照らしてきた。あるいは、このレッドブレスト・マナーも、この暖炉のようなものかもしれなかった。西村の熾火のような暖かさのあるもてなしは、レッドブレスト・マナーがあってこそ引き立つものだった。暖炉の上に飾られている果物籠の油絵が、薄明かりの中で内なる光を放つかのように、存在感を持っていた。

 ロッキングチェアに揺られながら目線を転じると、小さな本棚が目に入る。ふとした気まぐれで幸次が手に取ったのは、オスカー・ワイルドの童話集「幸福の王子」だった。彼は本のページを繰り始める。ワイルドの作品を読むのは初めてだったが、ほどなくして、その美的な文体と博愛精神の物語に引き込まれていった。表題作の「幸福の王子」を読み終えて、次の作品を読むためにページをめくった、その時だった。レストランの方から人が現れる気配を感じて顔を上げると、土屋夫妻がちょうど食事を終えて出てきたところだった。幸次は目が合うと軽く会釈をし、土屋夫妻も会釈で応えた。土屋夫妻は階段の奥に姿を消し、幸次は再び本に目を戻して、次の作品の「わがままな大男」を読み始める。くつろいだ時間が流れていた。再び気配を感じて顔を上げると、そこにいたのは西村だった。西村はうやうやしく一礼をすると、バーの方へと歩いていった。幸次は「わがままな大男」を読み終えると、本を本棚に戻し、立ち上がってバーへ向かって歩き始める。無人のロッキングチェアが、ゆっくりと揺れていた。


 「いらっしゃいませ」

 西村の出迎えに幸次は安堵感を覚えた。カウンターの左端に座り、ほう、とため息をつく。集中して読書をしたので、少し疲れていた。

 「何を召し上がりますか」

 ゆっくりと酒の棚を見回すと、やはり居並ぶウィスキーのボトルが目に入った。ウィスキーという気分でも無かったが、強目の酒が欲しかった。

 「ロブ・ロイをください。ベースのウィスキーはバランタイン一七年で」

 かしこまりました、と一言つぶやいて、西村が幸次に背を向ける。バランタイン十七年のボトルを手に取ると、カウンターの上にそっと置いた。西村がミキシンググラスに氷を入れ、ウィスキー、スイートベルモットを注ぐ様子を、幸次は見るともなく眺めていた。ビターズを二滴ふり、バースプーンでグラスの縁をなぞるように軽やかにステアすると、氷の塊が勢いよく回り始めた。やがて氷の回転が止まり、西村はミキシンググラスにストレーナーをつけて、逆三角形のカクテルグラスに最後の一滴まで注ぎ切る。瓶から取り出したマラスキーノ・チェリーを飾り、すっと幸次の前に差し出した。

 ロブ・ロイでございます、と言う西村の静まりかえった声に、幸次はカクテルグラスを掲げ、乾杯の合図で応じる。西村がわずかに笑みを見せた、そんな気がした。一口飲むと、甘苦くほのかにスモーキーな風味が口いっぱいに広がった。不思議と、煙草は吸いたく無かった。腕時計は午後九時を指している。幸次は二口目に口をつけた。

 「静かな夜ですね」

 珍しく、西村の方から話しかけてきたことに少し面食らいながらも、そうですね、と幸次は言った。西村は、相変わらず感情を読ませない表情だった。

 「こんな夜には、日本に戻ってきた頃を思い出してしまいます。あの時も、静かな日でした」

 幸次の瞳に、かすかに興味の色が宿る。しかし、それ以上は踏み込めなかった。幸次は無言でカクテルに口をつけ、こくりと喉を鳴らす。彼がマラスキーノ・チェリーを口に含むと、再び西村が口を開いた。

 「先だってお話しした通り、このレッドブレスト・マナーには様々なお客様がお見えになります。かつての私のように、失意のただ中にある方もいらっしゃいました。そのような方々の応接をさせていただいて、自らを重ね合わせて、少しでも元気を取り戻していただこうと奮闘していた時もありました」

 幸次はカクテルを飲み干すと、西村の目を無言で見つめ返した。まだ酔いは回っていなかった。互いの視線が火花を散らした、そんな気さえしていた。

 「今では、それはどれだけ不遜で傲岸なことだったかが良く分かります。わたしは自らの失意をただ慰めようとしていたに過ぎなかったのです」

 西村がこれほどまでに饒舌に自らの身の上を語るのが、幸次には意外だった。夜の静寂が西村の追憶を呼び覚ましているかのようで、先の読めない怖さがそこにあった。気まずい沈黙が訪れる。

 「失礼致しました。少々昔語りが過ぎましたようで。あまりにも静かな夜なので、つい色々と思い出してしまいました。お代わりはいかがなさいますか」

 西村が音もなくカクテルグラスを下げる。幸次は、もう一杯同じものを、と言うのが精一杯だった。それほどまでに重い昔語りだった。心臓が早鐘を打っていた。西村は、それまでの独白を意に介さないかのように、無表情でロブ・ロイを作り始めていた。

 「やあ、こんばんは。私もお仲間に入れてもらっても良いですかな」

 間延びした声がバーに良く通った。そこにいたのは土屋だった。幸次は、内心感謝したい気持ちで、土屋を隣の席へと迎え入れた。西村と二人きりでは、おそらく間が保たず、どうしていいか分からなくなっていただろう。土屋はアームチェアに腰を下ろすと、西村が幸次に差し出したカクテルを見やった。

 「それは何ですかな」

 土屋の問いに、幸次はほどけるように笑みを見せて答える。彼の率直な無邪気さが嬉しかった。

 「ロブ・ロイです。マンハッタンのベースをスコッチに変えたカクテルですよ」

 ほう、そりゃ良いですな、と土屋も笑みを見せる。

 「それでは私はマンハッタンをいただけますかな。こう見えてもバーボン派でしてね」

 そう言って、土屋は不器用に片目を閉じて見せた。

 「ベースのウィスキーは何にいたしますか」

 「ベイゼルヘイデンで」

 土屋が頼んだのは、ライウィスキーを使った正統派のマンハッタンだった。ほどなくして差し出されたカクテルグラスを掲げ、土屋が乾杯の仕草を見せると、幸次もそれにならった。二人同時にカクテルに口をつけ、見合わせたように同時に笑顔になった。

 「こりゃ美味いですな。ベースの酒の良さもさることながら、支配人は良い腕をしておられる」

 土屋の素直な賞賛に、西村も笑顔を見せる。久々に見た気がする笑顔だった。幸次は二杯目のロブ・ロイを再び口に運ぶ。ほろ苦い甘さと煙臭さが口の中を満たした。酔いがようやく回り始めていた。土屋も無言でマンハッタンを口に運び、ささやかな幸せを噛み締めていた。西村は、二人の様子を口元をかすかにつり上げて眺めている。追憶は鳴りをひそめ、本来の仕事振りを発揮できるようになっていた。くだけた雰囲気が場を支配しつつあった。

 「奥様は来られなかったんですか」

 幸次がアルコールで滑らかになった口調で、土屋に話しかけた。

 「食時の時に少々酒量を過ごしましてな。しばらく部屋で休んでから来るとのことです。食事もワインも素晴らしかったので、ついつい私も調子に乗ってしまいました」

 土屋がマンハッタンを飲み干した。もう一杯、同じものを、と西村に告げて、カクテルグラスをコースターごと前へと差し出す。

 「私も昨夜はレストランで食事をしましたよ。ワインの品揃えもさることながら、料理の質が本当に高かったですね」

 幸次がやや興奮気味に、早口で話しかけた。

 「ありがとうございます。シェフにも伝えておきます。きっと、彼も喜ぶでしょう」

 西村がミキシンググラスに氷を入れながら、厳かに言った。同じ職場で働く者同士、似たような矜持を抱いているのかもしれないな、と幸次は思った。カクテルグラスの底に沈んだマラスキーノ・チェリーをつまみながら、横目に土屋をみると、彼もまた同じような思いを抱いた様子で、仕切りに感心した風であった。二杯目のマンハッタンに口をつけると、土屋がおもむろに口を開いた。

 「ところで、先程はなんのお話をされていたのですかな。随分と真剣なご様子でしたが」

 土屋の何気ない質問に、幸次は内心どきりとする。しかし、当の西村は涼しい顔で飄々と答えた。

 「年寄りの昔話でございますよ。お若い方がいらしたので、つい余計なことをお話ししてしまいました。私もそれだけ歳を重ねてしまったということなのかもしれません」

 土屋はそれ以上深くは追求せず、黙ってマンハッタンを一口飲んだ。つられるように、幸次もロブ・ロイを飲み干す。

 「永井様、先程は大変失礼致しました。年寄りの戯言と思って、お忘れになってくださいませ」

 深々と一礼する西村に対して、幸次は慌てたように手を降りながら答えた。

 「とんでもないことです。気にしないでください。支配人が良く話すのに少し驚いただけで、けして不快ではありませんでしたから」

 それは嘘ではなかった。間が保たない気はしていたが、不快感はなかった。

 「年寄りは悪い見本を示すことが出来なくなった腹いせに、良い教訓を言いたがる」

 それまで黙っていた土屋が口を開いた。

 「オスカー・ワイルドの言葉です。支配人はお若い方に見本を示して見せた。さしずめそんなところですかな」

 西村が短く声をあげて笑い、土屋も一緒になってにこりと笑った。そんな二人を見て、一瞬あっけにとられた幸次もまた、声を出して笑う。三人の笑い声が、ユニゾンで響いた。

 「いや、愉快な夜ですな。これだけでも、ここにきた甲斐があったというものです。いや、こちらの方がロビーでオスカー・ワイルドを読んでいたものでね。つい思い出してしまいました」

 笑いをこらえながら、土屋が心から楽しそうに言った。幸次は若干の気恥ずかしさを感じながらも、土屋の自虐混じりの冗談に救われた気分だった。永井様、と西村が幸次に呼びかける。

 「お詫びというにはあまりにもささやかなのですが、お教えしたいことがございます」

 そう告げて、西村はカウンターの片隅から一枚の紙片を取り出す。それは、この湖周辺の地図だった。幸次につられて土屋も地図を覗き込む。西村が湖の北側を指差した。

 「当ホテルから湖を挟んで反対側、北の方に湖に流れ込む川がございます。この川の上流は岩魚や山女の一大ポイントとなっているのです」

 にわかに幸次の目が輝き始めた。もしや、と思っているところに、西村が言葉を続ける。

 「ここからが重要なのですが、この川の上流域には一軒宿の温泉がございまして、その源泉はこの川沿いにあるのです」

 水温か、と土屋がつぶやき、マンハッタンを飲み干す。左様でございます、と西村もつぶやきで応えた。ここまでくれば、幸次にも西村の言わんとするところがはっきりと見て取れた。

 「その源泉の周辺の流域だけ、水温が高めなのです。四月初めの現時点でもトラウトの活性が高く、餌も良く食えばルアーやフライもよく追います。これは地元の人間しか知らないことです」

 幸次は地図から顔を上げると、西村の顔を呆然と見つめた。ささやかどころではない、値千金の有力情報だった。実際問題、明日の天気予報も今日と変わらず、曇り空の下では水温も鱒の活性も上がる見込みはなかった。ここは西村の提案に乗るのが吉かもしれない。そう、幸次が決意したその時だった。

 「随分と楽しそうね。男の方が三人も顔を付き合わせて、何の悪だくみかしら」

 土屋の妻が、微笑みをたたえて佇んでいた。音もなくカウンターに歩み寄ると、土屋の右隣の席に腰掛ける。その洗練された物腰に、幸次は思わず口笛を吹きかけて、慌てて思い止まった。

 「何のお話をしてらしたの」

 「内緒話さ。誰でも自分の失敗談はあまり人に聞かれたくないものだろう」

 土屋の冗談めかした口調に、西村が苦笑する。

 「何か召し上がりますか」

 「そうね。そういうことなら私から一杯ご馳走させていただこうかしら。アイリッシュコーヒーを二つください。とびきり苦くて、悪酔いしそうなやつをね」

 西村は軽く目を見開いて、かすかにおどけた表情を見せつつも、二人分のコーヒー豆の軽量を始めた。豆をミルにかけて粉砕し、ドリップの準備をしてから手際よく生クリームを泡だて始める。

 「何を拗ねてるんだい」

 「拗ねてなんかいないわ。内緒の悪だくみが気にくわないから、ちょっと意地悪を言っただけよ」

 「釣りのポイントを教えてもらってただけですよ。ご主人も人が悪い」

 幸次が夫婦の会話に割って入る。

 「人が悪いというよりも、悪い人なのよ、この人は。ごめんなさいね。私ってば大人気ないところをお見せしてしまって。お詫びに一杯奢らせて。この方にも同じものを」

 かしこまりました、と西村が言うのとほぼ同時に、土屋が口を開く。

 「こちらの方に一杯奢るのは同意だけれど、悪い人はないだろう。僕みたいな良い男もそうそういないだろうに」

 「馬鹿」

 会話の端々に見え隠れする夫婦仲の良さを、幸次は素直に羨ましく思った。失われた時の欠片、来たるべきだった未来の姿。胸がちくりと痛んだが、憧れが後悔を上回っていた。コーヒーの良い香りが、鼻腔をくすぐった。

 「私たちってば、いつでもこの調子なの。この人も、自分の子供くらいの人と出会ったものだから、はしゃいでいるのかしら」

 お待たせ致しました、と言って西村が三人の前に耐熱グラスに注がれたアイリッシュコーヒーを差し出す。三人はグラスを手に取ると、各々目の高さにグラスを掲げた。生クリームで蓋をされたアイリッシュコーヒーは、ギネスビールのような外観で、ウィスキーの芳しい香りが立ち上っている。生クリームを唇でどけるようにして口をつけると、甘くほろ苦い味とウィスキー独特のウッディなアルコールの匂いが鼻に抜けていった。

 「明日も釣りをされるのかしら」

 アイリッシュコーヒーのグラスを右手に掲げて弄びながら、土屋の妻が言った。その様子は、あたかも子供が無邪気な好奇心でグラスをいじっているかのようだった。

 「天気が良ければ毎日釣りをするつもりです。ここへはそのつもりで来ましたから。明日は支配人に教えてもらったポイントまで足を伸ばす予定です」

 そう、と土屋の妻は消え入りそうな声で言った。

 「では、お会いできるのは今夜が最後というわけね。釣りというのは朝早くに出立するものなんでしょう」

 その言葉に幸次は目の覚めるような思いだった。自分との別れを惜しんでくれる人がいる。そのことにじわりと嬉しさがこみ上げて来た。

 「それでは今夜は飲みましょうか」

 土屋が人の良い笑顔でアイリッシュコーヒーを飲み干した。

 「駄目よ。こちらの方は明日早いのだし、貴方は肝臓の数値がまだ高かったでしょう。夕食の時も散々飲んだのだから、これで最後にしてちょうだい」

 ぴしゃりと釘を刺されて、土屋が首をすくめた。

 「仲がよろしいんですね」

 幸次が素直に思ったままを口にする。

 「腐れ縁というやつですかな。ずるずると引きずられて、この歳まで来てしまいました」

 土屋がおどけた口調で言うと、妻が強烈な流し目で夫を見た。

 「その腐れ縁に寄りすがって、泣きながら『付き合って欲しい』って言って来たのはどこの誰だったかしらね」

 静かな声だけに、凄みがあった。

 「なにもそんな昔のことをここでばらさなくても良いだろう。もう時効だよ」

 「自分の失敗談を話しただけよ」

 二人の会話に、幸次はとうとう吹き出してしまう。西村も、笑いをこらえていた。

 「本当に仲が良さそうで羨ましいです。そうやって色々と言い合える関係は理想ですね」

 幸次が屈託のない笑顔を浮かべて言った。

 「貴方は優しい方ね。そんな風に言われたら、なんだかこそばゆいわ。きっと貴方にも良い人が現れるわよ。それとも、もう既にいて隠してるのかしら」

 幸次が一瞬見せた表情の陰りを、三人は見逃さなかった。土屋の妻が軽く頭を下げる。

 「ごめんなさい。出すぎたことを聞いてしまったみたいね」

 幸次が寂しげな笑みを見せた。それを見て、西村が記憶を辿る。昨夜、レストランで見せたものと同じ表情だった。

「良いんですよ。よくあることです。いちいち過敏に反応していたら身がもちません。色々あったのは事実ですけれど、そのくらいで落ち込んでいたら、私の倍以上生きてきたお二人に笑われてしまいます」

 幸次はアイリッシュコーヒーを飲み干して、髪をかきあげる。そして、にっこりと笑ってみせたのだった。そんな幸次を見る土屋夫妻の目つきは、あたかも実の息子に対するそれのように、優しげで穏やかだった。

 「明日は魚が釣れると良いわね」

 土屋の妻が言う。そして土屋も、それに相の手を入れる。

 「そうだな。釣れると良いな」

 そう言ったのだった。明日はきっと、もっと良い日になる。四人とも、そう信じて止まなかった。

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