第5話

 朝食は典型的なイングリッシュ・ブレックファストだった。昨夜、バーで飲んだ時に西村に頼んで手配してもらったのだ。遅い時間のオーダーだったが、快く応じてくれたことが嬉しかった。少し食べ過ぎたかな、と幸次は思う。昼食はお茶で済ませても良いかもしれないほどに、たっぷりとした朝食だった。

 幸次は水を飲み干して薬を流し込むと、桟橋のあるテラスに出る。天気は予報通り、薄曇りだった。そよ風が吹き、湖面に半円形の波紋が描かれた。鱒のライズはまだ無く、活性はそれほど高まっていないようだった。雲の向こうにうっすらと見える太陽に目を細めながら、幸次は煙草に火を点けた。紫煙が風で流れていく。西村の話では、ワカサギが産卵で遡上する春に鱒がそれに合わせて接岸するとのことだった。今の時期ならば、自分にもチャンスがあるかもしれない。そんなことを考えながら、幸次は煙草を灰皿で揉み消して大きく深呼吸をした。気合は十分だった。

 ロッドを継ぎ、リールをセットしてガイドにラインを通す。ラインはナイロンの6ポンド、ルアーはスタンダードな銀色のスプーン。ルアーにラインを結びつけると、幸次は桟橋の先端までゆっくりと歩みを進めていった。桟橋に波が当たり、水音が足元から聞こえてくる。右足を引いて半身になり、ロッドを真一文字に構えると、サイドハンドキャストでルアーを解き放つ。スプーンが綺麗なライナーを描き、着水する音が静寂を破った。一〇メートルほど先の水面に、円形の波紋が現れた。一五カウント数えて、幸次は慎重にリールを回し始める。水の抵抗とルアーの挙動を感じながら、巻き取りのリズムを変える。ただそれだけの動作が、楽しくてたまらなかった。様々な鳥の鳴き声が聞こえる。湖の上では、鳶が羽を広げて弧を描いていた。

 ルアーを手元まで引き寄せ、再びキャストしてリールを巻き取る。単純な動作の繰り返しの最中に、幸次は不思議と心穏やかな気持ちになっていた。鱒を求めて、ただひたすらにルアーを投げ続ける。風が凪いでいた。数十回はキャストしただろうか。鱒はおろか、ウグイさえも針にかかる気配はなかった。ルアーを金色のスプーンに結び替え、再びキャストしても結果は同じだった。幸次はルアーを巻き取ると、ロッドを桟橋に置いて煙草に火を点けた。紫煙が細くたなびく。口の中が苦くなった。そらは相変わらずの曇り空だった。腕時計の針は正午近くを指していた。さして空腹でもなかったが、休みたかった。仕切り直すか、と胸中でつぶやいて、幸次はロッドを手に取ると、煙草を揉み消して湖に背を向ける。その様子を、レッドブレスト・マナーのレストランからガラス越しに眺めて居る人影があった。西村だった。


 幸次が桟橋のたもとにロッドを立てかけてレストランに入ると、西村が声をかけてきた。

 「いかがですか」

 「素晴らしいフィールドですね。オーナーがこの場所を選んで桟橋まで作ったのも、わかる気がします。今日のコンディションだとボウズで終わるかもしれませんけれど、釣りをしていて本当に楽しいです」

 屈託の無い感想に、西村もつられて笑顔を見せた。

 「釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えば良い。アーネスト・ヘミングウェイの言葉だそうです。私もこの湖でたまにフライをやりますが、釣れない時にはこの言葉を思い出して実感しています。誰もが思索家となり、求道者足り得るのもまた、釣りの魅力かもしれませんね」

 無言の同意で幸次がうなずく。あるいは、幸次にとっての釣りは瞑想や禅に近いものであったかもしれない。余計なことは何も考えず、心を無にしてひたすらにルアーを投げ続ける。そこに思考や感情の入る余地は、それほど無かった。

 「何か召し上がりますか」

 西村が声をかける。幸次は紅茶とサンドイッチを注文し、西村が厨房に姿を消すのを見届けると、椅子に深く座り直して背もたれに体重をかけた。これで良い。始めから上手くいき過ぎると、後々碌なことが無い。そんなことを考えながら、幸次はガラス越しに湖のコンディションを確認する。風が強くなり始めていた。先程の西村の言葉を思い出す。釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えば良い、か。ヘミングウェイもなかなか良いことを言うものだ、と彼は思った。ヘミングウェイの短編の主人公、ニック・アダムズさながらに、幸次もまた救いを求めて鱒釣りをする一人だった。釣果が見込めないまま一日が終わるかも知れない、それもまた鱒の思し召しなのかも知れなかった。

 「お待たせいたしました」

 西村が紅茶とサンドイッチをテーブルに置いた瞬間、幸次は不意に空腹を覚えて内心で苦笑する。そんな彼の心を知ってか知らずか、西村は何も言わなかった。サンドイッチは二種類あり、ひとつはスモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチ、もうひとつは正統派のきゅうりのサンドイッチだった。紅茶からは蜂蜜のような甘い香りが漂ってくる。恐らくは上物のアッサムだろう。幸次はサンドイッチに手を伸ばし、紅茶をすする。知らず知らずのうちに疲れていた心身に染み渡る、優しい味だった。

 空腹を満たすと、眠気が襲ってきた。幸次はレストランを出ると、ロビーのソファーの腰を下ろして目を閉じる。部屋まで戻る気力は無かった。暖炉の炎が暖かかった。程なくして幸次は寝息をたて始める。その様子を見ていた西村が、そっと毛布をかけた。


 幸次が目を覚ますと、果物籠の油絵が目に飛び込んできた。暖炉の薪が爆ぜて火花が散る。目の前で西村が暖炉に薪をくべているのを見て、彼は徐々に自分が何処にいるのかを認識し始めた。腕時計は午後二時三〇分を指していた。

 「お目覚めですか」

 気配を感じて西村が幸次の方を見た。軍手を外しながら、彼は言葉を続ける。

 「差し出がましいとは思いましたが、良くお休みだったもので」

 幸次は首を振って、朧げに覚醒し始めた頭を必死に働かせる。毛布が暖まっていた。

 「ありがとうございます。うっかり風邪を引くところでした」

 礼を言うと幸次は毛布をたたむ。外の様子が気になった。

 「天気は相変わらずの曇り空ですね。ライズも無く、今日は見込めないかも知れません」

 西村が厳かに言った。見事なくらいに、幸次の心情を先回りした台詞だった。続けなさいますか、と西村が目線で問いかける。幸次は無言でうなずくと、一言だけ付け加えてソファーから立ち上がった。

 「もう少しだけ、考える時間が欲しいので」

 負け惜しみではない、偽りのない本心だった。桟橋のあるテラスへのドアを開けると、幸次は立てかけて合ったロッドを手に取った。西村が、その後ろ姿にうやうやしく一礼をする。鱒を求めて止まない同志に対する、最大限の敬意がそこに表れていた。

 レッドブレスト・マナーの玄関前に車が停まる音と気配を感じ、西村はタキシードの襟を正して向き直る。一組の予約客を迎えるべく、彼は玄関へと歩み始めた。幸次のことも気がかりではあったが、新たな客を迎え入れることもまた、彼が忠実にこなすべき職務だった。

 幸次は再びロッドを握り、ルアーを投げ始める。一途に鱒を求めて、求道者の忍耐をもって。西村は新たな客を迎え入れ、愚直なまでに彼の信じるやり方でもてなす。それがつかの間の宿り木であるとしても、客の心に何がしかの灯火を残すと信じて。二人とも、それぞれのやり方で自身の為すべきことと向き合っていた。


 湖面は穏やかに波打ち、時折、幸次が投げたルアーが波紋を描くのみで、鱒の気配は全くと言っていいほどに感じられなかった。それでも、彼は黙々とルアーを投げ続けた。あたかも瞑想に耽る修行僧のように、彼は鱒という魚が与えてくれた時間を惜しんでいた。そろそろ切り上げようか。そう思って幸次がその日最後のキャストをした、その時だった。背後のドアが開く気配に幸次が振り返る。見知らぬ初老の男がそこにいた。男は風に吹かれて帽子を押さえながら、ほう、こんな桟橋まであるのか、と囁くようにつぶやくと、幸次に気がついて会釈をした。

 「こんにちは。釣れますか」

 屈託のない笑顔で男が尋ねる。気軽な口調に、幸次もどことなく安心感を覚えて、無意識のうちに警戒を解いていた。

 「いや、さっぱりですよ。もう二日ばかり滞在する予定なので、帰るまでには釣れて欲しいものですね」

 幸次はルアーをゆっくりと巻き取り、湖面から引き上げる。金色のスプーンから、雫が滴り落ちた。

 「釣りで滞在ですか。良いですねえ」

 元から大らかな性格なのだろう。心底人の良さそうな笑顔に、幸次もつられて笑顔を見せた。

 「なけなしのお金をはたいての貧乏旅行ですよ。自分には分不相応な宿だと思ってます。あまりにも居心地が良すぎて、時々そのことを忘れそうになりますけど」

 釣り道具を片付けながら、冗談めかして幸次が言う。半分以上は本音だった。

 「宿の居心地の良さは大事ですよ。たとえ貴方の言う通りだとしても、貴方はこのホテルの魅力をよく分かっておられる。まだお若いのに、大したものです」

 男は桟橋のベンチに腰掛けて、胸ポケットから煙草を取り出した。幸次がジッポーを差し出し、男の煙草に火を点ける。こりゃどうも、と男が軽く頭を下げた。

 「ご一緒しても良いですか」

 幸次も煙草をくわえると、男が自分のライターを差し出した。デュポンのガスライターだった。二人はベンチに並んで座り、黙々と煙草をふかす。紫煙が仲良く風になびいた。

 「さて、そろそろ行かなければ。家内を待たせてしまう」

 男が灰皿で煙草を揉み消して、言った。

 「奥様とご旅行ですか。羨ましいです」

 幸次も煙草を揉み消す。火種が灰皿の中の水面に落ちて、小気味良い音を立てた。

 「いや、長年連れ添ってきましたが、これまで夫婦水入らずの旅行というやつをしたことがなかったのでね。私の仕事も完全に定年を迎えましたし、ここいらで家内を旅行に連れ出してやろうと思いまして」

 並んで歩きながら、二人はロビーに続く扉を開ける。

 「それは素晴らしいですね。しばらくこのホテルに滞在されるんですか」

 「いえ、明日には奥飛騨の方へ出る予定です。ここに連泊することも考えたのですが、せっかくなのであちこち回りたいと思いましてね。あいにくと、私も家内も釣りはしませんので」

 ロビーに入ると、紅茶を飲んでいた初老の女性がこちらに気づいて向き直った。

 「土屋様、お待たせいたしました」

 その傍らに佇む西村が男に声をかける。ああ、これはどうも、と土屋が西村に頭を下げた。

 「とても美味しい紅茶よ。あなたも頂いたら。そちらの方はどなたかしら」

 幸次が会釈する。永井です、と慌てて付け加えた。

 「このホテルに滞在しているお客さんだよ。そこの桟橋で釣りをしていたんだ」

 ああ、そうなの、と女性が柔らかく微笑んだ。花がほころぶような笑顔だった。似た者夫婦なのだろうか、土屋の妻の方も、とても大らかな性格のようだった。土屋は妻の隣に腰かけると、置かれたカップに手を伸ばして紅茶を一口飲んだ。ああ、こりゃ確かに美味い、と土屋がつぶやく。幸次もくつろいだ気分になり、ロビーのソファーに深く腰を下ろした。この夫婦が持つたおやかな雰囲気に、自然とそうするのが正しいような気にさせられた。幸次はそっと目を閉じ、ソファーに身を任せた。土屋夫妻が紅茶をすする音と、暖炉の炎が爆ぜる音だけが聞こえる。沈黙を破ったのは、電話の音だった。失礼いたします、と告げて西村がカウンターの奥の部屋へと戻っていき、三人がその場に残される。幸次が目を開けると、夫妻のカップの紅茶が空になっていた。

 「今日のお客は私たちだけなのかしら」

 土屋の妻が、ぽつりとささやくように言った。土屋の代わりに、幸次が答える。

 「そのようですね。昨日は私だけでした。これからシーズンになって、だんだん増えてくるんじゃないでしょうか」

 そう、と土屋の妻が言った。

 「こんな素敵なホテルなのだから、もっとお客が入って欲しいと思うのだけれど、その反面、お客が少ない方が居心地が良いのよね。我ながらわがままだとは思うのだけれど」

 それは幸次も常々感じていたことだった。全八室のレッドブレスト・マナーはシーズンオフであることを差し引いても、客単価が高めなことも手伝ってか、客が少なかった。昨日の西村の話では、神奈川の病院長が半ば道楽でやっているということだったので、あるいはそれで良いのかもしれないと幸次は思う。知る人ぞ知る湖畔の隠れ宿である方が、オーナーにとっても、西村をはじめとするスタッフらにとっても、そして幸次のようにつかの間の安らぎを求めて集う客にとっても、都合が良いのであろう。そんなことを思いつつも、幸次は敢えて何も口にしなかった。不快ではない沈黙が、周囲を再び夕霧のように包み込んでいた。

 「お待たせ致しました」

 沈黙を破ったのは、西村だった。

 「さて、そろそろ行くかな。ごちそうさま。あなたは今夜もレストランで食事をされるのですかな」

 ソファーから立ち上がりながら、土屋が幸次に言う。幸次は苦笑しつつ、応えた。

 「いえ、先ほどお話しした通り、貧乏旅行ですから。昨夜レストランで散財してしまったので、今夜はおとなしくしてますよ。夜更けにバーで軽く飲むくらいですかね」

 では、バーで。そう告げると、土屋は西村の先導で妻を伴って、階段の奥に姿を消した。後には、幸次独りが残される。約束、と言うほど大層なものでもないだろうけれど、バーで再び会えるのが楽しみだった。土屋夫妻の穏やかな物腰には、安心させられる何かがあった。あるいは、このレッドブレスト・マナーの魅力に引き寄せられるように、似たような人々が集うのかもしれないと幸次は思う。

 夕食時まではまだ時間があった。幸次はソファーから立ち上がり、釣り道具を手にすると、ロビーを後にして階段を一歩ずつ、ゆっくりと踏みしめるように昇り始めた。部屋にたどり着き、ドアノブに手をかけながら、土屋夫妻の夕食のメニューはなんだろうか、とそんなことを考えていた。

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