第4話
窓の外は宵闇に包まれていた。幸次は部屋に備え付けのコップに水を汲むと、小さな紙袋から錠剤をいくつか取り出した。薬を流し込んで、おもむろにベッドに横になる。酔いが回っていた。視界の端に、ちらちらと暗い影のようなものが見え隠れしていた。どれくらいそうしていただろうか。かぶりを振って上半身を起こすと、彼は煙草の箱に手を伸ばす。灰皿を探して視線を徘徊させたところで、部屋が禁煙だったことに気がついた。西村の言葉を思い出し、幸次はドアノブに手をかけた。
階段を降りて暖炉のあるロビーに差し掛かる。薪が赤々と燃えていた。果物籠の静物画がほの明るく照らされている。時計は午後九時三〇分を指していた。幸次は暫し躊躇する。暗闇に覆われたテラスを目の当たりにして、得体の知れない不安感が漂い始めたのだ。誰かと話がしたい気分だった。踵を返し、彼は暖炉の前を素通りして、バーへと歩みを進めた。バーに足を踏み入れると、カウンターの中には早くも見慣れた人物が立っていた。西村だった。そのことに、彼は不思議なほど安堵感を覚えていた。
「煙草が吸いたくて」
幸次が口を開いた。自分でも意外なほど、気軽な口調だった。付かず離れずのちょうど良い距離感。そんな西村が気に入っていた。必要以上に踏み込む事もなければ、踏み込まれる事もない。あたかも、優れた精神科医のような分別ある態度だった。
「何を召し上がりますか」
席に着き、おしぼりで手を拭きながら幸次は思案する。ビールとワインは飲んだばかりだったし、ウィスキーという気分でも無かった。軽い飲み物が欲しかった。
「ジントニックを」
「ジンはどの銘柄がお好みでしょうか」
西村の背後の棚をさっと見回して、幸次が応えた。
「ボタニストでお願いします」
西村が背を向けてボトルを手に取るのとほぼ時を同じくして、幸次が煙草に火を点ける。六時間ぶりの煙草だった。紫煙を深く吸い込み、ゆったりと吐き出すと、不規則な文様が宙に描かれた。軽い酩酊感を覚えて、幸次の目つきが虚ろになった。西村が澄んだ氷をコリンズグラスに三個入れ、メジャーカップで流れるようにジンを注ぐ様子をぼんやりと見つめる。冷蔵庫から取り出したトニックウォーターをグラスに満たし、炭酸が抜けないように軽くステアする手さばきは、奇術師のように鮮やかで見飽きなかった。
「お待たせ致しました」
くし切りにしたライムを添えて、西村がジントニックをコースターの上に差し出した。幸次はマドラーでライムを潰し、口をつける。甘酸っぱく、爽やかな香気が身体を吹き抜けた。彼が黙々と煙草とジントニックを交互に口に運んでいると、不意に西村が口を開いた。
「私もこのホテルに勤めて長いですが、ジントニックを注文されるお客様は少ないですね。ジンもビールやウィスキーに負けず劣らず、英国文化と関わりの深いお酒なのですが」
そう語る西村の口調は淡々としたものではあったが、何処か物悲しさがつきまとう。彼の背後には数多のウィスキーのボトルが鎮座していたが、その中には一〇種類ほどのジンのボトルが混ざっており、そのことが西村のジンという酒に対する愛情と矜持を裏付けていた。
「安酒のイメージもあるのかも知れませんね。ホガースのジン横丁。昔というほどでもないけれど、世界史の授業で習った覚えがあります」
幸次が二本目の煙草に火を点けて言葉を続けた。
「ジンも丁寧に作られたものは美味しいんですけどね。ボタニストもそうですけど、ヘンドリックスまで置いてあるのには驚きましたよ」
西村が目を細めた。そう仰っていただけると何よりです。普段通りの口調ではあったが、微妙に熱がこもったように思えた。
「それに、ジントニックは女王陛下がお好きな飲み物としても有名ですからね。古いイメージに囚われて敬遠してしまうのはあまりにも勿体無いですよ」
幸次が煙草を灰皿で揉み消して破顔した。ここを訪れて、初めて見せた満面の笑みだったかもしれない。
「諧謔の分かるお客様がいらしてくださると嬉しいですね。私共も楽しいですし、やり甲斐があります」
つられたように、西村も笑顔を見せた。そして、再び沈黙が訪れる。幸次はそれさえも心地良く感じた。ジントニックを飲み干し、彼は三本目の煙草に火を点ける。
「明日は晴れるでしょうか」
幸次の問いに西村が思案顔になった。
「天気予報では薄曇りだと聞いております。雨が降る様子はなさそうですし、湖の水も濁ってはいないようですので、釣りをされるのには支障はないかと」
見事なまでに先回りされた回答に、幸次は嬉しさを感じて微笑んだ。
「私はフライフィッシングを嗜んでおりますが、永井様もフライをされるのですか」
意外と良く話す人なんだな、と埒も無いことを考えつつ、幸次が口を開いた。
「いえ、自分はルアーでやってます。獲物は同じトラウトなんですけどね」
左様でございますか、と西村が再び目を細める。そこには、多少の手段は違えど、同じ獲物を求める者同士が共有する、ある種の連帯感が漂っていた。西村も幸次も、鱒の美しさ、気高さに魅せられ、取り憑かれた人々だった。
「私は鱒という魚の生命力に強く惹かれるものがあります。泳いでいる姿。虫を狙ってライズする瞬間。銀色に輝く魚体。生きることの尊さ、美しさを教えてくれているような気がしてなりません」
私が年寄りになりつつあるので、尚更そう思ってしまうのかも知れませんが。そう付け加えて、西村は幸次の目を見つめる。鳶色の瞳が微かに揺らいだように見えた。
「分かるような気がします」
沈黙を破ったのは幸次の方だった。
「自分は、自分が生きていることを常に確かめたいのかも知れません」
ほう、と西村が目を軽く見張る。彼の目に興味の色が宿った。
「自分はいつも得体の知れない薄ぼんやりとした不安感に苛まれています。薬を飲むことで一時的には楽になれるけれど、まだまだ根本的な解決には至っていません。そんな最中に出会ったのが鱒釣りでした。鱒の手応えを直に感じて、輝く魚体を目の当たりにして、そこに生命の息吹のようなものを感じました。手にした鱒を料理して、一口一口噛みしめるように味わった時、自分はこの鱒の命をもらって生きながらえている、そんな気がしたんです」
西村は否定も肯定もせず、ただ黙って幸次の話に耳を傾けていた。幸次は水を飲んで軽く息を吐くと、続けて言った。
「それ以来、鱒釣りのフィールドを求めてあちこち行きましたよ。ここになら自分が求めている『約束の地』のようなものがあるかも知れない。そう思いながら。あるいは、それを求めること自体が目的化しているのかも知れませんが。でも、ここへ来て良かった。支配人のような方もいらっしゃるし、ここには、外界から隔絶されたかのように緩やかな時間が流れています。たとえ毎日雨で釣りが出来なかったとしても、自分はここへ来たことを後悔しないでしょう」
幸次が西村の目を見つめ返す。問わず語りの沈黙。お互いに黙ったままではあったが、交わし合う視線が互いの想いを何よりも雄弁に伝えていた。
「ここには様々なお客様がいらっしゃいます」
西村が柔らかな口調で語りかけた。
「人生を謳歌している方もいらっしゃれば、悩み苦しんでいる方もいらっしゃいます。ただ一つ、言えるのは、このレッドブレスト・マナーがあらゆるお客様を受け入れて来て、皆様が晴れやかなお顔で旅立たれるということでございます。永井様もどうか、ご自分のもう一つの家だと思って、お過ごしくださいませ」
何度目かの沈黙。それさえも清々しかった。幸次も、西村も、口を開かなかった。言葉として発することで、二人の間に生まれた居心地の良さが雲散霧消することを恐れていたのかも知れないし、若しくはただ単にかける言葉が見つからなかっただけかも知れない。
「明日は晴れると良いですね」
社交辞令を含まない心からの西村の言葉に、幸次は、そうですね、とそれだけをつぶやいた。
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