第3話
レストランに入ると、テーブルに一名分の食器セットがあつらえられていた。白を基調とした内装が清潔感を放つ。席は湖に面してガラス張りになっており、庭の灯りが木々をうっすらと浮かび上がらせている。客は彼独りだった。
「お飲み物はいかがなさいますか」
席に着いた幸次に西村が声をかける。ガラスの向こうに広がる湖面のように穏やかな声色だった。出会って三時間しか経っていないのに、幸次は西村のそういうところが気に入っていた。自然と心やすい気持ちになり、彼は応える。
「アペリティフにビールを一杯。エールがあればそれをください」
「では、志賀高原ビールのIPAをお持ちしましょうか」
幸次は微かに笑みを浮かべてうなずいた。西村の後ろ姿を薄ぼんやりとした気分で見送りながら、これくらいの贅沢は許されるだろう、と埒も無い考え事に耽っていた。これほどリラックスできたのは本当に久しぶりだな、と彼はしみじみ思った。
お待たせ致しました、という西村の声で幸次は我にかえる。赤銅色のビールが注がれたグラスが、彼の前にそっと置かれた。柑橘類の香りと干し草の香りが合わさった、やや苦みの強いビールにそっと口をつけ、幸次は再び口を開く。たゆたうように流れる時間と西村の優しげな雰囲気、そしてわずかばかりのアルコールが彼の口調を滑らかにしていた。
「支配人は給仕もされるんですね」
何気なく振った世間話に、西村は微笑みを崩さず応えた。
「はい。夜にはバーのカウンターに立つ時もございます。当ホテルのオーナーのご意向で、支配人というよりは執事のようなものですね」
幸次は二口目のビールを口に運ぶ。
「昔、オックスフォードの貴族の館にお仕えしていたもので。こう言ったことには慣れております」
幸次はビールを吹き出しそうになるのを慌ててこらえる。むせ返るようなビールに苦味に軽く咳き込んだ。西村を見つめる目の光には、驚きと好奇の色が混ざっていた。
「失礼いたしました。少々おしゃべりが過ぎたようで。お料理をお持ちいたします」
幸次は場を取り繕うように、ワインリストを手に取った。気恥ずかしさを隠しながら、リストの文字に目を走らせる。心臓が早鐘を打っていた。西村の動きが止まる。
「ワインをご所望でしょうか」
ええ、まあ、と幸次は語尾を濁す。やや混乱しかけた思考を必死に繋ぎ止めながら、大きく息を吐いた。その時だった。彼の目が、とあるワインの名前に釘付けになったのは。幸次は大切なものをそっとなぞるかのように、その文字列を指で撫でた。鼓動は緩やかに波打っていた。思わず涙ぐみそうになるのをこらえて、彼は左手でビールのグラスをあおる。
「そちらのワインでしたらハーフボトルでもご用意できますが」
幸次が目を見張る。どれほどの時が流れたであろうか。ほんの数秒であったかもしれないし、数分であったかもしれなかった。そして。
「お願いします」
そう応えたのだった。
幸次の頼んだワインはフランス・ブルゴーニュ地方の銘醸ルイ・ジャド社のムルソー村のものだった。西村は手慣れた手つきで抜栓し、グラスに少量のワインを注いで、テイスティングを幸次に求めた。彼がこのワインを独りで飲むのは初めてだった。幸次はおずおずとワイングラスを手に取り、ゆっくりと回してワインの香りを開かせてから、鼻先で慎重に香りを確かめる。ムルソー特有のバターやナッツの香りが鼻腔をくすぐった。口に含むと、真綿のような柔らかな厚みのある酸が広がった。幸次は西村の目を見つめ返すと、オーバーアクション気味にこくりとうなずいた。西村は再びワインをグラスに注ぐと、会釈してキッチンへと姿を消した。幸次は、もう一度ムルソーを口に含む。彼の胸中に哀憐の情が灯火のように訪れた。ささやかな気まぐれのつもりだった。もはやこのワインを口にすることも無いと思っていたが、久々に飲んだムルソーの豪奢な味わいは、彼を慰めてくれるかのようだった。
一品目の料理はサラダ仕立てにした信州サーモンのスモークのマリネだった。信州サーモンはレインボートラウト(虹鱒)とブラウントラウトの交配種で、安曇野の長野県水産試験場が開発した品種だ。肉質は滑らかできめ細かく、脂の乗ったスモークサーモンはくどさが全く無い。様々なベビーリーフのサラダの爽やかさも相まって、いくらでも食べられそうだった。包丁で細かく叩いた玉ねぎが刺激を添えた。
二品目のオニオングラタンスープも絶品で、ここまでくると流石に料理人の非凡な力量が見て取れた。ハーフボトルのムルソーは、半分ほどに減っていた。
「岩魚のムニエルでございます」
西村が感情を読ませない表情で三品目の魚料理をテーブルに置いた。
「目の前の湖で獲れた天然の岩魚をムニエルにいたしました。オランデーズソースでお召し上がりください」
姿の美しい見事な岩魚は、頭から尾の先まで鋭さを感じさせた。ナイフを入れると真っ白な身が現れる。黄色のオランデーズソースを絡めて口に運ぶと、レモンとバターの風味が口の中に広がった。鼻に抜ける川魚特有の青さを伴った繊細な香りに、幸次はふっと笑みを漏らす。そうするのが当然であるかのように、ワイングラスに手が伸びた。
四品目の肉料理は、信州プレミアム牛のローストビーフだった。使われているのはモモ肉だが、その部位にもほど良く細かなサシが入っていて、旨味と脂の甘みのバランスが良い。グレービーソースがかかり、ホースラディッシュの代わりに山葵がそえられていた。つんと鼻に抜ける刺激的な香りが、心地良かった。
「安曇野産の山葵でございます。香りが違うでしょう」
西村がワインを注ぎながら、言った。幸次はワインを口に含んで、口の中の脂を洗い流す。そして、口角をつり上げてうなずいたのだった。
デザートの安曇野産牛乳のソルベは蜂蜜の風味が濃く、素直さを感じさせる甘さだった。舌の上でさらりと溶け、喉の奥へと滑り落ちていく。半分ほど食べたところで、幸次はふと思い立って、グラスにわずかに残して置いたワインをソルベにかけた。滴り落ちたワインがソルベと混ざって白い流れを生み出す。ムルソーのワインは、もし黄金に味があるならばそれはムルソーであろう、と称されるほどに凝縮され、力強さと優美さを兼ね備えているが、その黄金の王者の風格が、素朴なソルベに腰の強い果実味を与えていた。
全てのメニューを食べ終えて、目の前のカップに注がれた紅茶を飲みながら、幸次はそっと目を閉じる。ムルソーのワインの高貴さを感じさせる酸が、まだ口の中に残っていた。
「お料理はお口に合いましたでしょうか」
西村が口の端を2ミリほどつり上げて、幸次に言った。
「ええ。とても」
幸次は目を開けて、問いに答える。紅茶のカップから立ち上る湯気が、陽炎のように揺らいだ。そして。
「懐かしい味と再会できましたから」
微かに寂しさをのぞかせた表情で、そう言ったのだった。
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