第2話
「ウェルカムドリンクでございます。どうぞ」
ロビーの椅子に腰掛けた幸次に西村が紅茶を差し出す。ふわりと甘い香りが立ちのぼった。紅茶に口をつけると、黒砂糖のような香ばしさとほのかな甘味が口の中に広がった。お腹の中がじんわりと暖まり、幸次は深く息を吐く。暖炉の炎がぱちり、と爆ぜた。レッドブレスト・マナーは、外観とは裏腹に内装には木がふんだんに使われていた。調度品や家具も英国系で統一されている。差し出された紅茶のカップ&ソーサーはロイヤルクラウンダービーで、腰掛けているアームチェアはウィリアム・モリス様式のものだ。煉瓦造りの暖炉の上の壁には果物籠を描いた油彩画がかかっている。これも恐らくは英国の画家の作なのだろう。
「ヴィクトリア時代のチャールズ・ステュアートの作でございます」
紅茶で身体を暖めてぼんやりと絵を眺めていた幸次に、西村が声をかけた。
「英国尽くしですね。ここまで徹底されているとは正直驚きましたよ」
紅茶を飲み干して幸次が応える。
「このレッドブレスト・マナーはオーナーのご趣味で英国式になっております。その名の通り、建物自体が英国のマナーハウスを模した造りになっておりますし、庭はイングリッシュガーデンでございます。永井様もご存知かとは思いますが、テラスの桟橋では鱒釣りも楽しむことが出来ます。オーナーは神奈川で病院を経営されているのですが、英国文化に大変造詣の深い方で、自らも休暇を過ごせる場所を、ということでこのホテルを作られてレッドブレストすなわちヨーロッパコマドリのマナーハウスと名付けられたのでございます」
西村の語り口に、やや熱がこもった気がした。執事然りと淡々とした口調ではあったが、彼なりにこのホテルの仕事に誇りを持っているのであろう。幸次はそれを素直に羨ましいと感じた。宿泊の書類にサインをし、立ち上がる彼に西村は再び声をかけた。
「お食事はロビー左手のレストランにてご用意いたします。本日のご夕食のみ永井様のご予約を承っておりますが、ご入用の際は私にお申し付けください。ロビー右手はバーとなっております。当ホテルは禁煙となっておりますので、お煙草はそちらか外のテラスでお願いいたします。お部屋は二階でございます」
幸次は無言で頷き、西村の案内で三泊四日の仮住まいへと、階段を登り始めた。
客室は全室レイクビューとのことだった。窓の外に、森に囲まれた湖が一面に広がっていた。幸次は靴を脱いでそのままベッドに横たわると、そっと目を閉じる。やっとたどり着いた安堵感と、長旅の疲労感がないまぜになっていて、心地良かった。痛いほどの静寂が場を支配する。腕時計の針は午後三時四五分を指していた。木々がそよ風に揺られて規則的なリズムを描く。雨は止んでいた。思えば遠くまで来たものだ、と幸次は笑みを漏らす。つかの間の宿りではあるが、ここには彼の求めてやまない安らぎがあるような気がしていた。あるいはそれも幻想に過ぎないのかもしれないが、それでも良いと彼は思う。退屈な人生には、ほんの少しのスパイスがあれば彩りが加わる。そして、彼が選んだのが、このレッドブレスト・マナーだった。
夕食までにはまだ時間があった。幸次はボストンバッグからお気に入りのヘミングウェイの短編集の文庫本を取り出すと、ゆっくりとページを繰り始めた。活字がスムーズに頭に入ってくる。薬の力を借りるまでもなさそうだった。
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