湖畔

瀬山 響

第1話

 安曇野の春は遅い。安曇野がモデルと言われる唱歌「早春賦」にもあるように、春とは名ばかりで風は冷たく、雪が舞う日も珍しくはない。しかし、やがては雪や氷も解け去り、ぬかるんだ畦道にはオオイヌノフグリやスミレが顔を出して、人々の目を楽しませる。止まない雨は無いというが、明けない冬もまた無いのだ。

 桜のつぼみがようやく膨らみ始めた春、四月。どんよりと曇った鈍色の空の下、永井幸次は車を走らせて北を目指していた。安曇野インターを出て、かれこれ二〇分は経っていただろうか。周囲には田畑が広がり、遠景の北アルプスの稜線は分厚い雲に覆われて、晴れた日の峻厳な立ち姿は見る影も無い。灰色の景色がどこまでも広がっていた。ひっそりと静まりかえった集落が、寂寥感を一層と募らせる。安曇野はまだ活動を始めていない。少なくとも、幸次の目にはそう映っていた。

 フロントガラスにぽつり、ぽつりと水滴がつき始めた。春の雨だ。雲間の山間部ではおそらく雪になっているのだろう。幸次は心の中で舌打ちをし、やや強めにアクセルを踏み込んだ。いつもは軽妙な響きで包み込んでくれるビル・エヴァンスのピアノが、心に突き刺さるかのように尖って聴こえた。幸次はドリンクホルダーの紙コップを手に取り、コンビニで買ったコーヒーを飲み干す。冷めたコーヒーの苦味が舌にまとわりついた。苛立ちが止まらなかった。

 安曇野インターを出て一時間が経っていた。国道を左に折れて針葉樹の森の中をさらに車を走らせる。一〇分ほど車を走らせると突如視界が開け、灰青色の湖面が一面に広がった。辺りには土産物屋やボート屋が居並び、旅館や民宿も何軒かあった。それらを尻目に、幸次は湖に沿って車を走らせ続けた。

 「レッドブレスト・マナー」と書かれた看板を見つけて、鼓動がわずかに早まる。目的地まで、五〇〇メートル余り。看板の指し示す矢印に従い、湖沿いの林道に車を右折させる。未舗装の道は鬱蒼とした広葉樹に覆われ、湖面の上に張り出した低い枝にはわずかに鮮やかな黄緑色が差していた。新芽だ。苛立ちは若干収まり、やや気分が高揚していた。こういう時こそ、気をつけなければいけないと幸次は思う。今まで、いつもそれで失敗を重ねてきたのだ。しとしとと降る雨模様の天気は、正直なところ期待外れではあったけれど、初日はそのくらいでちょうど良いのかもしれない。自分にそう言い聞かせたところで、再び森の中に切り開かれた空間が現れた。そこだけぽっかりと穴が空いたかのように、石造りの瀟洒な洋館が、あたかも英国の古城然りといった風情で湖畔にそびえ立っていた。壁の一部は蔦が絡まり、苔むしている。年月と風雨に晒されて、レリーフの角が丸くなっていた。

 幸次は適当なスペースに車を停めると、ドアを開けて外に出た。雨は傘をさすほどではなかった。胸ポケットから煙草を取り出し、ジッポーで火をつける。耳に馴染んでいる、カシャリという乾いた金属音が心地良かった。紫煙を深く吸いこみ、ため息とともにゆっくりと吐き出す。湖面に雨の波紋が広がっていた。ステンレス製の携帯灰皿に灰を落とすと、背後の洋館のドアがゆっくりと開いた。幸次が振り向くと、傘を二つ手にした初老の紳士が、涼やかな表情で佇んでいた。白髪にメッシュのように黒髪が混ざっていた。その表情は全てを見通しているようでもあり、何も考えていないかのようでもあった。

 「永井様でいらっしゃいますか」

 男が執事のような厳かな口調で口を開く。よく通る声だった。幸次が頷くと男が続けて言った。

 「レッドブレスト・マナーにようこそおいでくださいました。支配人の西村と申します。本日はあいにくの雨の中お越し下さり、誠にありがとうございます」

 西村がタキシードが濡れるのも構わずに歩みを進め、幸次に傘を差し出すと、幸次は慌てて煙草の火を揉み消した。心臓が高鳴っていた。

 「どうも。お世話になります」

 我ながら馬鹿みたいな返答だな、と幸次は内心で苦笑する。そんな彼の心を知ってか知らずか、西村は幸次が傘をさすのを見て、自らも傘をさした。荷物は少なかった。幸次は着替えの入ったボストンバッグひとつを西村に託し、自らは釣り道具一式を手にする。二人は連れ立ってレッドブレスト・マナーの中に姿を消した。ドアが閉じる音が響く。春の雨は未だ降り続けていた。

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