その味を知ってはいけない

佐久良 明兎

その味を知ってはいけない

「君の血が、欲しいと言ったら。どうする?」


 通り過ぎる電車の音に、その声はかき消される。

 かき消されなきゃ、困る。


 夕方の駅のホームは、人の姿がまばらだ。もう少し遅い時間になれば、帰宅する学生や社会人の姿でごった返す。けれども十六時前の駅に、その人たちはまだ到着していなかった。

 駅のホームにいるのは、時間はあまり関係ないのだろう年輩の人や、子ども連れの主婦。

 そして、掃除当番とホームルームをすっぽかして、早々に学校から逃げ出してきた、僕と彼女くらいのものだ。


 ホームに並べてあるベンチに、僕らは背中合わせになるようにして座っていた。

 会話は、ない。

 なかった、はずだった。


「正気を疑った後に。いいよって答えると思う」


 だから、その答えが返ってきたときには心底びっくりした。

 そして、心底、震え上がった。


「……聞こえていたの」

「聞き逃す訳ないでしょう」


 私は耳がいいもの、と彼女はうそぶいた。

 普段は、隣の席から声をかけても、ぼうっとしてしょっちゅう聞いていないくせに。

 今なんて、イヤホンまでしているくせに。


 そういう、聞いて欲しくない言葉に限って。

 ……いつも、彼女は拾ってしまうんだ。


 からかうような口調で、彼女は身を乗り出し、僕の肩のところから顔を出した。


「飲んでみる?」

「飲まないよ」


 反射的に拒絶してから。

 もう一度、念を押した。


「僕は、飲まない」


 ベンチの上で、強く手を握りしめる。

 彼女の甘い誘惑は、巧みに僕へその手を伸ばせと訴えかけるが。必死に、それを堪えた。

 肩から吹いてくる君の吐息が、苦しい。


 橙色に染まった空からは、新月手前の細い細い月が、僕らを見下ろしていた。


「飲まないよ。

 そしたら、……全部を全部、飲み干してしまう気がするから」


 血を飲むことは。唇を合わせることよりも、いっとう背徳的だ、と思う。

 その柔肌に唇を這わせて、ひと思いに彼女の血を飲むことができたら、と考えるだけで。

 どうにか、なってしまいそうになる。


「君の血の味は」


 きっと僕の皮膚の下には、冷たい血が流れている。

 だけど彼女の皮膚の下には、燃えたぎる炎のように。



「きっと。……きっと、すごく鮮烈なんだろうな」



 脈打つ赤を思い浮かべる。

 彼女の、生きている証。


 そんなこと、ありはしないのだけど。

 ひとたび、飲み込んでしまえば。それは中から、僕の体をずたずたに切り裂いてしまうのではないかという、そんな確信めいた妄想か支配していた。


 だけど、それでも。

 白い滑らかな肌を隔てた下に流れる血潮は。

 どんなにか、甘美なことだろう。


「試してみる?」

「いやだ」


 もう一度、拒絶する。


「二度と、飲めないのかもしれないのに?」

「二度と、飲めないのかもしれないから」


 歯止めを利かせる自信がないのだ。


「血を飲んでくれたら。私は、きっとあなたのことを、一生忘れないと思うよ」


 ああ、だめなんだ。

 だから、だめなんだよ。


 どうか、どうか。

 僕のいないどこかの世界で、僕の存在しない世界で、君には、幸せになって欲しい。




 電車の到来を告げる、けたたましい駅のアナウンスが流れ、君は立ち上がる。

 呆けたように座り込んだまま、僕はただ、彼女の背中を見つめていた。


 僕の向かう場所とは、反対方向の電車へ乗り込むと。

 ドアのところの手すりを掴んで、彼女は最後、僕に微笑みかけた。



「それじゃあね。私の血を、飲んでくれなかった人」



 まるでその台詞が合図だったみたいに。

 電車のドアは、間抜けな音を立てて閉まった。




 改札を出て、一人で空を見上げる。

 彼女の向かっていった西の空は、まるで血の色みたいに真っ赤だった。


 ああ。

 今、無性に僕は、君の血の味が知りたい。

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その味を知ってはいけない 佐久良 明兎 @akito39

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