おにとふえ 下

  ある夜、ひとは来なかった。


 ひともひとで、他にやらなければならないことがあるのだろう。天候が悪ければ外に出たくないだろう。あるいは、体調を崩しでもしたのだろう。それなら仕方がない。

 これまでもひとが来なかった夜はあった。けれど、長くても数日もすれば何事も無かったかのように再び森に現れていた。今度も同様だと思った。




 数日待った。ひとは来なかった。


 さらに数日待った。ひとは来なかった。


 もう数日待った。ひとは来なかった。


 数日。数日。数日。数日。数日。




 数日を何度も何度も重ねた。

 光は沈み、闇は浮き上がるを何度も何度も繰り返した。

 到底数え切れないほど繰り返した。

 記憶できないくらいの回数繰り返した。

 次に暗くなった時こそ来る、そう信じていたのに何度も繰り返した。

 繰り返して繰り返して繰り返した。


 ひとは、来なかった。




 一体どれほどの日が、過ぎた頃だったろうか。やっと理解した。


 あのひとは「しんでる」になったんだ。


 これが「しんでる」なんだ。


 動かなくなった獣や、変色した植物を見たことはあった。それが「しんでる」なのだと理解したつもりでいた。

 だが、間違っていた。


 あのひとが二度とここに来ないこと。二度とふえを吹きあえないこと。

 それが「しんでる」なんだ。




 じんわり。


 視界が歪んだ。

 眼球が傷付きでもしたのだろうか。目の下をぬぐった。

 濡れている。水が付いている。

 目から水が溢れ出している。


 目が痛い。眩しい。あの忌まわしい巨大な白い光が、いつの間にか天に現れ出ていた。

 どうやら、あの光を浴びすぎるとこうなってしまうらしい。知らなかった。


 もう眠ろう。眠りたい。できれば、できるだけ長く。

 けれど、目からはとどまることなく水が流れ落ちた。ぬぐってもぬぐっても効果は皆無だった。

 鬱陶しくて仕方がなくて、一睡もできなかった。日が落ちても、止まらなかった。


 何かが、わたしの深淵から這い上がってくる。

 これは、何といえば良いのか分からない。ただ「嫌」というのとは違う、何か。




 千載の間、一人で吹いて過ごしてきたふえが、少しも吹けなくなった。

 吹き方は覚えている。吹くのが嫌なわけではない。

 けれど、吹こうとすると、あのひとがどこにもいなくなったことを鮮明に意識してしまう。深淵から這い上がってくる何かに、自分の全てを支配されそうになる。


 さりとて、ふえを捨ててしまうことも、壊してしまうこともできなかった。

 そんなことをしたら、あのひとと過ごした全てが本当の意味で霧散し、どこにも見つけられなくなりそうだったから。


 常に木のうろにこもって暮らすようになった。

 目からの水は、明るい時も暗い時も、片時も止まらなかった。

 ふえだけは、絶えず握り締めていた。




 そうしてまた、幾年いくとせも経った。




 耳がおかしくなった。そう思った。思うに決まっていた。

 何故なら、有り得ないからだ。

 あのひとは「しんでる」。二度とここに来ない。二度とふえを吹きあえない。

 だから、有り得ないのだ。この森に再びふえの音が響き渡るなど。


 けれど、これはふえの音だ。聞いたことのない曲調だけれど、ふえの音だ。

 嘘だ。あのひとは「しんでる」んだ。けれど、この音は。けれど。けれど。


 いつの間にか、うろを飛び出し、暗中を駆けていた。




 音の元を辿った。

 こちらに背を向けて二本足で立つ、その生物はすぐに見つかった。

 体の大部分を色付きの薄い膜に似た何かで覆っていた。

 



 以前とは違う華美な膜のようなもの。背丈も低い。けれど分かった。


 あのひととは違うひと。けれど、あのひとだ。




 あの夜と同じように、背後から忍び寄った。

 いつぶりにか、ふえを口にした。懐かしい硬度が、歯に当たる。

 息を吐き出す。か細く、けれど確かに、「しんでる」だったわたしのふえの音が、再び生まれた。




 ひとは一寸動きを止めた。徐に、わたしを振り向いた。


 ひとの両の瞳が、僅かに見開かれた。


 けれど、それだけだった。

 ひとは見開いた瞳を元の通りに細めると、再びふえを吹き始めた。




 やはり、あのひとだ。

 あのひとではないけれど、あのひとだ。

 また、来てくれた。

 

 目の水は、いつの間にか止まっていた。

 



 それが、今からずっと昔のこと。

 何度もわたしと共にふえを吹きあった、あのひとではないあのひとも、もういない。


 けれど、何度「しんでる」になっても、あのひとは何度もやって来た。

 長い長い間わたしを待たせ、けれど必ずやって来た。

 姿を変え、膜のようなものを変え、けれど必ずやって来た。

 わたしの知らないふえを携えて、わたしの知らない曲を吹く。わたしを見ても少し驚くだけで、変わらずふえを吹き続ける。

 そうして、最後の時が来るまで。毎夜共に同じ曲節を奏でたり、互いの曲を真似しあって過ごす。




 わたしを除く全ては、必ず「しんでる」になる。

 ひとも、例外ではない。

 けれど、そうであっても。二度とここに来ないわけでも、二度とふえを吹きあえないわけでも、ないのだ。




 おや。




 今回は、随分と早かったな。




 ふえの音を辿って進んだ。

 俯き加減にわたしの知らない曲調を吹く後姿に近付き、ふえを鳴らした。




 振り返るひと。


 その双眸がゆっくりと見開かれ、ゆっくりと細められた。




 ほら、また会いに来てくれた。

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「また会いに来たよ」 PURIN @PURIN1125

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