おにとふえ 中
音の元を辿った。
こちらに背を向けて二本足で立つ、その生物はすぐに見つかった。
頭部らしき部位と他の部位の色彩が随分と異なる…… と凝視して、身体の大部分を色付きの薄い膜に似た何かで覆っているのだと了得した。
あれは「ひと」だ。
ひとも、ふえを吹くのか。
わたしの知る曲とは異なるそれを間近で耳にしようと、片足を上げかけた。
はたと気付いた。
ひとも、他の鳥獣と同じくわたしを厭う。
わたしを目にした者は皆、他の鳥獣と同じく悲鳴を上げて逃げ出すか、その場で意識を失うかのいずれかだ。
そういえば、ひとの悲鳴には「おに」という音が含まれていることが多い。どのような意味なのだろう。ひとの言語など知らぬ故、見当もつかない。もちろん、単なる叫びの一種かもしれないが。
ともあれ、あいつには迂闊に近寄れない。けれど、身体の奥底から、ふつふつと得体の知れないものが湧き上がってくる。
ふえの音を、聴きたい。
考えた末、手近な木に登った。登る際に小枝の折れる音を何度か立ててしまったが、幸い、ひとは演奏に夢中で気付かなかったようだ。
ひとが顔を上げても即座には目に映らない程度の高さまで来たところで、できるだけ生い茂る周囲の葉の中に身体を隠した。
そうして、軽く息を吸い込んでから、ふえを口にし、息を吐き出した。いつもしている通りに。
吹きながら、地上のひとを見やった。
突如として現れた別の音色に困惑するようにふえから口を離し、四方八方を見回していたが、やがて気に掛けないことにしたらしい。また自身の笛に戻った。
他に音を立てる存在のない空間で、全く似ていない二曲が、しばし響き合っていた。
空が白み始めた頃、ひとは演奏を止め、森を去っていった。後には、何も残さなかった。
それで終わったと思っていた。
けれど次の夜、ひとは再び森に現れた。ふえを携え、昨日とは違う色彩のものを身に
そうして、昨日と同じ場所で、同じ旋律を生み出した。
ひとのふえの音は、実に不可思議だった。
聴けば聴くほど、腹の中の何かが撹乱されるような、胸を強く握り締められるような。
けれど、決して嫌ではない。
その感情を表すのにふさわしい言葉など、わたしは持ち合わせていなかった。
その日も、姿を見られぬように樹上でふえを吹いた。
ひとはやはり初めは怪訝そうに顔をあちこちに向けたが、昨日よりも早くその行為を止めた。そして、黙々と自身のふえで、自身の曲を吹いていた。
それからというもの、ひとは毎夜やって来てはふえを吹くようになった。
わたしも、毎夜ひとを見下ろしながら木の上でふえを吹くようになった。
ひとは、自分の旋律と共に奏でられるわたしの旋律を気にかけなくなっていた。
そんな日々がしばらく続いた。
ある時、ふと思い立った。ひとの指の動作を真似、同じ曲を吹いてみようとした。
初めはうまくいかず、妙な音として誕生しては消滅していくばかりだった。随分と長い間同じ演奏しかしてこなかったのだから当然ではある。
けれど、続けた。ひとの調べを聴いた時の、あの気持ちに、なりたかったから。
そのあたりの時期から、ひとはこれまで以上に、一つ一つの音が分かるほど、ゆっくりと、はっきりと演奏するようになった。何故だったのだろう。
何日もかかったが、ようやっとひとの曲を吹けるようになった。指の動きを違えることも、息継ぎの地点を違えることもなく、ひとと全く同様に吹けるようになった。
毎夜、地上と樹上とで、共にふえを吹きあった。
その間中、あの妙だけれども嫌ではない感覚に全身が浸っていた。
ただ一つだけおかしなことといえば、わたしのみであの曲を吹いても、あの気分にはなれないことだった。吹き方を変えるなど、一切していないにもかかわらず。
何故なのかは、分からなかった。
しばらく経ったある時、ひとに異変が訪れた。
音の出し方も、手の動きも、急にたどたどしくなった。これまではあれほど達者だったのに。
何度も首を捻り、周囲を見回すひとを、どうしたのかと観察すること数日、気が付いた。
ひとは、今度はわたしの吹いていた曲を吹こうとしているのだ。注意深く耳を澄ましてみれば、わたしが奏で続けてきた旋律に相似した箇所がいくつもあった。
ひとは、わたしならばとうに吹けるようになった期間を越えても、吹けるようにならなかった。わたしと違って、相手の指の動作を見ることができないからだと合点がいった。
悲鳴を上げて逃げられるかもしれなかった。
意識を失われるかもしれなかった。
二度とここにふえを吹きに来なくなるかもしれなかった。
けれど、わたしはその日、木から降りた。
悪戦苦闘するひとの背後から、できる限り驚かせないように足音を潜め、静かにふえを吹き、接近した。
察したように、ひとは一寸動きを止めた。徐に、わたしを振り向いた。
ひとの両の瞳が、僅かに見開かれた。
けれど、それだけだった。
ひとは見開いた瞳を元の通りに細め、身体全身をわたしに向けると、わたしの手元とふえを注視し。
懸命に模倣し始めた。
それだけだった。
瞬間、何故だろう。背にのしかかっていた岩が、突如消え去ったように、何かが軽くなった。ふえ以外、何も持っていないというのに。
やがて、ひとはわたしの曲を完全に覚えた。
それからは、共にわたしの曲を吹く夜もあれば、共にひとの曲を吹く夜もあった。
ひとは時折、新しい曲を吹くこともあった。わたしは、それらも全て習得した。ひとは、初めて吹く曲は、必ずわたしの方を向いて、ゆっくりと、はっきりと演奏していた。十指の動きも、大げさなほど、見やすかった。
わたしとひとは、共に同じ音の組み合わせを、何度も何度も、何度か分からなくなるほど共に生み出した。
生み出された音は、生み出された瞬間から「しんでる」になっていった。
けれども、わたしとひとが共にいる間は、どんなに「しんでる」になろうとも、新たな響きが止むことはなかった。
咆哮も囀りも、言葉もなかった。
ただ、ふえの音だけがあった。
決して嫌ではなかった。
いつまでも続くと、信じ込んでいた。
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