「また会いに来たよ」

流々(るる)

ジンと女と、そして赤

 高層ビル群に切り取られた空にも月は昇る。

 細い通りを抜ける風が肌を冷たく撫ぜていく。

 男は右のポケットから懐中時計を取り出した。


 青銅の看板に『ノアール』の洒落た文字。

 カウベルの乾いた音を響かせ、マホガニーの扉から身体を滑り込ませる。

 この日も一枚板のカウンターには誰もいない。

 戸惑った表情を一瞬浮かべたマスターが声を掛けた。

「いらっしゃいませ」

 男は軽く微笑む。

 左手に嵌めた黒革の手袋はそのままに、山高帽とマフラーを外した。

 チェックのジャケットからスタンドカラーの濃紺シャツが覗く。

「今日は仕事ではありませんから」

 そう言うと、奥から二つ目のハイチェアに腰を下ろした。

「喉が渇いてしまって。何か、お勧めのカクテルをもらおうかな」

「かしこまりました」


 細身のロングタンブラーに手を掛ける。

 グラスの上でライムを絞り、そのまま中へ落とし入れた。

 氷とジンを入れ炭酸水で満たしていく。

「ジンリッキーでございます。お好みでライムをつぶしてお楽しみください」

 男の前にそっと差し出された。

 一口、喉を鳴らして飲み干す。

「さっぱりとして美味しいですね」

「夏向きのカクテルですが、今のお客様には合っているかと」

「ええ、一息つきました」

 マスターは軽く頭を下げた。


 しばらくするとカウベルが音を立てた。

「よかったぁ。ここにいてくれて」

 グレーのダウンベストを脱ぐと、茶掛かった髪が白いセーターの肩に軽く触れている。

 細身のデニムが彼女の印象を活動的なものにしていた。

「また会いに来たよ」

 隣に腰掛けた彼女を、男は見ようともしない。

「シンガポール・スリングを」

 彼女はマスターへ声を掛けた。

「かしこまりました」


 ジンとチェリー酒、レモンジュースを手に取る。

「ちょっと教えて欲しいことがあるんだ。赤い産婦人科レッド・マタニティ、って知ってるかな。ねぇ、聞いてるの?」

 心地良いシェイクの音が静かに響く。

「相変わらず、せっかちで馴れ馴れしい人ですね、君は」

 男は前を向いたまま。

「主に中国からの不法滞在者を相手に、違法な中絶手術を高額で請け負っているクリニックのことを調べているんだけど。ヤバい組織も絡んでいるって噂だから、あなたの耳にも入っているんじゃない」

 グラスが彼女の前へ静かに置かれた。

「私の仕事とは関連がありませんから」

「そう言うかなぁと思ってたわ。実はマスターに話を聞きたかったの」


 突然に話を振られて身構える彼に、名刺を差し出す。

 『フリーライター 鮎川めぐみ』と書かれていた。

「何か知っている情報があれば教えて欲しいんだけど」

 彼女は白い封筒をバッグから取り出した。

 マスターは男の顔を伺う。

情報ネタ元を簡単にバラすような人ではないと、保証しますよ」

「ありがと」

 黒革の手袋を嵌めたままの左手に、彼女の右手が重なる。

 初めて、男が彼女を見た。

「相変わらずね」

 視線を外し、あきれたような、穏やかな笑顔を男は浮かべる。


龍頭団がチャイニーズマフィア絡んでいるという噂です」

「やっぱり。でも首を突っ込んじゃったしなぁ」

 マスターの言葉を聞いて、眉を寄せる。

「ねぇ、私と組まない?」

「個人からの依頼はお断りしているので」

 そう言うと、グラスを飲み干して立ち上がった。

「えっ、もう帰っちゃうの」

「どうぞごゆっくり」

 マフラーを巻き、山高帽を被る。

「待って、一緒に出るから」

 シンガポール・スリングを半分残し、カウンターには封筒を置いたまま、男の後を追う。

「ありがとうございました」

 マスターの声がカウベルの音に重なった。




 店を出て三、四メートル。

 停まっていた黒いミニバンから男が四人、降りてきた。

 一様に黒いマスクをつけている。

「これ、流行ってるって言うけれどダサいよね」

 彼女は驚いた様子も見せず、男の後ろへ隠れる。

「君、知っていたんだな」

「うーん、何となく尾行つけられてる気がしてね」

「私を巻き込むのは止めて欲しいものだ」

「だってこういう時には頼りになるじゃない」

 男たちは回り込みながら距離を縮めていく。

 マンションの壁を背に二人は半円状に囲まれた。


 金属パイプを手にした奴が無言で襲い掛かる。

 男は素早く左に体をかわし、奴の背中へ右の裏拳を打ち込んだ。

 そこへ殴りかかってきた相手を軽くしゃがんでかわす。

 その時、山高帽が落ちた。

 三人目が帽子を踏みつけながらパイプを振り上げた。

 途端に男の顔色が変わる。

「貴様ら、タダで済むと思うんじゃねぇぞっ!」

 素早くマフラーを外して右手に持つと、鞭のようにしならせ相手の目元を打つ。

 呻きながら思わず落としたパイプを蹴り出し、あごに右拳を。

 倒れたところへ更にサッカーボールキックを見舞う。

「後ろっ!」

 彼女の叫び声に振り向く。

 転がっていたパイプを拾い、四人目が振りかぶった。


 金属同士がぶつかる硬い音が響く。

 男は左手の甲で受け止めていた。

 驚く相手へ薄く笑い、黒革の手袋を外す。

 鈍色に輝くステンレスでかたどられた左手が現れた。

 その手で裏拳を繰り出す。

 奴のあごから鈍い音がした。


おい我会把它拉起来引き上げるぞっ

 四人が車へ乗り込むのに目をやりながら、山高帽を拾い上げた。

 汚れを手で払い、形を整え、被り直す。

「この貸しは高くつきますからね」

「えぇっ。それじゃ、体で払っちゃおうかな」

「今夜は付き合ってもらいますよ」

「ほんとにいいの!?」

「こうして火の粉が掛かってきたからには、さっきの話を詳しく聞いておきたいので」

「なーんだ。ちょっとがっかり」

 あきれたような、穏やかな笑顔を男は浮かべる。

 二人が並んで歩く舗道を月が照らしていた。




               ―了―

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「また会いに来たよ」 流々(るる) @ballgag

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