近くて遠い

久里

近くて遠い

 これが恋なのだと気がついた時には、もう、終わっていた。


「はる君、どうかした?」


 ゆきさんが、包丁を握るほっそりとした手をとめるのと同時に、玉ねぎがサクサクと切れる軽快な音が鳴り止んだ。黒曜石にも劣らない瞳で、彼女は無邪気に僕を見上げている。


 ゆきさんは、バカ兄貴の恋人だ。


 会社で知り合ったらしく、半年前ぐらいからあいつと付き合っているのだという。近頃、彼女がうちに顔を出すようになってから、知ったことだ。男子大学生と社会人男性による色気のない二人暮らしに、突然、華が咲いた瞬間だった。


 知り合ったきっかけから考えても、僕にとってのゆきさんは、あいつの恋人以外の何者でもない。


 それなのに、少し前からこの大きな瞳にこうしてじっと見つめられると、なんだか胸が疼いて苦しくなる。


 今、時を止めることができたら、この瞳がずっと僕だけを見ていてくれるのに……だなんて、浮かんできた馬鹿げた考えを振り払うように、彼女から目をそらした。


 今日は、バカ兄貴の誕生日だ。


 数日前、ゆきさんからそう打ち明けられた時には、そういえばそうだった気もするけどそんなん知るかって理不尽に心がささくれだった。


 それでも僕なりに空気を読んで、『じゃあ、その日は友達の家に泊まってきますよ』と言ったのに、彼女は『そんな冷たいこと言わないで、はる君も一緒に祝ってよ』とふわふわ笑った。


 サークルの女子の頼みだったら、問答無用で断っていたのに。他でもないゆきさんにあんな笑顔を向けられて、つい、おずおずとうなずいてしまった。僕は大馬鹿者だ。


 ぶっちゃけ、兄の幸福を邪魔してやりたいという邪な気持ちも、全くなかったといえば嘘になる。


 でも、たまたま休日出勤になってしまった兄の帰りを楽しみに待っている隣のゆきさんは、そんな僕の気持ちなんて知りもしない。


 少し動いたら肩が触れそうなほど近くにいるのに、彼女は決して僕の手には届かないのだ。まるで、空に浮かぶ星みたいに。


「……ゆきさんは、バカ兄貴のどこが好きなんですか?」


 こんなそっけない一言でも、ゆきさんは小さくむせて、白い頬をうっすらと朱く染めあげる。こうやって何度も、彼女があいつにベタ惚 れだということを、嫌というほど思い知らされる。


「は、はる君から、よう君の話をするなんて、珍しいね」

「…………今のは、忘れてください」


 最悪。


 自分からあのバカ兄貴の話をふるだなんて、本当に僕はどうかしてしまったみたいだ。 


 ゆきさんと一緒にいると、自分が自分でなくなっていくような、ヘンな気分になる。傍にいると、とても心地よくて、癒されて、まるで心に羽根が生えたみたいだなって思うのだけど……時々、胸倉を強く掴まれたみたいに、心臓が痛くなる。


 たぶん、ゆきさんは、人との心の距離のはかり方が上手なのだ。


 心に土足でズカズカと入り込んでくる人に対してすぐに『苦手』というレッテルを貼ってしまう僕にとって、彼女の接し方は実に絶妙だった。さっと懐に入りこんできたかと思えば、これ以上は踏みこんでほしくないと願うギリギリのところで、すっと波が引くように離れていく。


 だから、彼女と話しているのは居心地が良い。ゆきさんと話していると、陽だまりで眠っている時みたいに、心がぽかぽかとする。


 彼女は「変なの」と笑って、再びたまねぎを刻み始めた。鼻唄まで、小さく歌っている。あいつの帰りが、待ち遠しくて仕方ないというように。


 ゆきさんは、かわいい人だ。彼女を見ていると、恋する女の子だなぁと思う。僕より四つも歳上で、立派に社会人をやっている人に対してこんな風に思うなんて、おかしな話だ。


「……ゆきさん、幸せそうっすね」

「ふふ。そう見える?」


 彼女が振り向き際に浮かべていた笑顔が、甘くて、清らかで、これ以上にないってくらい満ち足りていて。その笑みを咲かせているのは自分ではなくてバカ兄貴なのだと思うと、胸が針で刺されているみたいに痛くなる。


「うん。すごく、そう見えます」


 笑ったつもりだったけれど、うまく笑えているか分からなかった。口元が強張っていて、ひどく硬い表情になっているかもしれない。


 彼女はそんな僕の様子に気づいた風もなく、澄んだ黒い瞳で僕を覗きこんできた。


「ねえ、はる君。はる君には、好きな人とかいないの?」


 びっくりしすぎて、肩が飛び跳ねた。


 動揺のあまりむせてしまった僕に、ゆきさんは不思議そうに首を傾げる。そんな何気ない仕草にすらときめいてしまう自分に落ちこんだ。


 何の気なしに思いついたままに言っているのが分かるからこそ、余計に性質が悪い。


 でも、そんなあなたにだからこそ、こんな風に、心の奥底に触れられることすらも、嫌に思えなくて。そのことが、とてつもなく苦しい。


 隣の、自分よりもずっと華奢で頭一つ分背の小さな彼女に視線をやる。ダークブラウンの落ち着いた髪色に、少女のようなあどけない顔。静謐なこの空間に響くのは、時折、キッチン備え付けの窓の向こう側から響いてくる喧騒だけ。


 時の流れが、やけにゆっくりになったように感じる。


 高鳴る自分の鼓動が彼女にまで伝わって聞こえてしまうのではないかと思うくらい、心臓の音がうるさくい。


 胸が張り裂けてしまいそうなこんな気持ちになったのは、生まれて初めてだ。


 狂おしい程の想いをこめて、ゆっくりと口にした。


「……いますよ。自分の心臓のように、想う相手が」


 ゆきさんの瞳がこぼれおちそうなほどに大きく見開いて、今この瞬間、彼女の瞳が映し出しているのは僕の姿だけで。


 緊張しすぎて、心臓を吐き出してしまうかと思った。


 少しして、ゆきさんがはにかんだように笑った時、ようやく時が動き出したように感じた。


「び、びっくりした……。一瞬、自分に言われたのかと思って、ドキドキしちゃったよ」


 彼女が胸をおさえながら頬を赤らめるのを見て、胸が軋んだ。


 今、彼女の顔をこんなにも赤くさせているのは自分なのだと思うと、甘くて、切ない気持ちになった。


「でも、はる君にそんな風に想ってもらえるなんて、その子は本当に幸せね。どんな人なのかなぁ」


 あなたの見せた照れたような笑顔があまりにも綺麗で、目を細めたくなってしまうくらいに眩しくて、今にも泣いてしまいそうだ。


『ゆきさん、ごめんなさい。あなたのことなんです』


 口にする代わりに心の中でだけそっと呟いた言葉は、もちろん、彼女に届くはずもない。


「んー? 今、なにか言った?」

「……なんでもないです」

「えーっ。気になるよー」


 頬をふくらませて僕を見上げる彼女に甘くて苦い気持ちを抱えながら、これでよかったんだって思った。


 この恋は、始まった瞬間から捨てなければいけないとずっと思っていた。


 でも、もうしばらくは、無理そうだ。

 だって、あなたの傍にいると、どうしたって心が飛び跳ねてしまう。


 ねえ、ゆきさん。

 僕は、あなたの幸福を一番に願っています。


 そんなあなたを幸せにできるのはあいつしかいないってこともちゃんと分かっているからこそ、この気持ちは口にしません。


 この想いを持て余して胸を痛めるのは、僕一人で十分です。


 でも。


 お願いですから、もう少しの間だけ、どうしたってあなたに恋焦がれてしまうことを、許してください。


【完】



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

近くて遠い 久里 @mikanmomo1123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ