一墨

月嶂秋成

一墨

 四百年の長きにわたり大陸に盤踞ばんきょした大景国だいけいこくが滅び、年改まった春は永広えいこう元年と定められた。景に取って代わったさいは、四月から国号を大蔡と改めるという。

 かつて、景国を構成した十六州は、そのまま蔡国の行政に組み入れられ、頭をすげ替えた以外は何事もなかったかのように見える。

 ここ禮州らいしゅうも、そんな州の内の一つである。

「ようこそ、おいでくださいました。史公しこうさま」

 そう言って恭しく拱手きょうしゅしたのは、禮州の南端にある臨清りんせい県のれいだった。官服を着ていなければ、単なる田舎の爺さんにしか見えない風体ふうていの、七十を過ぎた老官吏である。真っ白な眉毛が垂れ下がって半ば目を覆っている。

県令けんれい殿御自らのお出迎え、痛み入ります。しかし……」

 と、礼を返した青年は苦笑した。

「私はもう史公でも何でもないのです」

「何をおっしゃいます。景の李伯瞳はくとう殿と申せば、蔡王すらも一目置かれる史官しかんの鑑。官を辞しても、貴方さまが史公であることに変わりはございませんよ」

 李伯瞳、本名はとうという。伯瞳は彼のあざなである。彼は前王朝において、歴史を書き記す役人――史官の長を務めていた。国を亡くした今は主を持たず、気儘きままに見聞の旅をしている。そして、私人しじんとなっても結局は同じようなことをしていた。

「ところで県令殿。臨清の名産といえば墨。ひとつ私に、この地の墨作りを見させていただけませんか?」

「お安いご用でございます。臨清墨りんせいぼくは大景一――おっと、これからは大蔡一でございますか。まぁともかく中原ちゅうげん一の墨と言われております。儂も若い頃は手伝わされましてなぁ」

 どうやら老県令に昔話のきっかけを与えてしまったらしい。そう思いながらも、李統は真面目に話し相手になってしまう。記録者のさがである。そうして話しているうちに橋を一つ渡り、川に沿って歩くことおよそ四半刻。李統は県令に導かれて、とある門をくぐった。

「実を言えば、ここは儂の実家でしてな。いや、身内自慢のようでお恥ずかしいが、臨清墨の頭領は代々このこうがやっております」

 自分は次男で婿に出て、実家は継がなかったと県令は笑う。邸内の小門を抜け、奥の工房の入り口で県令は中に声をかけた。

「おぅい、誰かおるかい?」

 中にはまっすぐに廊下が延びている。その両側に幾つもぼうへの口が開いており、県令の声に応えて野太い声が二つ三つ返ってきた。だが、声だけである。しばらく待っていると、少し先の房から、ひょいと顔が覗いた。

「なんだ、爺ちゃん。どうしたの?」

「おう、貞琳ていりんか。いやなに、このお方が墨作りをご覧になりたいということでな。丁度良い、おまえが案内して差しあげてくれ」

 県令の孫であるらしい貞琳が、李統を上から下まで無遠慮に眺めた。

「ふぅん。いいけど、そんな上等なもん着て入らない方がいいよ。ちょっと待ってて」

 一旦引っ込んで、また出てきた貞琳は、薄汚れた作業衣を彼に差し出した。

「ほら、これ着な」

「これ! 言葉遣いに気をつけんか! このお方は朝廷のお役人さまだったのだぞ。いやはや李史公さま、無作法な娘で申し訳ない」

 県令が忙しく頭を下げる。

「はぁ、やはり娘さんですか……」

 年の頃は彼よりも一回り下の十七、八というところ。声からして女であろうとはわかったが、髪を男衆のようにきんまとめ、全身も黒くすすけていて、立っているだけでは少年にも見える。頬など黒光りするほどで、墨が染みついてしまっているのではないかと思えた。

 気が抜けた顔でつくづくと貞琳を見ていた李統は、不意に眼前に桶を突き出されて、目をしばたたかせた。

「着替えないんなら、このまま水汲みに行きますけど、どうしますか? お役人さん」

 ぶっきらぼうなまま、言葉遣いだけ直したらしい。作業衣と桶とを両手に持って、李統は県令を見た。老爺はひたすら頭を下げる。

「あ、えと、着替えます。それと、私はもう役人ではないから、普段通り楽にしてください。その方がこちらも気楽に話せる」

 貞琳が祖父に向かって勝ち誇る。

「あ~良かった! 窒息ちっそくしなくて済んだわ」

 墨の中で異様に目立つ目を月のように細めて、貞琳は笑った。県令はもはや泣きそうな顔で、何度も謝りながらに帰っていった。


     ■


 河から引いたものか、水場には充分な量の水が揺らいでいた。桶が突っ込まれて、水面に映りこんだ貞琳の顔が波紋に呑まれる。

「水はね、やっぱり大事だよ。まぁ、工芸とか芸術とかで水を疎かにするようなのは、あんまり聞かないけど、この清河せいがの水は特別」

「ほう、特別とは?」

 李統の旅は文芸志の取材のためでもある。ここに立ち寄ったのも、著書に臨清の墨のことを書こうと思ったからにほかならない。

「小さい河だけどさ、これ、戴白山たいはくざんの雪解け水なんだって。この街の北西からいきなり始まって、南東に抜けてまた流れが潜っちゃうんだけど。だから、この街だけの河なんだ」

「戴白山というと、仙境せんきょうとも言われるあの戴白山かな? だとすると随分離れているが、それでなぜその山の雪解け水だとわかる?」

 貞琳は水を満たした桶を李統に渡し、得たりとばかりに手を打った。そしてそのまま歩き始める。自然、彼は運び役となった。

「それがさぁ、どれも眉唾なんだけど、例えば仙人が舟に乗ってやってきたとか、戴白山に昇った道士の持ち物が流れてきたとか、そういう話があるの。で、どこぞの風水師が調べた結果、間違いないとか言ったって話」

「それだけで……戴白山に決まり?」

「そうなのよぉ。おいおいって感じでしょ!? でもまぁ、気持ちはわかるけどね。この河自体が不思議なのは確かだし、由来はどうあれ水質は極上。これは認めざるを得ないわ」

 李統は桶の水に顔を近づけてみる。大河のように多く土を含んだ濁り水ではなく、底まで澄んだまさに清水である。近くで湧くとの話だから、地中で充分に濾過ろかされているのだろう。その代わりに、何か特別な養分でも含んでいるのかもしれない。水がかすかにかおる。

「この水で墨をると凄く発色がいいんだ」

「なるほど、あとで試させてもらえるかな?」

「うん、いいよ」

 工房に入ると、帰ったはずの県令と門前で鉢合わせた。何やら落ち着かなげである。

「ああ、貞琳。おまえ、頭領がいつ戻ってくるか知らんか?」

「頭領? 今月中は無理よ。隣の州の上客さんとこ回ってるから。頭領に何か用?」

 県令は曖昧に頷くと、「それじゃあ副頭領に」と言い、門を再びくぐった。


「なんだい爺さん、話ってなぁ?」

 真っ黒な手を拭いながら、いかにも職人然とした中年の男が、大きめのとうにどかりと腰を下ろした。ほかにも何人か集められたが、見た限り全身黒いのは貞琳だけである。華奢な身体で墨を作るというのは、大変なことなのだろうと李統は想像していた。

「実はその……。墨の注文をしたいのじゃ」

 老爺は県令である前に頭領の叔父であるため、ここでは単なる爺さんになってしまうらしい。

「ああ、そんなことかい。それなら――」

「いや、それがちと急ぎでな。十日以内に上物を十六本揃えで、という条件なんじゃが」

「おいおい、莫迦ばか言っちゃいけねぇ。そりゃ無茶だよ。第一、先約が片づかねぇ」

 一転して言下げんかに拒否された県令が、覚悟はしていたのか浅いため息をついた。

「やはりなぁ。……余ってるものはないかね」

「爺さんもこの家の生まれなら、余りは屑同然だってのは先刻承知だろうが。そんなものは外には出せねぇよ。なんだ訳ありか?」

「大ありじゃ。禮州らいしゅう刺史ししさま直々の要請なんじゃよ。ほれ、四月から国号に大がつくじゃろ。その改号祝いに王に献上するんだと」

「かーっ! くっだらねぇ。おべっか使いの片棒担ぐなんざ俺は嫌だね。頭領だって絶対断るぜ」

 莫迦莫迦しいと身体中で表現して、副頭領は立ちあがった。持ち場への帰りがけに、頭領の夫人が運んできた茶を喉に流し込む。

「爺さんよ。刺史だか何だか知らねぇが、文句があるなら自分で来いって言ってやんな」

 そこをなんとかと頼む暇も与えられず、老爺は途方に暮れた。夫人が申し訳なさそうに県令と李統、そして貞琳に茶を差し出す。

「ごめんなさいねぇ。うちの皆ときたら、亭主の病気が移りでもしたのか、頑固ものばかりで……」

「いやいや、無茶を言っておるのはこちらなのだから仕方なかろ。にしても弱った。実は刺史さまが県衙に来ていらっしゃるのじゃ」

 それまで黙っていた李統が、思い出したように口を開いた。

「禮州刺史というと、そう希真きしん殿ですか?」

「いかにも左様で。もしや李史公さまには旧知の間柄でいらっしゃいますのか?」

「彼も元は景臣ですからね。友人ではありませんが、面識はあります。どうやら彼は新しい王のご気性をご存じないらしい。お尋ねしますが、十六本というのは大景十六州を手に入れたことに因んだ数字ですね? そうであれば、そんなあからさまな追従ついしょうでは逆効果ですよ。首が飛びかねない」

 県令が小さな目を精一杯開いて驚き、最後の台詞に首をすくめた。

「では、どうすれば……?」

「そうですねぇ」

 李統はかたわらで旨そうに茶をすすっている貞琳を見て、何か思いついたように一人頷いた。


     ■


 県衙けんがの中にある客舎へ、老県令が供を一人連れて報告に向かう。禮州刺史の休む堂の前に立ち、衝立ついたての陰から声をかけた。

「おう帰ったか。どうであった? まぁまずは中へ入れ」

 まるで自分の屋敷のような言い様である。李統は少し意地の悪い笑みを浮かべて、県令に耳打ちした。県令がもう一度問いかける。

「あのぅ、本当に入ってもよろしいですか? 心の準備は……」

「何を勿体もったいぶっている! いいから入れ!」

「はぁ……」

 もごもごと答える老爺を置いて、李統はずいと中へ入った。

「それではお邪魔しますよ。さて、禮州の刺史さまはどんなお方なのやら」

 どこかで聞いたような声を聞いて、しょうの上で尻を掻いていた曹希真は、大儀そうに振り返った。そして、なぜここに単なる布衣ほいの青年がいるのかと眺めていた刺史の顔が、暫くして冷水を浴びたような表情になった。

「り、李史公……か? なぜ、ここに」

 さり気なさを装って身を起こし、曹希真が身だしなみを整える。ある種の人間にとっては、史官というものは妙に曲がって見えるらしい。まるで、己の秘密を暴くために目を光らせている猟犬のごとくに映るのである。

 李統はむしろそれを強調するように、意味ありげに曹希真を横目に見る。

「とある筋から献上ぼくのことを耳にしましてね。少々ご忠告をと参上いたしました」

 直接聞いたのだから、ある筋も何もないものだ。しかし、思い当たる筋が幾つもあるのか、刺史は忙しなく目を泳がせる。

「何か、何かまずいことでもあるのか?」

「そうですね。まずは刺史殿の口から直接、この件の経緯をお聞かせくださいませんか? 私の懸念けねんがそれで解ければ、刺史殿にもいらぬことを聞かせずに済みますので」

 曹希真は小刻みに頷いた。

「改号のことは承知と思うが……」

 そう前置きして言うには、改号告知の使者がもたらした蔡王の書状に、慶賀の使節を送るようにとあった。その文意が、暗に贈り物を要求するようなものであったという。

「なるほど。しかし、具体的なことは何も書いていないのでしょう? お使者も何も言わなかった。違いますか?」

「ああ、それは、そうだが……」

 思い出しながら肯定する曹希真に、李統は何か確信するところがあったのか断言した。

「貴方は蔡王に試されている」

「そ、それはどういうことか?」

「今回、蔡王のやろうとしていることは単なる故事こじの真似事です。名前くらいはご存じかと思いますが、歴代景王の中でも覇王の英明高き王の故事です。以前、私が蔡王に謁見した折、今の王は懿王に似ていると申し上げたことがございます。おそらく、それで興味を持たれたのでしょう」

 李統は景の史官として、蔡王に景の史書を脅し半分に納めさせたことがあった。彼の弟が朝廷に残って主に仕えているから、それらを王に読ませている可能性は低くはない。

「李史公、私はそういうことにはくらい。智恵を貸してくれ。何か問題があれば改める」

「まぁ、そう焦らずに。それでも臨清墨に目をつけた点は評価できますよ。貴方も本来は有能なお方なのですから、今心に抱えているやましいことを正せば自ずから解決します」

 先ほど李統の顔を見た時よりも更に蒼い、それこそ鬼神きじんにでも出くわしたかのような面持ちで、曹希真は声もなく口を開閉させた。

 口を挟めるほど理解できていない県令には、さながら李統は何もかもを知っているという冥界の判官はんがんとでも映ったことだろう。その県令に、李統は振り返って微笑んだ。

「紙と筆を。刺史殿には景臣の生き残りとして史に美名を残していただきたい」

 それは取りも直さず、景の名をはずかしめることは許さないということである。史官位にあった時であれば、醜聞しゅうぶんだろうが何だろうが事実を曲げずに書き記したことだろうが、今は少し違ってきている。そこが李統には、我ながらおかしかった。

 少なくとも、この男は民の役に立つ。今、追従まがいの贈り物をすることは、曹希真というぎょくが負う僅かなきずを広げるだけである。それでは故事の解釈も本末転倒甚だしい。

「ひとつ蔡王に謎解きをしていただきましょう」


 高家の墨工房の一角で、新たに墨作りが始まった。松を焼いた煤とにかわを混ぜ合わせたものを練り、叩き、そしてまた練る。途中、香気や硬度を増すために、麝香じゃこうや真珠などの粉末を何種類か微量ずつ混入する。これを何度も繰り返し、練度を高めてゆくのである。

 作り手は貞琳。女の力での作業のこと、繰り返す回数は男衆より多くなる。また、工程を長引かせるわけにはいかないから、畢竟ひっきょう過酷な労働となる。

 それを承知で李統の注文を受けた。だが、作ることに疑問がないわけでもない。

「一本でいいなんて、どういうことかしら?」

 十六本も要求してきた刺史が、ただの一本で納得するわけがない。しかも彼女はこれが初めての本番である。これまではひたすら練ることを課題として、頭領に指示されていたのである。いわば、まだ見習いだった。

 したがって、墨師としては正式に認められていない。副頭領が作ることを許したのは、頭領の叔父と客人の顔を立てた、ということよりも、李統の意図に満足したからである。

 しかし、当然というべきか、それと墨作りとは別の話で、半端な仕上がりは一切許さないと言われていた。

 それでも、彼女の瞳は楽しそうであった。何より己の力を試す良い機会である。


     ■


 清河、戴白に発し

 伏流、臨清を興す

 木石ぼくせき何処いずこにか留まらん

 ただ転変てんぺんの命

 しかれども人に舟あり

 を漕ぐは流れを御さんが為

 君に問う、を命ずるは誰ぞ

 我はただ一墨を有するのみ


「これは……?」

 黒々と五言が八行書き下ろされた紙を手にして、曹希真は首を傾げた。

「まぁ簡単に言えば、遊んでいないで仕事をしなさいという意味です。今作ってもらっている墨を一本、これと一緒に贈れば、王の刺史殿を見る目も改まるでしょう」

 こともなげに李統は請け合い、げんを繋ぐ。

「蔡王は阿諛あゆ追従ついしょうを好むような昏君こんくんではありません。おそらく刺史殿は十六本の墨に各州の名でもつけて、中原統一をしゅくすつもりだったのでしょう?」

「その通りだ」

 もはや下心を見透かされていることに、いちいち驚くのは無駄と曹希真は悟っていた。観念した罪人のように唯々いい認める。

「その反応は下策げさくです。これは臣下の心中を探った懿王の故事に基づいている。王の書状は読む者次第で意味が変わってくるものだと思います。ですから、第一に王に対して隠心いんしんがあることを証明してしまう。第二に他の州刺史を軽んじている。そして第三に景への至誠を欠いている、ということになるのです」

 未遂の過ちと、その裏にあるだろう罪を指摘された刺史は、精神的に縊死いし寸前だった。

「……わかった。言う通りにする」

「もちろん、貴方も改めるべきところは改めねばなりませんよ」

「ああ、それも了解した。……私も汚名は残したくないからな。正直言えば、霍州かくしゅうからこちらへ移されて腐っていたのだよ。それで少しは良い思いをしたっていいじゃないかと。魔が差した、と言うのは都合が良すぎるか」

 乾いた笑いを洩らした曹希真は、むしろ今までよりも晴れた顔をしていた。どの程度の悪事かは李統も詮索するつもりはない。もっとも、曹希真は自分の行いがすべて筒抜けであるような錯覚に、未だ陥ったままである。

 必要なことか、無用なことか、李統にもそれはわからない。しかし、自ら制御できずに悪事を犯してしまった者も、心底では誰かが差し伸べる手を待っているのかもしれない。

 これまで、史官としてありのままの事実を記してきた李統は、そこに渦巻く複雑な人の感情にも多く触れてきている。それを理解したなどとは間違っても言えないが、彼なりに思うところはあった。

 その思いに導かれて、自分でも意外な口出しをしてしまった。ここに来るまでは、県令を助けるために、ほんの少し助言をするだけのつもりだったのである。それが随分と滑らかに舌が動く。彼は苦笑して一人ごちた。

「もう、史官としての資格もないかな」

「は?」

「いえ、こちらの話です。さて、墨が出来上がるまで、私たちは待つことにしましょう」


     ■


 そうして、期限まであと一日と迫って、李統は逗留とうりゅう先の県衙から工房へと足を運んだ。集中力を要する作業だと聞かされていたので、邪魔にならないようにしていたのである。

 最初に顔を合わせたのは副頭領だった。

「おう、李の旦那よ、あいつに頼んだのは確か一本だけだよな?」

「そうですが、何か?」

「それがよ。一本はもうできてるんだが、それは違うんだと言いやがって、まだ籠もってやがる。まぁ二本目も今はもう仕上げに入ってるから、間に合いはするだろうが……」

 出来が気に入らなかったのだろうかと李統は言ってみたが、どうやら違うらしい。当人抜きであれこれ言ってもらちが明かないので、二人連れだって貞琳の房へ行くことにした。

 房内はしんと静まり返っている。よくよく耳を澄ませば、衣擦れの音くらいは聞こえたかもしれない。しかし、練り上げの段階に比べれば、まったき静寂と言って良いだろう。

 そんな状態でいきなり声をかけるのは、まだ慣れていない貞琳では思わぬ失敗を招くおそれがある。そっと中を覗いてみると、貞琳は細い筆を手に、息を詰めて墨に何事か書き込んでいた。

 待っている数日の間、ほかの工房でも取材させてもらっていた李統には、それが金泥きんでいによる文字装飾の仕上げ作業だとわかった。

 房の入口で大の男が二人、まるで自分が作業してでもいるように緊張して見守る。墨に入れられる文字は、あらかじめ型詰めの木枠に彫り込まれているとはいえ、それをなぞるのには己の字体で書くよりも緊張を要する。

 やがて、貞琳の背筋が真っ直ぐに伸びた。そして筆を置き、深く長い吐息が洩れる。

 完成である。

 副頭領が入口の柱を弱く叩く。はっとして振り向いた貞琳が二人の姿を認める。その黒い顔が、ゆっくりと安堵あんどの笑みを浮かべた。

 そして、手を念入りに洗った後、墨を包装紙で巻き、桐箱に収める。中に入ってきた李統に、貞琳は楚々そそとした動作で向き直り、その箱を捧げた。

「ご注文の品、ただいま出来上がりました」

「確かに。それではこちらが代金です」

 今度は李統が懐から取り出したきん包みを、貞琳の膝の前にすっと差し出す。そして互いに礼を言い合って、それを納める。

 そんな一種儀式めいたやり取りの後、こらえがきかなかったのか貞琳は吹き出してしまった。一人で成し遂げた初仕事が嬉しくて、それが可笑しくて堪らないらしい。

「あー、終わった終わった! もう、肩っちゃったわよ」

「やれやれ、終わった途端にこれじゃ使いもんになりゃしねぇな。ま、墨の出来は俺が保証するがよ」

 貞琳が目を輝かせた。

「ほんとに!?」

「ああ、今度頭領に口添えしてやる。今回の代金はおまえが貰っとけ」

「え? どうして? 結構な額だよ、これ」

 客の前で包みを解いて銀の値踏みをしてしまっている。副頭領はため息をついて、改めて作法さほうを教えなけりゃならんとなげいた。

「阿呆だな、おまえは。いいか、帳簿につけたら勝手に作ったことが頭領にばれっちまうだろうがよ? そしたら大目玉だぜ」

「あ、そっか」

「そいつは、ぱーっと遊んで使っちまえ!」

「でも……それじゃ認めてもらえないの?」

 貞琳の頭はごつい手にねじ込まれた。

「生意気抜かしてんじゃねぇ。少なくとも夫人や俺らは大いに認めてんだよ。頭領に認めてもらいたけりゃ、実際に作るところまで見てもらわにゃ駄目だ。それに……」

 副頭領は少し間を置いて、二人のやり取りを楽しげに見ていた李統に水を向けた。

「旦那だって認めてるだろうさ。なぁ?」

「もちろんです。どれだけ真剣だったかは先ほどの姿を見ればわかります。蔡王にくれてやるのが勿体ないくらいですよ」

 そりゃあいいと副頭領は豪快に笑った。それを聞いて貞琳が得意げに顔を上向ける。

「王さまには二番目のをあげるんだ。一番はこれ、あんたにあげる!」

 貞琳は棚に置いてあった同じような桐の箱を取って、李統の胸前に突き出した。驚きつつも受け取って、李統は蓋を開けてみる。

「これは……確かに、私以外には渡せませんね。ありがとう、貞琳」

 くすくすと笑いを洩らす李統の手元を、副頭領が覗き込んで呆れた。

「なんだこりゃあ!?」

 金泥で埋める文字の枠など無視して、墨の中心には「けん李史公」とだけ大書たいしょしてある。

「ケチって使っちゃ駄目よ。今度は正式な最初のお客さんになってもらうんだから。全国どこを旅してても必ず届けに行くから、ちゃんとあたしに注文するのよ!」

 優しく頷かれて、貞琳は少し俯き呟いた。

「……その時は、綺麗な顔で行くからね」


〈了〉

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一墨 月嶂秋成 @GSakinari

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