一墨
月嶂秋成
一墨
四百年の長きにわたり大陸に
かつて、景国を構成した十六州は、そのまま蔡国の行政に組み入れられ、頭をすげ替えた以外は何事もなかったかのように見える。
ここ
「ようこそ、おいでくださいました。
そう言って恭しく
「
と、礼を返した青年は苦笑した。
「私はもう史公でも何でもないのです」
「何をおっしゃいます。景の李
李伯瞳、本名は
「ところで県令殿。臨清の名産といえば墨。ひとつ私に、この地の墨作りを見させていただけませんか?」
「お安いご用でございます。
どうやら老県令に昔話のきっかけを与えてしまったらしい。そう思いながらも、李統は真面目に話し相手になってしまう。記録者の
「実を言えば、ここは儂の実家でしてな。いや、身内自慢のようでお恥ずかしいが、臨清墨の頭領は代々この
自分は次男で婿に出て、実家は継がなかったと県令は笑う。邸内の小門を抜け、奥の工房の入り口で県令は中に声をかけた。
「おぅい、誰かおるかい?」
中にはまっすぐに廊下が延びている。その両側に幾つも
「なんだ、爺ちゃん。どうしたの?」
「おう、
県令の孫であるらしい貞琳が、李統を上から下まで無遠慮に眺めた。
「ふぅん。いいけど、そんな上等なもん着て入らない方がいいよ。ちょっと待ってて」
一旦引っ込んで、また出てきた貞琳は、薄汚れた作業衣を彼に差し出した。
「ほら、これ着な」
「これ! 言葉遣いに気をつけんか! このお方は朝廷のお役人さまだったのだぞ。いやはや李史公さま、無作法な娘で申し訳ない」
県令が忙しく頭を下げる。
「はぁ、やはり娘さんですか……」
年の頃は彼よりも一回り下の十七、八というところ。声からして女であろうとはわかったが、髪を男衆のように
気が抜けた顔でつくづくと貞琳を見ていた李統は、不意に眼前に桶を突き出されて、目を
「着替えないんなら、このまま水汲みに行きますけど、どうしますか? お役人さん」
ぶっきらぼうなまま、言葉遣いだけ直したらしい。作業衣と桶とを両手に持って、李統は県令を見た。老爺はひたすら頭を下げる。
「あ、えと、着替えます。それと、私はもう役人ではないから、普段通り楽にしてください。その方がこちらも気楽に話せる」
貞琳が祖父に向かって勝ち誇る。
「あ~良かった!
墨の中で異様に目立つ目を月のように細めて、貞琳は笑った。県令はもはや泣きそうな顔で、何度も謝りながら
■
河から引いたものか、水場には充分な量の水が揺らいでいた。桶が突っ込まれて、水面に映りこんだ貞琳の顔が波紋に呑まれる。
「水はね、やっぱり大事だよ。まぁ、工芸とか芸術とかで水を疎かにするようなのは、あんまり聞かないけど、この
「ほう、特別とは?」
李統の旅は文芸志の取材のためでもある。ここに立ち寄ったのも、著書に臨清の墨のことを書こうと思ったからにほかならない。
「小さい河だけどさ、これ、
「戴白山というと、
貞琳は水を満たした桶を李統に渡し、得たりとばかりに手を打った。そしてそのまま歩き始める。自然、彼は運び役となった。
「それがさぁ、どれも眉唾なんだけど、例えば仙人が舟に乗ってやってきたとか、戴白山に昇った道士の持ち物が流れてきたとか、そういう話があるの。で、どこぞの風水師が調べた結果、間違いないとか言ったって話」
「それだけで……戴白山に決まり?」
「そうなのよぉ。おいおいって感じでしょ!? でもまぁ、気持ちはわかるけどね。この河自体が不思議なのは確かだし、由来はどうあれ水質は極上。これは認めざるを得ないわ」
李統は桶の水に顔を近づけてみる。大河のように多く土を含んだ濁り水ではなく、底まで澄んだまさに清水である。近くで湧くとの話だから、地中で充分に
「この水で墨を
「なるほど、あとで試させてもらえるかな?」
「うん、いいよ」
工房に入ると、帰ったはずの県令と門前で鉢合わせた。何やら落ち着かなげである。
「ああ、貞琳。おまえ、頭領がいつ戻ってくるか知らんか?」
「頭領? 今月中は無理よ。隣の州の上客さんとこ回ってるから。頭領に何か用?」
県令は曖昧に頷くと、「それじゃあ副頭領に」と言い、門を再びくぐった。
「なんだい爺さん、話ってなぁ?」
真っ黒な手を拭いながら、いかにも職人然とした中年の男が、大きめの
「実はその……。墨の注文をしたいのじゃ」
老爺は県令である前に頭領の叔父であるため、ここでは単なる爺さんになってしまうらしい。
「ああ、そんなことかい。それなら――」
「いや、それがちと急ぎでな。十日以内に上物を十六本揃えで、という条件なんじゃが」
「おいおい、
一転して
「やはりなぁ。……余ってるものはないかね」
「爺さんもこの家の生まれなら、余りは屑同然だってのは先刻承知だろうが。そんなものは外には出せねぇよ。なんだ訳ありか?」
「大ありじゃ。
「かーっ! くっだらねぇ。おべっか使いの片棒担ぐなんざ俺は嫌だね。頭領だって絶対断るぜ」
莫迦莫迦しいと身体中で表現して、副頭領は立ちあがった。持ち場への帰りがけに、頭領の夫人が運んできた茶を喉に流し込む。
「爺さんよ。刺史だか何だか知らねぇが、文句があるなら自分で来いって言ってやんな」
そこをなんとかと頼む暇も与えられず、老爺は途方に暮れた。夫人が申し訳なさそうに県令と李統、そして貞琳に茶を差し出す。
「ごめんなさいねぇ。うちの皆ときたら、亭主の病気が移りでもしたのか、頑固ものばかりで……」
「いやいや、無茶を言っておるのはこちらなのだから仕方なかろ。にしても弱った。実は刺史さまが県衙に来ていらっしゃるのじゃ」
それまで黙っていた李統が、思い出したように口を開いた。
「禮州刺史というと、
「いかにも左様で。もしや李史公さまには旧知の間柄でいらっしゃいますのか?」
「彼も元は景臣ですからね。友人ではありませんが、面識はあります。どうやら彼は新しい王のご気性をご存じないらしい。お尋ねしますが、十六本というのは大景十六州を手に入れたことに因んだ数字ですね? そうであれば、そんなあからさまな
県令が小さな目を精一杯開いて驚き、最後の台詞に首を
「では、どうすれば……?」
「そうですねぇ」
李統は
■
「おう帰ったか。どうであった? まぁまずは中へ入れ」
まるで自分の屋敷のような言い様である。李統は少し意地の悪い笑みを浮かべて、県令に耳打ちした。県令がもう一度問いかける。
「あのぅ、本当に入ってもよろしいですか? 心の準備は……」
「何を
「はぁ……」
もごもごと答える老爺を置いて、李統はずいと中へ入った。
「それではお邪魔しますよ。さて、禮州の刺史さまはどんなお方なのやら」
どこかで聞いたような声を聞いて、
「り、李史公……か? なぜ、ここに」
さり気なさを装って身を起こし、曹希真が身だしなみを整える。ある種の人間にとっては、史官というものは妙に曲がって見えるらしい。まるで、己の秘密を暴くために目を光らせている猟犬のごとくに映るのである。
李統はむしろそれを強調するように、意味ありげに曹希真を横目に見る。
「とある筋から献上
直接聞いたのだから、ある筋も何もないものだ。しかし、思い当たる筋が幾つもあるのか、刺史は忙しなく目を泳がせる。
「何か、何かまずいことでもあるのか?」
「そうですね。まずは刺史殿の口から直接、この件の経緯をお聞かせくださいませんか? 私の
曹希真は小刻みに頷いた。
「改号のことは承知と思うが……」
そう前置きして言うには、改号告知の使者がもたらした蔡王の書状に、慶賀の使節を送るようにとあった。その文意が、暗に贈り物を要求するようなものであったという。
「なるほど。しかし、具体的なことは何も書いていないのでしょう? お使者も何も言わなかった。違いますか?」
「ああ、それは、そうだが……」
思い出しながら肯定する曹希真に、李統は何か確信するところがあったのか断言した。
「貴方は蔡王に試されている」
「そ、それはどういうことか?」
「今回、蔡王のやろうとしていることは単なる
李統は景の史官として、蔡王に景の史書を脅し半分に納めさせたことがあった。彼の弟が朝廷に残って主に仕えているから、それらを王に読ませている可能性は低くはない。
「李史公、私はそういうことには
「まぁ、そう焦らずに。それでも臨清墨に目をつけた点は評価できますよ。貴方も本来は有能なお方なのですから、今心に抱えている
先ほど李統の顔を見た時よりも更に蒼い、それこそ
口を挟めるほど理解できていない県令には、さながら李統は何もかもを知っているという冥界の
「紙と筆を。刺史殿には景臣の生き残りとして史に美名を残していただきたい」
それは取りも直さず、景の名を
少なくとも、この男は民の役に立つ。今、追従まがいの贈り物をすることは、曹希真という
「ひとつ蔡王に謎解きをしていただきましょう」
高家の墨工房の一角で、新たに墨作りが始まった。松を焼いた煤と
作り手は貞琳。女の力での作業のこと、繰り返す回数は男衆より多くなる。また、工程を長引かせるわけにはいかないから、
それを承知で李統の注文を受けた。だが、作ることに疑問がないわけでもない。
「一本でいいなんて、どういうことかしら?」
十六本も要求してきた刺史が、ただの一本で納得するわけがない。しかも彼女はこれが初めての本番である。これまではひたすら練ることを課題として、頭領に指示されていたのである。いわば、まだ見習いだった。
したがって、墨師としては正式に認められていない。副頭領が作ることを許したのは、頭領の叔父と客人の顔を立てた、ということよりも、李統の意図に満足したからである。
しかし、当然というべきか、それと墨作りとは別の話で、半端な仕上がりは一切許さないと言われていた。
それでも、彼女の瞳は楽しそうであった。何より己の力を試す良い機会である。
■
清河、戴白に発し
伏流、臨清を興す
ただ
しかれども人に舟あり
君に問う、
我はただ一墨を有するのみ
「これは……?」
黒々と五言が八行書き下ろされた紙を手にして、曹希真は首を傾げた。
「まぁ簡単に言えば、遊んでいないで仕事をしなさいという意味です。今作ってもらっている墨を一本、これと一緒に贈れば、王の刺史殿を見る目も改まるでしょう」
こともなげに李統は請け合い、
「蔡王は
「その通りだ」
もはや下心を見透かされていることに、いちいち驚くのは無駄と曹希真は悟っていた。観念した罪人のように
「その反応は
未遂の過ちと、その裏にあるだろう罪を指摘された刺史は、精神的に
「……わかった。言う通りにする」
「もちろん、貴方も改めるべきところは改めねばなりませんよ」
「ああ、それも了解した。……私も汚名は残したくないからな。正直言えば、
乾いた笑いを洩らした曹希真は、むしろ今までよりも晴れた顔をしていた。どの程度の悪事かは李統も詮索するつもりはない。もっとも、曹希真は自分の行いがすべて筒抜けであるような錯覚に、未だ陥ったままである。
必要なことか、無用なことか、李統にもそれはわからない。しかし、自ら制御できずに悪事を犯してしまった者も、心底では誰かが差し伸べる手を待っているのかもしれない。
これまで、史官としてありのままの事実を記してきた李統は、そこに渦巻く複雑な人の感情にも多く触れてきている。それを理解したなどとは間違っても言えないが、彼なりに思うところはあった。
その思いに導かれて、自分でも意外な口出しをしてしまった。ここに来るまでは、県令を助けるために、ほんの少し助言をするだけのつもりだったのである。それが随分と滑らかに舌が動く。彼は苦笑して一人ごちた。
「もう、史官としての資格もないかな」
「は?」
「いえ、こちらの話です。さて、墨が出来上がるまで、私たちは待つことにしましょう」
■
そうして、期限まであと一日と迫って、李統は
最初に顔を合わせたのは副頭領だった。
「おう、李の旦那よ、あいつに頼んだのは確か一本だけだよな?」
「そうですが、何か?」
「それがよ。一本はもうできてるんだが、それは違うんだと言いやがって、まだ籠もってやがる。まぁ二本目も今はもう仕上げに入ってるから、間に合いはするだろうが……」
出来が気に入らなかったのだろうかと李統は言ってみたが、どうやら違うらしい。当人抜きであれこれ言っても
房内はしんと静まり返っている。よくよく耳を澄ませば、衣擦れの音くらいは聞こえたかもしれない。しかし、練り上げの段階に比べれば、まったき静寂と言って良いだろう。
そんな状態でいきなり声をかけるのは、まだ慣れていない貞琳では思わぬ失敗を招く
待っている数日の間、ほかの工房でも取材させてもらっていた李統には、それが
房の入口で大の男が二人、まるで自分が作業してでもいるように緊張して見守る。墨に入れられる文字は、
やがて、貞琳の背筋が真っ直ぐに伸びた。そして筆を置き、深く長い吐息が洩れる。
完成である。
副頭領が入口の柱を弱く叩く。はっとして振り向いた貞琳が二人の姿を認める。その黒い顔が、ゆっくりと
そして、手を念入りに洗った後、墨を包装紙で巻き、桐箱に収める。中に入ってきた李統に、貞琳は
「ご注文の品、ただいま出来上がりました」
「確かに。それではこちらが代金です」
今度は李統が懐から取り出した
そんな一種儀式めいたやり取りの後、
「あー、終わった終わった! もう、肩
「やれやれ、終わった途端にこれじゃ使いもんになりゃしねぇな。ま、墨の出来は俺が保証するがよ」
貞琳が目を輝かせた。
「ほんとに!?」
「ああ、今度頭領に口添えしてやる。今回の代金はおまえが貰っとけ」
「え? どうして? 結構な額だよ、これ」
客の前で包みを解いて銀の値踏みをしてしまっている。副頭領はため息をついて、改めて
「阿呆だな、おまえは。いいか、帳簿につけたら勝手に作ったことが頭領にばれっちまうだろうがよ? そしたら大目玉だぜ」
「あ、そっか」
「そいつは、ぱーっと遊んで使っちまえ!」
「でも……それじゃ認めてもらえないの?」
貞琳の頭はごつい手にねじ込まれた。
「生意気抜かしてんじゃねぇ。少なくとも夫人や俺らは大いに認めてんだよ。頭領に認めてもらいたけりゃ、実際に作るところまで見てもらわにゃ駄目だ。それに……」
副頭領は少し間を置いて、二人のやり取りを楽しげに見ていた李統に水を向けた。
「旦那だって認めてるだろうさ。なぁ?」
「もちろんです。どれだけ真剣だったかは先ほどの姿を見ればわかります。蔡王にくれてやるのが勿体ないくらいですよ」
そりゃあいいと副頭領は豪快に笑った。それを聞いて貞琳が得意げに顔を上向ける。
「王さまには二番目のをあげるんだ。一番はこれ、あんたにあげる!」
貞琳は棚に置いてあった同じような桐の箱を取って、李統の胸前に突き出した。驚きつつも受け取って、李統は蓋を開けてみる。
「これは……確かに、私以外には渡せませんね。ありがとう、貞琳」
くすくすと笑いを洩らす李統の手元を、副頭領が覗き込んで呆れた。
「なんだこりゃあ!?」
金泥で埋める文字の枠など無視して、墨の中心には「
「ケチって使っちゃ駄目よ。今度は正式な最初のお客さんになってもらうんだから。全国どこを旅してても必ず届けに行くから、ちゃんとあたしに注文するのよ!」
優しく頷かれて、貞琳は少し俯き呟いた。
「……その時は、綺麗な顔で行くからね」
〈了〉
一墨 月嶂秋成 @GSakinari
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます