たぶん今日が最後の誕生日

仲咲香里

たぶん今日が最後の誕生日

「ごめん、別れて欲しい……」


 近くを走る、おそらく今日最終となる路面電車が、高いブレーキ音を軋ませて停車した。暗闇に沈むグリーンの車体。一つの電停にとどまる時間はそう長くはない。

 まもなく二十三時を迎える街。もう立春は過ぎているのに、今日は一段と空気が冷え込んでる気がする。


 足早に人の行き交う歩道上で、彼が視線を落とし発したその言葉は、私の聞き違いだろうか。


「え……?」


 無意識に出た反問が、発車を告げるアナウンスと軌道敷を挟んで走る車の音に紛れてしまう。けれど、その方が良かったのかもしれない。


 まさか、もうすぐ終わる二十五回目の私の誕生日に、彼からそんなことを言われるなんて思いもしなかったから。


 サプライズって、こういう場合も当てはまるんだっけ。


 そんな馬鹿な考えが、星一つ見えない夜空に浮かんで消える。いっそ、私自身が流れ星にでもなれたらいい。一瞬で燃え尽きて、消えて無くなりたい。今すぐ、この場から。


 後はこのままタクシーに乗って、はしゃぎ過ぎた水族館と美味しく飲んだお酒の余韻に浸りながら、二人で彼の部屋へ向かう予定だった。


 そこで今日こそは……って。

 別のサプライズを期待してた。


 私は。


千聖ちせとは五年も付き合っといて。俺の仕事の都合で、地元から離れたこの街に引っ越しまでさせといて。勝手なこと言ってるって分かってる。けど……っ」


「冗談、でしょう?」


 無意味な質問だって分かってる。五年間毎日のように見て来た彼のこの顔が、冗談なんて言ってないって、私が分からないはずないでしょう?



 ねぇ、私たち、大学のゼミで初めて顔を合わせたよね。

 その後のコンパで初めて話して。

 共通の趣味なんて無いのに、なぜか話だけは盛り上がって楽しくて。

 会う度、ずっと前から知ってたみたいな、そんな感覚に陥って。


 そういうところに、お互い惹かれていった。


 夏の海で告白してくれて、そこから五年間も変わる季節の中で楽しい時間、悲しい思い、笑いながら、励ましながら、何度も何回も一緒に分かち合って来たじゃない!


「千聖には、本当に悪いと思ってる。俺のことはいくら罵ってもらっても構わない。でももう、俺の気持ちは決まってるんだっ」


「何が? 何がいいの?」


 真っ直ぐ見つめる私に、彼が言い淀む。泳ぐ視線に出そうとしてる言い訳は、私よりも優れているところでしょう?


 冬吾がため息を吐いた数だけ、私が挙げてあげようか? その方が、冬吾から言われるよりも傷が浅くて済む。


「私より年下だから? 私より可愛いから? 私より優しい? 話が弾む? 仕事ができる? 料理が上手い?」


「千聖……」


 いくらでも紡げるよ。誰よりも傍にいたんだから。

 冬吾の視線の先、スマートフォンの向こうで誰を見てたのか。

 冬吾の頭の中、胸の中枢を、今、誰が独占してるのか。


 私が、知らないはず無いでしょう!


「私より……っ」


「千聖っ!」


 それ以上言うのは許さないって言外に含めた声音で呼ばれた。

 冬吾のこんな声、聞くのは片手で足りるほど。ビクッと肩が震えて、上がる息の自分にやっと気付いた。いつの間にか降り出した小雪が、私の吐く熱に解けて消える。


 冬吾には優しく、降り積もっていくのに。


「俺はそんな風に思ったこと、一度も無いよ」


「嘘……、嘘よ。だったら何でっ?」


 私より、あの子の何が良かったの?

 どうして私が怒られなきゃならないの?

 何もかも理不尽で、何もかも現実味が無い最悪な今に、納得のいく答えを出してよ!


「ただ……」


 そう言った後、僅かに逡巡を見せた冬吾が、憐れみをたたえた目で私を見下ろす。


「彼女といると、自然体でいられるんだ、俺」


「っ!」


 吐き出すはずだった彼を引き留める為の、私を肯定して欲しいが為の言葉が、私の中で出口を失った。まだまだ言いたいことはたくさんあったのに。喉の奥、心の奥、彷徨い始めた痛みを、どうあがいたって私は解放してあげることができない。


 何度もごめんって言いつつ、さっき遭遇して、私の顔を見るなり走り去ってしまったあの子を探しに駆け出す彼。やっと出てきた涙の存在を、冬吾は知らないまま、私にさよならするんだね。



 一人で辛い時、苦しい時、私だって泣くんだよ。

 ねぇ、知ってた?



 人混みに消えてくその背中に、私はもう何も問うてはいけないのでしょうか。


 聞きたいのは、あと、たった一つだけ。


 最後にくれた別れの理由。



 その安らぎは、あなたといた五年間、私じゃ一度も得られなかったものですか———?






 to be continued……






 テレビ画面の向こう、流れる女性シンガーのエンディングテーマに私の嗚咽が混じってく。

 これを泣かずになんて観られるわけがない!


「何このドラマ、名前から何から、まんま私たちのことだよねー? あっちの千聖ちせが可哀想過ぎてめっちゃ泣けるんですけどー」


「ほら、ティッシュ。とりあえず、鼻拭けよ。でも、俺たちの場合、一回距離置いた時あったからこっちの千聖は二十九さ……」


「うるっさい、冬吾とうごっ! あっちもこっちも冬吾はサイッテー!」


 勝手知ったる冬吾の部屋で、隣でコタツにあたる冬吾の脇腹を軽く殴ると「痛ーっ」って大袈裟に叫んでる。まあ、確かに鈍い音はしたかもしれないけど、そろそろ誕生日の存在なんて忘れ去りたい私に年齢の話。この位の制裁、甘んじて受けろ。


 時刻はドラマのシーンと同様、もうすぐ二十三時になるところ。


「あっちは誕生日に水族館と高級フレンチ、こっちはいつものドライブの後、いつものスーパー寄って家鍋。別にいいんだけどね。水族館ではしゃげる歳じゃないし。シャンパンで可愛く酔っちゃったぁなんて、言っても似合わないし。うん、別にね」


「悪かったな。俺だって「熱帯魚より、はしゃいでる千聖の方が可愛いよ」なんて口が裂けても言えないし、高級フレンチなんて慣れないとこ、緊張して色々やらかす自信あるから敢えての鍋……って、鍋リクエストしたの自分だろ? 俺はディナーぐらい、いつもと違う所でいいって言ったのに」


「あ、バレた? でも、何となく、今日は冬吾と二人で鍋食べたかったんだー。私は誕生日だからって特別なことするより、この方が私たちらしくて好きだもん」


 鼻声の私を一瞬じっと見た後、なぜか無言で視線を逸らす冬吾。

 あれ、冬吾は違うのかな。


 二十歳から付き合い始めてちょうど五年目の夏。私たちはお互い仕事が楽しくなって、会う回数も減って来て、会っても付き合い始めの頃みたいな気持ちにはなれなくて。

 どちらからともなく、一旦距離を置こうって言い出した。


 でも、それを後悔するのは意外と早かった。


 それなのに二人共、自分から言い出したのにって後ろめたさで『会いたい』って一言がなかなか伝えられずにいた。


 去年の夏、仕事で移動中の路面電車内で偶然鉢合わせるまで。


 あの時、冬吾が私の手を引っ張って次の電停を一緒に降りて。独特な走行音を立てて走り去る路面電車を冬吾は背に、私は冬吾の向こうに捉えながら、二人同時に「もう一度付き合おう」ってやっと言えたんだよね。


 眩しく照り付ける陽射しの中、泣き笑いで見つめ合った私たち。初めて告白した時みたいに高鳴ったその日の想い、冬吾はもう、忘れちゃった?


「……冬吾もやっぱり、私より若くて可愛くて特別なことに素直に喜んでくれる子が近くにいたら、好きになる?」


「はっ? 何に急に?」


 ボソリと漏れた私の不安に、振り返った冬吾が怒ったように見てる。


「……あっ、ごめんっ! 何でもない。そうだ、ケーキ! ケーキ食べよう! 冬吾が予約してくれたやつ。あーっ、楽しみだなー!」


 どうしよう、気まずい。こんなこと、今日聞くつもりじゃなかったのに。


 本当は最近、冬吾が急に掛かって来た電話にコソコソ出たり、休みの日にも仕事が入ることが増えたの、気付かないふりしてたけどすごく気になってた。だから余計、ドラマの千聖のことが自分の未来を見てるみたいで怖くなった。


 なんて、冬吾には言えないけど……。


 慌てて立ち上がって冷蔵庫に向かおうとした私の手を、不意に冬吾が掴んできた。そのまままた、ぐいっと引き寄せられて冬吾の横に座り込む。「わっ」って小さく声が出た後、冬吾の顔を見ると真剣そのもので、何か大事なことを言おうとしてるのだけは分かった。


 もしかして、さっき観た場面が現実に……?

「ごめん、別れて欲しい」ってあっちの冬吾が吐いた台詞が頭を回る。そんなの、絶対言わないで!


「俺は、特別じゃない毎日を過ごすなら千聖とがいいって思ってるから」


 怖くて、顔を背けてしまった私に冬吾の声が柔らかく届いた。少し緊張を含んだような声音に、ゆっくり冬吾の顔を見る。


「……え? あの、ちょっと、言ってる意味が分かんなかったんだけど……。特別な日は別の人とがいいって、こと?」


 私の返しは、冬吾に衝撃を与えたらしい。あんぐりと口を開けた後、頭を抱えて、今度は冬吾が勢いよく立ち上がった。


「あーっ、もうっ! ちょっと待ってろ!」


「えっ? 何っ? 何か怒った?」


 キッチンに着くなりガチャガチャ音を立てる冬吾と、その迫力に大人しく待ってしまう私。最後に大切そうに冷蔵庫からケーキの箱を取り出して、たぶんお皿やフォークと一緒にトレーに乗せて戻って来た。


「千聖、誕生日おめでとう。それと、これ……」


 妙に緊張した面持ちで慎重に膝を付き、コタツの上に置かれたワンホールのケーキは、冬吾が選んだとは思えないピンクのバラやハートの飾りが溢れた可愛らしいもので、その真ん中には、


『Will you marry me?』


 のプレートが鎮座していた。

 私は二度見した。三度見、四度見して、何度も確かめた。何度も何度も読み返して、チョコレートで書かれたその文字の意味を一生懸命考えた。

 無言のまま私を見つめる冬吾に、堪らず確認する。


「え……っと、これ、何? 何て書いてあるんだっけ。英語じゃ、分かんないよ……」


 本当は分かる。急激に胸が詰まって、身体の奥から熱くなって、だけど私はちゃんと、冬吾の言葉で聞きたい。これが嘘じゃないって、ちゃんと、目を見て確認させて欲しい。


 涙の滲みそうになる瞳でじっと冬吾の目を見ると、冬吾は一度静かに瞬きした後、同じ温度で見つめ返してくれる。


「千聖。俺と、結婚してください」


 なぜか正座して、恥ずかしそうにベタベタな台詞を言う冬吾の手には、いつの間にか取り出された、これまたいかにもな蓋の開いた紺色のケース。


 ケーキの白とピンク、冬吾の部屋からいつも感じる温かな空気を反射したエンゲージリングが、私に向かって透明で純粋な光を幾重にも放つ。


「……っ、このタイミングでそういうサプライズ、いらないからぁ」


 今度は、安心と喜びと驚きがない交ぜになって溢れてくる涙で声を震わせ叫ぶ私に、冬吾が「ええーっ!」って声を上げてる。


「俺だってまさか、今このタイミングであっちの冬吾と千聖が別れるなんて思わなかったんだよ。直前まで俺たち以上にイチャついてたくせにさぁ。ていうか、本当は一時間半も前に言おうと思ってたのに、千聖がこのドラマ絶対観たいとかって聞かなかったんだろっ。初回三十分も拡大してたせいで誕生日ギリギリじゃん!」


「だっ、だって冬吾役の俳優、私大好きなんだもん! それより、あの女誰? 大学の後輩? あっちの冬吾は二股掛けてたってことっ?」


「知らねーよっ。俺も千聖と同じ情報しかないんだから。会社の後輩じゃねーの? むしろ展開早過ぎて付いていけない……って、ドラマの話はもういいよっ!」


「だってぇ……」


 ドラマのせいで半分台無しになってるプロポーズは、お互いにきっと照れ隠しも含まれてる。顔を見れば、分かっちゃうよね。


「それで、千聖。まだ返事、聞いてないんだけど……」


 それでもめげずにこんな私と真剣に向き合ってくれる冬吾のことが、私はやっぱり大好きで、何よりも誰よりも愛おしいんだ。


「冬吾ぉ。私と結婚して下さいぃ」


「は? いや、何で逆プロポーズ? あははっ。やっぱ千聖だな。うん、喜んでお願いします。それで? 千聖は?」


「私も、お願いしますぅ。うわーん、もー、びっくりしたよぉぉ」


「ははっ。ごめんな。これからも俺たちは、ずっと一緒にいような」


 そう言って冬吾がはめてくれた指輪が輝く手を広げ、思い切り冬吾を抱き締める。少しだけ甘酸っぱい違和感がくすぐる左手の薬指を通して伝わる温もりと、この幸せな気持ちをこれから先、冬吾と二人、何度となく分かち合える関係でいたい。


 今日からはまた新たな二人のスタートで、たぶん今日が、私にとって二十代最後で、独身最後の誕生日。

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