猫見せてくれてありがとう
「ねえちゃんなにしよん」
話しかけられてまず、危ない、と思った。
「休憩です」
そっけなく答えても男は動じず、立ち去らなかった。
そもそも、制服姿の女子学生が一人でいるところに、おっさんが話しかけていい理由などどこにもない。まして、このような風貌のおっさんがだ。すぐに立ち去れ!
わたしはそのようなことを目線を通しておっさんに強く送った。
しかし、おっさんは一歩近寄ってきて言った。
「猫見せてぇや」
「猫?」
男の急な言葉にわたしは考えてしまった。想像していた危険とはちょっと違う気がしたからだ。わたしは今、学校帰りに立ち寄った公園のベンチでちょっとした休憩を楽しんでいる。ただそれだけだ。猫なんてもちろん連れていない。
「おいちゃん猫見たことないんや」
そんな奴がいるわけがない。猫を見たことがない?偶然猫を見ないで生きる確率とは。無理でしょ。おっさん何歳よ。
恐怖感強めの会話に、今すぐここを立ち去りたいと思い、わたしは荷物をまとめ始めた。
「見せてや」
「わ、わたし猫飼ってないんで」
きっぱりと言ってやった。なのに、おっさんはわたしを見つめたままで、わたしがまだ何か言うのを待っている。笑っているから、ますます不気味だった。
「わたし、飼ってないので。見せられないです」
「そうか。どこにおるん」
どこに!?「知らなっ、わからないです!」
「猫て、ええんやろ?みんな猫や猫や言うてるやん」
「まあ、はい。良いです。猫は良いです」
わたしは根っからの猫派だ。骨の髄まで猫背の猫派だ。良いかと問われればそれはまあ良いに決まっている。でもこのおっさんと猫談話するつもりは毛頭ない。早く帰ってタイムラインの猫を眺めていたい。
「見せてぇや」
悪い人じゃないのかもしれないけど、無理というのがある。でも、おっさんに張り付いた笑顔が邪険に扱いにくい感じを出していた。
そして、わたしは早く帰りたかった。
「動画でもいいですか」
「どうが? なんでもええよ」
じゃあ、とわたしはしぶしぶスマホを取り出し動画サイトを漁った。
おっさんが、いよいよ猫が見られる、とわくわくして前のめりにスマホを覗き込むので、ちょっとスマホを離した。
猫動画をスクロールしながらどの推し猫にしようか迷っていると、待てよ、ここはひとつ、と思いつき、わたしは一つの動画を再生した。意地悪くおっさんを盗み見ると、逸る気持ちに興奮した真剣な横顔をしていた。
「これ猫?」
「猫ですよ」
わたしは大嘘をついた。
「なんかあれやな、めちゃええなぁ!」
「はい。かわいいです」
わたしは少し心が痛んだ。
「みんなが猫て言うのわかるわ。だってええもん」
わたしは曖昧に笑って、居たたまれず、鞄にスマホをしまった。
「終わりです」
「ありがとうな。ええのん見せてもろた」
動画を見るとおっさんは案外あっさりと去っていこうとした。去り際に、振り向いてこちらにお辞儀したので、わたしはなにか血迷って、とっさに余計な提案をしてしまった。
「猫、いるとこ知ってますよ」
「おるとこ?」
「野良ですけど。人懐こいらしいので、抱っこもできると思います。案内しましょうか?」
それは本当の話で、今度こそ本当の猫だ。
「そうか! かまへん?」
「はい、いいですよ」
「ちがうやん。かまへんて、噛まへん、やん? だっこして噛まへん?痛いのは嫌や」
「噛む、かもしれません」
「そうか」
おっさんはちょっと心配そうに、残念そうに言った。
「でも、猫は噛まれても大丈夫ですよ」
「ほな連れてってもらおかな」
表情が急に明るくなって、おっさんはちょっと照れていた。わたしにというより、どちらかというと猫に会うことに照れているようだった。
聞いた噂では、ちいちゃん家の裏手の山の頂上に、野良たちが住みつく猫小屋があり、地元の登山者から餌をもらって暮らしているらしかった。ちいちゃんも何度か見たと言っていた。
わたしも、その野良猫一家を一度見てみたいと思っていたところだった。
「それなんですか?」
一緒に登り始めてすぐ、おっさんが手に何かを持っていたので聞いた。
「こけしや」
おっさんはわたしの目の前に掲げて見せてくれた。古そうなこけしで、こけしの相場はわからないけど、それは立派で、ちょっと高そうに見えた。
「そこのお地蔵さんの前に置いとったわ」
「勝手に持ってきて大丈夫ですか」
「かまへんよ。置いとったやつやもん。そんなんより早よ、猫見せてや。この先か?ここ登ってったら早いんちゃうか?」
おっさんは突然脇に逸れ、木々の茂った急斜面に足をかけた。逆向きに握ったこけしの頭部を、湿った山肌に突き立てて杖のように使いながら「こらええもんひろた!」と叫び、あっという間に樹木の陰に消えてしまった。方向的にはあってそうだったので、おっさんの好きにさせておいた。わたしはちゃんと回って登ろうと思い、一人、ハイキングコースにもなっている安全な山道を進んだ。
時々、茂みから「すべった!」「とれた!」「しまった!」というおっさんの奇声がしたけど、決して振り向くことはしなかった。タヌキのような影が一匹、おっさんの方から飛び出て、避難していくのが見えた。
わたしが登りきると、おっさんはもう頂上にいて、猫小屋がすぐそこに見えていた。
つつぅ、とおっさんが前かがみにしゃがみこんでいるので、どうしたのかと駆け寄ると、ちょっと様子がおかしかった。
「あかん、なんかおかしいわ」
おっさんは手で頭を抱えて、あかんあかん、と言うばかりで、苦しそうに顔面を歪ませると、ついにその場に倒れてしまった。顔が異常に青ざめている。横たわったおっさんの足元に、頭のもげたこけしが転げ落ちていて、わたしはゾッとしておっさんの背中に手を当てた。
「だいじょうぶですか?」
「あかんて……」
おっさんは目を瞑って気分が悪いのか、それともどこかが痛むのか、判断できないような苦しみ方で、わたしはどんどん怖くなってしまい、なにもできずにただ背中を擦ってやった。
「ここまでしてもらったのに、あかん。あかんわ」
弱音を吐くおっさんに、わたしは言っておかないといけないと思い、言った。
「あの、さっきのなんですけど、猫じゃなくて、犬でした」
「さ……さっきの?なんや、さっきのて」
「動画のやつです」
「……かわいかったけど、あれ、いぬ?」
「すいません」
「そうか」
おっさんは今にもこと切れそうな、人間が最後にするような笑顔を浮かべて「みたかったなぁ、猫」と言うので、わたしはすぐに立ちあがって走った。
「ちょっと待っててください」
猫小屋はすぐそこなのだ。
もともと農具などを保管していたらしい木造の納屋は、今は、持ち主がしばらく訪れていないのか、あちこちにボロがきていて、修復されないままになっていた。
わたしは朽ちた板壁に隙間を見つけて中を覗きこんだ。
どんな猫でもいい。子猫でも、成猫でも、汚くても弱っていてもなんでもいい。猫であればなんでもいい。猫を見たことがないおっさんに見せるだけだから。なんだっていいのだ。
なんだっていいのに、猫小屋にどれだけ呼びかけても、いくら声色を変えてみても、舌でチチチと鳴らしてみても、子猫一匹姿を現さなかった。もういないのか、それとも、もともと噂は単なる噂で、最初からいなかったのか、猫小屋のどこを探しまわっても、猫の姿はなかった。
「猫いない、ごめん。もういないみたい」
返事はなかった。おっさんはもう苦しそうにしていなかった。
目の前で丸まったままのおっさんの身体を、わたしは恐る恐る、脚で仰向けにした。あれだけ苦しんでいたのだから、どんなひどい顔をしているのかと、怯えて、すぐには直視できなかった。薄目でぼんやり見てみると、それはまるでこけしのように穏やかな表情で思わず安堵してしまった。ぽっかりと空いた口には歯が数本だけ覗いてみえた。早く立ち去らねばと強く思った。
わたしは、最後におっさんの顔を跨いで通り、そのまま山を下りた。
猫小屋から吹いた風は、足元を冷たく通り抜けていった。
了
短編置き場 砂田計々 @sndakk
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