栖のはなし

南風野さきは

すみかのはなし

 夜の散歩と洒落こんで、夏の森を歩みゆく。艶めく夜はみずみずしく、茂った枝葉が膨れていた。日中の緑は影と化し、貪欲に夜を潰している。影の樹木は絡みあい、睦みあうように夜風にそよいだ。

 影を飾る蔓草の、精緻な網の隙間から、遠く、高いところに光が見えた。瞬く光は星かと見えたが、風の気まぐれに揺らされた網目でちらつく星は数を増し、灯であることが知れた。整然と列をなして瞬く橙の灯が――丘の上なのか崖の上なのか、山の中腹なのかは判然としないものの――高いところで保たれていた。

「放逐か虚勢か懇願か」

 呟きは跳ね除けた小枝の撓りに上塗られ、跳ね返ってきた枝葉に視界が塞がれる。森を成す樹木の抹消に頬を裂かれないよう身を屈める私の思考に、せめて獣道くらいは選んで散歩するべきだったという後悔が漂った。

 草と土と湿潤の匂い。腐爛と融解と醗酵の気配。鼻腔をくすぐった循環の香気が肺を満たした。

 私は灯を見失っていた。夜だけが森を覆っていた。すくなくとも、夜も利くこの目には、そのように映っていた。だが、すぐにそれは勘違いであったと知れた。大樹の根もと、日陰となるがゆえに草木の疎らなそこに、枝葉の天蓋を掻き分けて、一筋の月光が落ちていた。

 光の柱の隅に、ひとのかたちを見つけた。月光に浮かび上がる大樹の根は、幹のように太く、苔むして土に呑まれていた。根に横たわる影のかたちは、少女のものであるようだった。葉の天蓋を見上げると、樹の洞の淵に佇む梟と目が合った。そのまま眼をさげていくと、夜と光の狭間で波打つ豊かな赤い髪が見えた。夜の領域に身を沈め、梟の巣を戴く樹木のあしもとに腰掛けている少女は、思慮深さと好奇心に満たされた大きな目を私に向けていた。ほころびかけた薔薇の蕾のような、愛らしい唇が音律を紡いだ。

「珍しいこともあったものね。これで、今夜ここを訪れるのは、二人になるのかしら」

「私が二人目?」

「違うわ。これから、もうひとり、来るはずなの」

 少女の爪先が月光をまさぐった。旋風が下草を巻きこんで夜空へと昇ってゆく。風に頬を撫で上げられる私の目の前で、梟が野鼠を捕らえ、巣に舞い戻った。

 血潮の唇で微笑む少女を、獲物を啄ばむ梟を、私は仰いだ。

「ここに住んでいるのかい?」

「えぇ、ここに棲んでいるの」

「ぼんやりしていたようだね」

「悩みごとがあって。あるひとに、一緒に来てっていわれたの」

「愛の告白?」

「そうなのかしら、そうでしょうね。とにかく、今夜、返事を聞きに来ることになってるの」

 樹の根から跳びおりた少女は、月光の溜まりに舞い降りる。光の水面に漣を立て、しなやかな四肢に赤の髪を纏わせて、少女は私を振り仰ぐ。

「わたし、はじめてなの。一緒にいたいっておもったのが」

 眩さの地を踏みしめて少女は傲然と立っていた。その周囲に影はなく、それまで横たわっていた少女の影は、他ならぬ少女そのひとに呑み干されてしまったかのようだった。

「なら、答えは決まっているのだろう? 何を悩んでいるんだい?」

「わたし、悩んでいるのかしら」

「そう言っていたのは君だよ」

「そのひと、森の上の灯の家にすんでるの」

「それは悩ましい。たとえ一緒にいようとしても、君はあの家には入れない」

「あなたもでしょ」

「そうかもしれないね。ともあれ、あの家のひとびとは君そのものを――私たちのようなものそのものを――拒んでいるはずだ。彼らの生きている法則は、時に私たちを上塗りし、時に融け合わせる。どちらにせよ祓ってしまうか戒めの源とされているわけだから、彼らが私たちの姿をありのままに目にすることは稀だ。そんな家に住む者を、どうやって誘惑したんだい?」

 少女は頬を膨らませる。

「わたしに声をかけてきたのはあっちからよ。兄弟が高熱に苦しんで、薬草園で育てている草では癒せなくて。兄弟の熱に効く草を探して森にはいって、斜面で転んで沢に落ちていたところに、偶然、わたしが通りかかっただけ」

「それなら悩むことはない。こちらにひきずりこんでしまえばいい。衝動そのものが見せた、衝動そのものたる君に惹かれたというのなら、それが彼の希みというものさ」

 食餌を終えた梟が声高に啼いた。月は歩み、少女は光のなかに、私は夜のなかにいた。少女が顎を擡げると、微風が赤の髪を揺らした。艶やかな赤は皓に曝され、降り注いだ皓は雫となって滴り落ちた。

「彼が来たわ」

 月あかりに濡れた茂みを見遣る少女をそのままに、私は夜に身を沈めた。大樹の洞に留まる梟が、羽毛に埋もれた首を廻らせて、少女の眼を追っていた。私は踵を返し、散歩の続きを楽しむことにした。森を仰ぎ、こちらを狙う獣に微笑みを返した。肩越しに振り返ってみると、枝葉の網の隙間に、月光に浮かび上がる白い腕がちらついた。やわらかく伸びやかな指が、玻璃の優美さをもって透きとおっていた。黒を纏う脚が跪き、黒を纏う両腕が天を崇めるかのように伸ばされた。たおやかな白の手を、黒を纏う男の両手が包みこむ。青灰の目の男が少女の手首に唇を落とした時、梟の羽ばたきが大気を引き裂いた。

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栖のはなし 南風野さきは @sakihahaeno

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