ウミガメ・ファイル

白居ミク

探偵さんとはじめまして

 私が探偵さんと始めて会ったのは、25歳の時だ。

 その時私は、大学を一年留年し、フランスに2年留学し、記者志望でマスコミ関係ばかりの求人に応募して、なおかつ結婚して妻がいた。どんなに絶望的な状況にいたかお分かりいただけるだろうか?フランス帰りでフランス語は話せたが、決して有名大学の出身というわけではなく、留年という不利も手伝って、新聞社には面接まで行かず門前払いをくらっていた。応募と交通費だけでも手持ちのお金はどんどん減っていくのに、私一人が頼りの妻と、二人の生活が懸かっていたのである。

記者になることをあきらめて、どこでもいいから就職し、記事を書くのは休日の楽しみにしてインターネットででも発信していくしかないだろう、そろそろ方針を変えないと、無職になってしまうと、分かってはいた。しかしわたしはどうしても諦めきれず、とにかく手当たり次第、目に入った応募は全て応募して、軒並みお断りの手紙を頂いていた。それなのに諦めきれなかった。

そんなとき、お断りをくらっていたN新聞社から、電話が来た。大手だ。

「保理くん。君、まだ仕事は決まっていない?柔道昔やったって言ってたよね?体格はよかったよね?フランス語話せるんだよね?英語はできる?そう、契約社員でよかったら採用するよ。今すぐ来て。」

 契約社員でもよかった。N新聞社に契約社員の口があるなんて知らなかったが、たぶん私が寡聞なだけだろうと思った。

 行ってみると、まさに契約社員だった。来栖という因業親父(その時はもちろん神様か仏様に見えた)が、説明してくれた。給料は月に19万、交通費はなし、ボーナスもなし、福利厚生はあるが、生命保険はそっちで加入してくれ。そして、地図を渡されて、そこに人気コラムを書く人がいるので、そのコラムが終了になるまで、君が担当としてついて、週に1回、必ず記事を書かせるようにはりついて、それ以外はそのコラムニストの指示に従って。何かあるたびに報告して。じゃ。

 私はよほど聞きたかった。「なぜ体格や柔道のスキルの方を気にしてくれたのか。」「なぜ生命保険がいるのか」「本当にコラムの原稿をもらうだけなのか」「どんな仕事なのか」と。しかし、さっきも言ったように私は絶望の中にいて、この申し出は、地獄の中に下された一本の蜘蛛の糸だった。余計なことは言わずにしがみつくしかない、と私は思った。思えば若かった。今なら絶対にこの点を問いただし、自分が確かに死なないかどうか雇い主の表情からうかがって、死にそうだと思えば潔く記者になる夢の方をあきらめた。なぜなら命の方が大事だから。

 しかし私は若くて、記者の経験を積める仕事に、まさに死ぬほどつきたかった。記者になる以外の将来が見えなかった。この条件なら妻と二人、暮らしていける。そのうえ、契約終了ののちには、履歴書に「N新聞社での経験あり」と書けるのだ。それは水戸黄門の印籠並みの威力を発揮する黄金の一文である。どこの地方紙にも入れてもらえるだろう。そこで、渡された住所へと一心不乱に向かった。しかしこんなきな臭い仕事をもし依頼された人が他にいたら、必ず断るべきであると忠告したい。新入社員の入社式にも研修会にも呼ばれず、入社したら簡単な指示を与えてすぐ出先に直行させるなどおかしい。おかしいと思ったら別の仕事を平行して探すべきである。せめて生命保険の掛け金を払ってくれる会社を探そう。



 そこはマンションの一室だった。表札はない。犬の置物がドアの外に置いてある。それは私の命などどうでもよさそうだった上司からも聞かされていたので、私はインターホンを押した。

「はい。」

「N新聞社から参りました。新しく担当になりました、保理と申します。来栖から連絡がいってませんでしょうか?」

「来栖さんから聞いてます。」

 トントンと足音がして、リクルートスーツを着た若い女性がドアを開けた。私たちは握手と挨拶をした。そして、中に通されると、普通のマンションならリビングであるところに、奥にデスク(たぶんコラムニスト用)、脇にデスク(たぶん事務員用)、真中に応接ソファセットがこじんまりと置いてあり、態度のでかい中年男性がテーブルに足を乗せて煙草をふかしていた。

 私は再び挨拶をし、出迎えてくれた女の子は台所に引っ込んだ。お茶を淹れてくれている音がする。

「保理と申します。」

「うん。山基。N社から来た?」

「はい。これからよろしくお願いいたします。」

 こういう時のお辞儀はたしか45度だった。と私は就活本を思い出しながらお辞儀をした。

「いや、俺は出て行くもんだから。あんたの前任者だ。」

「コラムニストの方は外出中ですか?」

「いや。あれがコラムニストだ。」

 山基氏は事務員だとばかり思っていたお茶を淹れてきた女の子を指差した。女の子はにこっとして、お盆を置いた。

「よろしくお願いいたします。」

「探偵の桂さんだ。」

 探偵さんは桂いちと名乗っていた。しかし本名ではなかった。私はいつも心の中で、「探偵さん」と呼んでいたし、この文でもそうすることにする。

「僕コラムの原稿をもらうようにって言われてきたんですが。」

「そうですよ。コラムも書いてます。あなたは探偵の助手として働いていただくんですよ。よろしくおねがいしますね。」

 私は返事も45度のお辞儀も忘れた。若い女の子はお菓子を勧め、山基氏は平然とそれを食べて、淹れてもらった緑茶をすすった。私も思わずそれをまねた。どうしていいか分からない。上司にお茶を淹れてもらうのはまずいのではないのだろうか。でも前任者はそれが普通のようだ。

「おいしいですね。」

「塩見饅頭です。」

「ああ、このお茶すごくおいしいです。」

「温度を下げるのがコツなんです。」

 私は何とか探偵さんと会話を続けた。時々考える。私はこの時点でお茶を飲んで意味のないお世辞を並べる前に、仕事内容を根掘り葉掘り問いただし、本当に仕事を受けるか否か熟考すべきではなかったかと。しかしすべては「マクトゥーブ(運命)」なのであり、後でわかったが探偵さんにはおよそ人間の感情というものはなく、お世辞を言うなど本当に無意味だった。むしろしゃべればしゃべるほど、探偵さんに情報を与えてしまうだけなのである。


 お茶を飲み終わると、本当に山基氏は行ってしまった。「それでは。」「ども。お世話になりました。」と言うまことにカジュアルな挨拶が交わされると、紙袋一枚の私物を下げて、前任者は行ってしまった。引継ぎもないままに。

「さて、そこがあなたのデスクです。もし何か私物が残っていたら、送るから適当に箱にでも入れておいてください。」

 私は「事務員用」と思ったデスクを指示された。座り心地を確かめる前に、探偵さんは付け加えた。

「これから長野へ出張です。泊りです。一泊の予定です。着替えと必要な荷物を持って、一時間後に東京駅に集合しましょう。…10:00になりますね。」

 探偵さんは壁の時計を確認した。私も確認した。

「長野…。」

「おそばがおいしいですよ。ふふふ・・・今から楽しみです。あ、携帯番号教えてください。」

 私は旅慣れていたし、就活で必然的に東京の交通機関に通じていたので、この短い時間でも、東京駅に着くことができた。荷物は少なく。下着は多めに、服は着ている物だけ、温度調節ができるように春だがコートを羽織っていく。新しい上司のかばん持ちをする場合も考えて、鞄は肩から掛けられるものにした。さらに食料と当座の水分を持てば出来上がりだ。私でなければこの時間にたどり着くことは難しかっただろうと、我ながら鼻高々だった。

 探偵さんはさらに旅慣れていたらしい。すでに小さなキャリーバックを持って待っていた。会うなり探偵さんが黒目がちな瞳でじっとわたしを見つめるので、一瞬ロマンチック不倫旅行に出かけるような気がしたが、仕事だった。二人で新幹線のホームへと向かった。

「あの。僕は行って何をすればいいんでしょうか?」

「私のボディガードです。あ、あなた、柔道やっているって言ってましたが、本当ですか?」

 この時点でも私はなぜボディガードがいるのか聞くべきだっただろう。

「あの、僕、ボディガードなんてやったことないので、どうしたらいいのか分からないのですが…。」

「体も大きいし、大丈夫。あ、怖そうな顔でお願いします。仕事内容聞いてないのですか?」

「聞いてません。」

「私の助手、兼ボディガード、兼秘密を守ることです。この最後のが一番大事です。仕事内容を一言でも洩らしたら即首にします。というか、あなたを変えてくれるようにN新聞社に言いますよ。」

「分かりました。」

 本当は何も分かっていなかった。探偵さんは新幹線でもずっと携帯を見ていた。一度のぞくと、見慣れない雑誌を読んでいた。私は隣の席でいろいろと尋ねたいのを我慢した。新幹線はまだ雪の残る長野に着いた。

 私たちはタクシーに乗り込んだ。そして私にはどこなのか不明の一軒家についた。


「桂探偵事務所から参りました。桂です。」

「どうぞ。」

 私たちは不安げな若い兄弟に、天井の高いリビングに招き入れられた。

「遺言状をお探しという事で参りました。全力で当たらせていただきます。電話でも申しましたが、私の捜査料はこちらです。」

 探偵さんは一枚の紙を渡した。

「高いですねえ。」「一日だけでも、成功報酬払うんですか?」

 私はちらりとのぞき見たが、探偵さんの指の先には「成功報酬10万円」と書かれていた。確かに高い。

「成功したらですね。それに必要経費もです。レンタカー代を払っていただければ、帰りは自動車で帰ってもいいですよ。保理君。運転できるよね。」

「できます。」

「食事代ホテル代はお願いします。ダブルの部屋で結構です。それに領収書はすべてそちらにお渡しします。」

 いや、ダブルは困るぞ!と、妻を愛する私が顔をひきつらせて「気づいてくれ」オーラを送ったが、探偵さんは鈍かった。

「今お断りになるのなら、交通費だけで帰りますが。いかがですか?交通費だけ払われるより、一日だけご依頼なさってみては。成果がなければ、成功報酬もお支払いにならなくていいですし。弊社はかけた日数にかかわらず成功報酬を頂いております。短い日数で成功させることで、利益を得ております。こちらのお仕事、危険が伴うようでしたら、危険手当を含めて成功報酬は30万円で…。」

 この手のセールストークがしばらく続いた後、契約書が交わされ、私たちは依頼内容を聞くことになった。

「父(会社経営)が急死したが、遺言状がない。新しい遺言状では、私たちに会社の経営権を渡すはずだった。しかしそのことが明記された遺言状がない限り、私たちには財産はほとんど当たらない。父の私財は会社につぎ込まれており、この家も会社の資金繰りのために抵当に入っている。しかも母の名義になっている。父の会社(印刷会社だということだった)は今軌道に乗りつつあり、利益は出ているが、このままでは古い遺言状に従って、縁もゆかりもない専務が後を継ぐことになる。」というのがその内容だった。

 メガネの男性が兄の雁田正孝で、メガネなしの男性が弟の雁田直孝だと名乗った。二人とも東京で就職していると言う。

「あと一人、妹がいるんですが…。」

 ドスンドスンと雪を踏み分ける足音がして、玄関のドアが開いた。

「ただいまあ。」

「おかえり!今帰ったのが妹の孝子です。探偵が来てるよ。」

「え?遺書見つかった?」

「ああ、玄関のキャリーバックその人の?」

 春コートを着て息を切らした孝子嬢が現れて、私たちに加わった。

「ごめん遅れて。道が混んでて。」

「父の普段の言動から考えて、女である妹は会社経営には関係ないとは思うんですが、何か父が遺してくれていたらいいですし。」

「あんまり期待するなよ。」

「大丈夫。お母さんはおばあちゃんちに預けてきた。ああ、やっと家に帰れた!ずっと病院に詰めてたから。洗濯物もたまってて。それだけ出してきていい?先にいろいろ調べてて。」

 孝子さんは大きくふくらんだ肩掛けバックと重そうなトランクを抱えて、どしんどしんと二階へあがって行った。私はその大きくて力のありそうな背中を見ながら、仏像が歩いているという印象を受けた。


 私たちは書斎に案内された。部屋の中は恐ろしいほどの散らかりようで、棚や引出しの中が全て床にあった。本も書類もすべて。結果、床は足の踏み場もないのに、棚や机はすっきりときれいに何もなかった。他には、印刷の関係だろうが、額に入った大きなポスターが何枚も飾られていたが、ケーキや建物の写真で、たぶん値打ちなどない。

「全部探したんですが、何も見つからなくて。後可能性があるのは金庫くらいですが、父しか組み合わせ番号を知らなくて。開けられますか?」

 探偵さんは部屋の中を見回して、金庫をじっと見た。

「あれはプロに頼まないと無理だと思います。権利書とかが入っているんですか?」

「もしかしたら現金もあるかも。」

「他を探してないようなら、お三人の立会いの下でプロに頼まれたらいいですね。たぶん一日探してもなければ。担当の弁護士さんはいらっしゃらないんですか?遺言状を預かっているとか。」

「作ったけれど父が持っているはずだと言うんですよ。」

「分かりました。家中探して、なければ会社へ探しに行きます。さあ、始めましょうか?」

 探偵さんは私の方を見て言った。つまり私もやるという事だが、当然遺言状を探したことなどない。

「あの、遺言状ってどんなものですか?」

「正式には公証人が保証する文書ですが、個人の意思を明らかにしたものなら、形式にとらわれなくても大丈夫です。大抵紙ですが、最近では電子データでも…。」

 探偵さんは言いさして、兄弟の方を振り返った。

「お父様は普段どこで過ごしていらっしゃいましたか?普段過ごしているところに隠している可能性が高いです。」

「家ではここと、リビングと…。後は会社ですね。」

「お父様の顧問弁護士のような方はいらっしゃるのですか?私もお話が聞きたいです。ここは写真に撮って、先に弁護士の方にお話を聞きに行きます。ついでに会社も探させていただけると嬉しいです。一日しかないから、見つからなくても見当くらいはつけられないと。」

 探偵さんは苦笑いすると、スマホで書斎中を撮影し始めた。

「どなたかお車貸していただけますか?レンタカー代を使わなくて済みますし、立会人もいる方がいいですから、できたら運転もしていただけると…。不案内ですから。」

 妹の孝子さんが運転してくれることに決まった。帰ってきたばかりだというのに、快く引き受けてくれた。



上座下座の関係で私が助手席に乗るといったのに、探偵さんが助手席に座り、私が上座の運転席の後ろに座った。

「それでは孝子さん。すみませんが、弁護士の先生のところからお願いいたします。」

 そう言った以外、探偵さんは黙っていた。

私と孝子さんは前後で楽しくおしゃべりをした。もちろん探偵などやったことはないが、情報を引き出す方がいいかという頭が働いたのだ。お父様はワンマンで、兄弟は修行のために東京の会社に出していたが、たぶん兄の方が継ぐことになるだろうと誰もが思っていたという事だった。孝子さんは女の子なので、最初から後継者から外されている。父が胃潰瘍か何かで倒れて、手が足りないと言うので、長野市内から帰ってきたが、まさかこんなことになるとは思わなかったと彼女は言った。

「父は本当に私をかわいがってくれていたんです。」

 孝子さんは涙ぐんだ。私は「仏像」と思ったことをちょっと後悔した。

「病気になるまで分からなかったんですが、本当に可愛がってくれていました。」

 その間探偵さんはスマホをいじっていた。私は彼女をつついた。

「何やってるんですか?」

「ホテルを探しています。」

「話聞かなくていいんですか?」

「聞いてます。孝子さん、長野は寒いですが、お宅は全室ガスファンヒーター付きなんですね。」

「ええそうですよ。あったかいですから。」

「小さなガスボンベがあるの見ました。珍しいですね。」

「そうですか?」

「孝子さん。お使い立てして済みませんが、弁護士の先生の所からお願いします。ところで、お父様は、お兄様方に不満とかありませんでしたか?仕事熱心ではないとか。」

「そんな不満はありませんでしたよ。一日しかないのに、そんなこと聞いていいんですか?」

「大丈夫です。」

 車は曲がりくねった坂道に差し掛かっていた。対向車もなく、見る限り雪景色。

 東京育ちの私には珍しい。

「シートベルト締めて!」

 探偵さんが助手席から振り返り、しかめっ面で言った。まっすぐでけがれを知らない入社一日目の新入社員の私は、コンマ1秒もかからないうちに言われたとおりにした。

 シートベルトがかちりとはまる音がするかしないかのうちに、車は大きくタイヤを滑らせてかたわらのガードレールに突っ込んでいた。それがあまりにも勢いがあったので、私は意識を失っていた。



 目が覚めると、車の左側がガードレールでひしゃげていた。運転席と、運転席の後ろに座っていた私は無事だったが、助手席は半分つぶれている。

(探偵さん…どうしただろう。)

 私は無意識にシートベルトを外して外に出ようとすると、窓の外に孝子さんの胴体があって光が完全にさえぎられていた。。

「孝子さん…ちょっとすみません。探偵さんどうなりましたか…?」

 次に起こった出来事は一瞬で何が起こったのか分からなかった。

 私の目から見ると、孝子嬢が突然大岩を捧げた格好で後ろに倒れ、代わりににゅっと探偵さんの姿が窓に現れた。

 私はなぜか安心した。無表情だが逆光になった目に、どこか真剣さがあるように思われた。半日しか一緒にいないのだが、この人は頼っていいと、新入社員が先輩を盲信するようにそう思っていたのだ。そしてそれだけは正しかった。

「この人縛りますから、押さえててください。」

「どの人ですか?」

「依頼人の妹さんです。」

「なんで縛るんでしょう?」

「あなたを殺そうとしたからです。警察に連絡。」

 私は何が何だかさっぱりだった。殺そうとしたといわれても納得できなかったし、探偵さんは助手席に座っていたはずなのになぜ無事なのかを聞くと「跳び下りました」と言うが、なぜ急に走っている車からアクション映画のように跳び下りたい気持ちになったのか分からない。全体として、孝子嬢が殺人犯であるという意見には半信半疑だった。しかし家族がいて仕事を失いたくなかったので、共犯にならない申し訳程度に軽く手を貸すことにした。誰でもそうすると思う。

 探偵さんは依頼人の妹をカバンから取り出した(もうなぜそんなものが入っているのかとかそういう疑問は一切持たないことにしていた。生活が懸かっているので。)細いロープでくるくると後ろ手に縛りあげ、二人でトランクに詰め込んだ。これで身動きも取れないし逃げられないだろう。

「早く警察に通報。何が、どこで、いつ起こったかと、犯人をトランクに入れていること、あなたの名前と住所をその順で言ってください。」

「えーっと警察って何番でしたっけ。」

「110番。」

「すみません。フランスに長くいたので。…この人何したんです?」

「あなたをこの岩で殺そうとしました。その前には私を車ごとつぶそうとしました。」

 確かに探偵さんは助手席に乗っていて、その助手席はつぶれている。探偵さんは とびおりた飛び降りた証拠にスーツはすり傷だらけだ。しかし納得がいかない。

「だけどなんで僕らを殺そうとしたんです…?殺人鬼とか?…すみません。今すぐ通報します。」


 探偵さんは説明が嫌いらしく、それ以上は私の質問に答えてくれず、警察が来るまでの間、春コートの前をきっちり締めて寒気を防ぎ、道に座って肩に挟んだ携帯電話で依頼人に事情を報告しながらPCをたたいていた。私はと言えば、本当に殺されかけたのか、もし探偵さんの方が悪人だったり孝子嬢が善良な市民で何かが誤解だったら私の人生は終わる、(誤解だというには孝子嬢は不気味に静まり返っていた。)などと考えながら車がぶつからないように事故用三角標識を立てに入ったりしていた。

 三角標識など立てるに及ばなかった。警察が来るまでの15分強、車は一台も通らなかった。私たちはずいぶんと山の中にいた。


 警官は孝子嬢をパトカー内に保護し、事情を聞こうとしたが、彼女は一言もしゃべらなかった。代わりに私と探偵さんが事情を説明しなければならなかったが、探偵さんは依頼人と議論の真っ最中で(成功報酬を先払いにするか遺書の後にするかで)、私が先に事情説明に応じたが、あまり間が持たなかった。なにしろ私の知っていることと言えば、車がなぜか弁護士の先生の事務所から離れた人の通らない山道に来たこと、急にガードレールにぶつかったのでわざとに思われなくもないこと、後ろの席を開けようとして孝子嬢がぬっとあらわれ、探偵さんに引き倒されたがなぜか両手に大岩をつかんでいた、これだけだった。

「それだけで犯人扱いされてもねえ。」

「この探偵の方は、助手席に座っていましたから、本来でしたらぺしゃんこでした。直前で飛び降りたみたいなんですが…。」

 私は探偵さんを擁護したが、探偵さんは自分を擁護する気がなかった。

 真剣に携帯を見て、何かを待っていた。

「あの。何なさってるんですか?」

「成功報酬の振り込みの確認待ちです。成功報酬の振り込みを確認できたので。はい。報告書送信。」

 探偵さんは明るい顔で携帯パソコンをシャットダウンしてカバンにしまい、依頼人に電話した。

「雁田さん。今お振込み確認できました。報告書をお送りいたしましたのでご覧ください。遺書のありかもそこに書いておきましたので。大丈夫です。遺書があることは確認済みです。」

「ええっと。…この状況でですか?殺されかけてるのに?」

「その人は私の依頼人じゃありません。お兄さんの方です。妹さんの事は残念がってましたが、ちょっと喜んでましたよ。だって、被害者を殺した相続人には遺産は渡らないって法律で決まってますから。妹さんの分を分けなくてよくなりましたから。弁護士も、孝子さん自身で手配してほしいそうです。」

「すごい家族ですね。」

「お金に困っていたらみんなそんな感じです。」

「もともと何の依頼でしたっけ?」

「お父様の隠した遺言書を見つけることです。」

「見つかったんですか?」

「見つかりました。」

 なんというか、頭から自発的にぺらぺらと事情を説明してもらいたいのだが、そういう思考にはなっていただけないようだった。しかも探偵さんが外界をシャットアウトしてキーボードをたたき、報告書を仕上げたのは、長野県警のパトカーの目の前だった。私よりも駆け付けた警官様方が著しく気分を害しておられるのだが。

「ちょっと私らには説明してもらいたいんだけどね。何で呼び出されたのか。いきなり殺されかけたって言っても納得いかないんだけどねえ。」

「人殺しに理由がいりますか?」

「動機は必要だねえ。パトカーはタクシーじゃないし、呼ぶのにはそれなりの理由がいるしねえ。」

「このまま解放していただけるのなら、私たちはタクシーで帰ります。」

「この人ほんとにあんたたちを殺そうとしたの?」

「ほんとにしました。」

「じゃやっぱり署まで来てもらえる?調書とるから。」

「それ今日の8時までに終わりますか?…分からないですよね。」

 探偵さんはため息をついて携帯をいじった。画面を見ると、探しておいたホテルを予約していた。ダブルである点は変わっていなかった。経費節減とセキュリティーの問題からだ。


「まず、孝子嬢が私たちを殺そうとしたのは、すでに人を殺していたので口封じのためです。私が孝子嬢が人殺しだと気づいたと思い込んだので。まあ、気づいていたのですが。」

「なんで気づいたの?」

「足音です。招かれてリビングにいましたが、孝子嬢だけ足音がやたら大きかった。孝子嬢よりもはるかに大きくて、旅行の荷物を持っているこちらの保理君ですら、孝子嬢の半分くらいの足音しかしませんでした。つまり、荷物込みの保理君を仮に80キロとすると、80キロよりもはるかに重い体重を、孝子嬢は持っていたわけです。100キロとすると、孝子嬢60キロ(仮)は40キロの荷物を持っていたことになります。

 病院から帰ってきていたとして、せいぜい着替えなどの荷物は10キロも行かないでしょう。60キロの家具、ないではないですが、そんな大きなものを持っているように見えませんでした。せいぜい大きなトランクと、肩から掛けるカバンだけで。

 今日は雪道で、玄関から扉に来るまで、トランクを転がすことができませんでした。だから持ち上げるしかなかった。家の中でも同様です。フローリングが傷つくから、孝子嬢は持ち上げて運んでいました。だから重くて、足音が大きくなったのです。

 服にしたら重たすぎです。そんな重い物、しかも隠したがるものといったら、小型のガスボンベかもしれないと思い、書斎に行ってみたら、この家は小型のガスボンベがあってもおかしくないちょっと変わった家でした。殺人に使われてもおかしくないと思いました。例えば、病気の父親の側でちょっと吸わせるとかね。トランクに入れていれば、分かりませんし。病院内ではトランクを転がして運べたでしょうしね。」

「あんた足音だけで人を殺人者だと決めつけるの?」

「私はどんな人でも人殺しかもしれないと思うようにしています。」

 言うまでもないことだが、探偵さんのように誰でも彼でも疑うのは、精神衛生上よくないし、正しいことでもない。それを口に出すのは社会的にもっと正しくない。明らかに事情聴取の警官もそう思っていた。彼は最初から最後まで探偵さんを何かの犯人かもしれないと疑っていて、この事件には無関係でも、「前足を出す」(=警察の隠語で、追われている犯人が別の仕事をして捕まる)に違いないから、尻尾をつかもうとしていた。探偵さんは名推理で犯人をぴたり言い当てた名探偵であり殺人未遂の被害者と言うより、徹頭徹尾怪しい人物とみなされていた。それは自然なことだっただろう。

「まあ、転職して警察に入ったほうがいいかもね。この場合当たってたわけだから。で、ガスボンベを使っている家かどうかを、人殺しだと疑っている奴に聞いたんだな。」

「人殺しならその旨依頼人に報告しなければ。もしそうなら車に乗せている間に私の口を封じてくると思いました。」

「で、封じてきたと。それ危ないと思わなかったの?」

「思いませんでした。こちらの勘違いかもしれませんでしたから。」

「遺言書見つかったって言ってたね。内容は?」

「それは依頼人に聞いてみないことには。」

「あんた見つけたんじゃないの?」

「遺言者の依頼した公証人役場の日時と場所が分かっただけです。今依頼人が再発行の手続きに行っているはずです。」

「なんで分かったの?」

「遺言者は印刷会社の経営者で、遺言書は後継者を決めるための物でした。当然遺言書の隠し場所は印刷にかかわるものでしょう。古い業界紙を調べてみたら、遺言者の会社はかつて画期的な技術を開発しましたが、ヒットすることなくその特許を眠らせていました。その特許が、「写真にQRコードを埋め込む」と言うものでした。」

「何それ?」

「きれいなポスターや写真に携帯のカメラを向けると、その中に埋め込まれているQRコードに、機種によっては反応してしまう、というそういう技術です。遺言者の書斎にはべたべたと不自然にポスターが貼ってありました。なので、片っ端からQRコードを読み取ってみたところ、一つにヒットしたのです。それが公証人役場のホームページにつながっていたのです。たぶんそこに遺言者の死亡証明書等を持っていけば遺言を再発行してもらえるようになっているのでしょう。

 遺言者はその技術に、それなりの費用と人員をかけて開発していました。頓挫しても、やはり思い入れがあったのでしょう。自分の会社に少しでも関心があり、従業員に自分の思い出話の一つも聞いていれば、すぐに分かるようなありかに、仕込んでおいたのです。遺言書を。たぶんそれができたら会社を譲ってやると、そう思っていたのでしょう。二人の息子のうち、どちらもできませんでしたが。」


 何も知らなかった私は比較的すぐに解放されたが、探偵さんの方はそうもいかず、事情聴取が終わって解放されたのは深夜だった。私たちはホテルで休憩し、依頼人に挨拶に行き、(彼らは妹の逮捕と父の病死→他殺への大騒ぎでそれどころではなかった。)念願の水車小屋でひいたそばを食べに行った。


「ずるずるずる…。」

 探偵さんは青々とした茶そばの天ぷらそばに余念がない。その後にはざるそばも控えている。

「そんなに食べるんですか?僕は食べられませんね。」

「夕飯遅くするから大丈夫です。」

「そうじゃなくて、昨日の今日じゃないですか?…ほら、殺されかけたってのに。今朝もしっかり食べてましたよね。」

これは皮肉のつもりだった。探偵さんはむしゃむしゃ平らげていた。そして、二度とダブルの部屋にしないでほしいという私の要望よりジャムパンを優先していた。

「『条件第一 秘密厳守。』誰が聞いているのかわからない場所で言わないでください。…それにおそばが延びますよ。」

 私は声を落として、さらに聞かれても分からない言い方をすることにした。

「探偵さん、僕らの仕事っていつもこうですか?その…を狙われたりだとか。」

「普段はそんなことないんですけどね。」

「じゃあ何で生命保険がかかってるんですか?それに僕もボディーガードだって言ってませんでした?」

「言ってました。すみません。訂正します。たまに狙われることもあります。でも二人組で行動していれば少し安全なんです。昨日みたいに。」

 昔の私に言ってやりたい。舞い上がっていないで別の職を探せと。納得しないで求職活動をしろと。その仕事にどっぷりつかるなと。

 しかしこの時の私には、探偵さんが、車が横転する直前にシートベルトを締めるように注意してくれた事実の方が心に残っていた。探偵さんは私を命の危険にさらしはしたが、同時に助かるように気を付けてもくれていた。それでもうしばらくいてもいいと思ったのだ。それに私には家族がいた。ほかに仕事の保証がなければおいそれとやめるわけにいかなかった。少なくとも失業保険が出るまでやめられない。たぶんほとんどの人は私のように一生の仕事が決まってしまうのだろうと思う。

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ウミガメ・ファイル 白居ミク @shiroi_miku

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