泥で出来た偽物の
上山流季
泥で出来た偽物の
「僕という存在はつい昨日から始まったのです」
その少年は相談室の椅子に大人しく座っていて、周りに置いてあるぬいぐるみや、ロボットの模型や、知育玩具などに興味を示す様子は一切なかった。
K市立第二中学校、相談室。ここには今、少年と私の2人しかいない。
少年の名前は個人情報保護の観点から伏せさせていただく。私は、しがないスクールカウンセラー。彼が語り手とするなら、私は聞き手である。……聞き手の名前も、敢えて必要ではないだろう。
少年は長い前髪で目を隠し手で掴むようにして腕を組んでいた。黒い学生服はワンサイズ大きく、まだ着られている印象だ。しかし新品同様に真新しいかと聞かれるとまったくの逆で、学生服は薄汚れて、ところどころに泥がついている。
少年は俯きがちにぽつぽつと語り始めた。
「昨日は、酷い嵐でした」
そう、昨日は酷い嵐だった。叩き付けるような大雨で、河川は増水し、雷が金切り声を上げていたのを覚えている。
「そんな中、僕はどうしても用事があり、外出していました」
「どんな用事だったのか、聞いてもいいですか?」
少年は息を止め言い淀んだ。
「……父が、煙草を切らした、と」
その声は震えていた。
私は「ゆっくりでいいですよ」と声をかけた。少年が、今にも泣き出してしまいそうだと感じたからだ。
私の言葉に、少年は何度か震える呼吸を繰り返す。
数度、瞬きしたあと少し顔を上げた少年は「大丈夫です」と言って私の目を見た。
「僕は煙草を買いに行きました。けれど、昨日は酷い嵐でした。そして……」
そして、少年は告白する。
「その嵐の中で、僕は雷に打たれ、死んでしまいました」
今度は、私が言い淀む番だった。
その雰囲気を察したのか、少年は言葉を続ける。
「ええ、『僕』はここにいます。しかし昨日、『本物の僕』は死んでしまった。『今ここにいる僕』は、泥で出来た偽物なのです」
私は少年の話を、否定も肯定もせず、ただ聞いた。
「雷に打たれて死んだ『僕』は、打たれると同時に溶けて消えてしまいました。代わりに、溶けた僕の魂が、雨でぬかるんだ地面の泥と混ざり合い、『今の僕』となったのです」
「……そう思ったきっかけはありますか?」
「きっかけ? いいえ、事実、そうなのです」
私は一度言葉を区切り、少年に「煙草は買えたのですか?」と聞いた。
「……いいえ。未成年には売れない、と」
少年は再び俯いた。
「父にとても叱られました。でも」
「でも?」
「僕は泥で出来ているので、殴られても痛くありませんでした」
「………………」
極度のストレスによる、妄想、そして解離症状としての痛覚脱失。そう思った。
彼がこの相談室を訪れるのは、今日で3回目だ。
1回目は自己紹介と簡単なレクリエーションを行った。
2回目は学校での悩みを聞いた。
3回目の今回は、少年にとって最も重要な悩みについて聞くことにした。
……少年は、父親から虐待を受けていた。
虐待が始まったのは2年前。少年は、そのときまだ小学生だった。きっかけはご両親の離婚だったのだという。母親は家を出ていき、今は父親と2人きりで暮らしている。
最初の頃はうまくいっていた。少年はそう語った。しかし徐々に、父親の少年への当たりが強くなっていったのだという。
正直に言うと、私は少年の父親が許せなかった。
しかし、あくまで慎重に動かなければならない。今回は非常にデリケートなケースだ。すでに関係各所との連携はとっているものの、下手に動くと父親を刺激してしまいかねない。最悪のケースだけは避けなければならないのだ。
「……他に、何か話したいことはありますか?」
少年は、沈黙したまま何も答えなかった。
あまり無理をさせてはいけない。私は、話を切り上げようと少年に微笑みかける。
「そうですか。では、今日は終わりにしましょう。また次回、君の話を聞かせてください。なんでも話していいですし、話したくないことは聞きません。ただ……私は君の味方です。ここで相談している時間が、君にとってやすらげる時間となることを願います」
少年は控えめに頷いた。
ちょうどそのとき、相談室の扉がノックされた。
私は少年に、ここで待っているようにと伝えて、扉を少し開けた。
「どうされました?」
扉の前には、ちょうど少年のクラス担任であるS教諭が立っていた。表情は切迫していて、なにやら急を要するようだ。
私は一度退室し、扉を閉めて、その場でS教諭の話を聞くことにした。
「××(少年の名字)の家に、副担任のF先生が家庭訪問したんだが……」
S教諭は言葉を選んでいる様子だった。
「今、警察を呼んでいて、詳しいことは、その、まだ不透明なんだが」
「ええ」
S教諭の顔は真っ青だった。
「……××の家でご遺体が見つかったらしいんだ」
私は息を呑んだ。
「そんな……、では、彼は……」
まさか、今相談室にいる彼は、現状に耐えきれず、彼の父親を……?
「そうなんだ」
S教諭は額の汗を拭った。
「××は昨夜、父親に殺されたらしいんだ。可哀想に……」
――予想とは真逆の返答に、私の頭は一瞬、混乱した。
「どういう、ことで?」
「だから、父親が××を虐待してて! 昨日! 嵐の夜に、度が過ぎて殺してしまったんだよ!」
「……彼が……もう死んでる……?」
では今、相談室にいる『あの少年』は?
私の混乱、その中身に、S教諭は気付かない。そしてそのまま、続けて言った。
「しかも、直後に強盗が入ったかなんかで、父親の方も殺されているんだ。包丁で滅多刺しにされていたらしい。……先生はたしか今日、××と面談の予定だっただろう? だから、知らせておかないと、と……」
「……犯人は、捕まったの、ですか?」
「いや、まだだ。学校側としては、警察と相談して今後の対応を……」
――父親を殺したのはやはり『あの少年』だ。
私は背後、相談室の扉を勢いよく開けた。
途端、窓から風が吹き込んできた。閉まっていたはずの窓は開け放たれ、そこに、先程まで座っていたはずの『少年』はいなかった。『あの少年』はきっと窓を開け、そこから飛び降りたのだ。しかしここは校舎の3階だ。窓に駆け寄り下を覗き込む。窓の下に『少年』はおらず、昨日の嵐の残骸である水たまりと泥しか見つけられなかった。……そうだ、確かに『あの少年』は言っていた。『泥で出来ているから痛くない』のだと。
きっと私には、もう『あの少年』を見つけることは叶わない。
それでも――きっと『彼』は『本物』だった。父親に殺されたと同時に泥の肉体を得て、即座に父親を殺し返した、自分を『偽物だ』と語った『少年』は、今日、相談室にきちんと来たのだから。
泥で出来た偽物の、けれど、本物の少年と同じ心を持った
――ふと、窓の縁から手を離す。昨日、酷い嵐の日、確かに閉めていたはずの窓の内側。それを掴んでいた私の手には、冷たく湿った泥がべったりとついていた。
泥で出来た偽物の 上山流季 @kamiyama_4S
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