アルマナイマ博物誌 トゥトゥの朝

東洋 夏

トゥトゥの朝

夜が明ける気配とともに目を覚ます。

頭上の梢からパレイパレイの群れが飛び立ち、白い羽がカヌーの雨避け覆いの上に一枚、また一枚と落ちてきた。

彼らの騒々しい鳴き声がトゥトゥの目覚まし代わり。

覆いの隙間から入って来るのは、朝ぼらけの薄い青色。

いつもの日課が始まる。

まずは雨避け覆いの上からパレイパレイの糞や羽、木の葉や枝を洗い落とした。

覆いを固定用の鉤から外し、支え棒を下ろす。

繊細な船大工の技を損ねないように、朝一番は覆いの状態を確認し、洗浄することを忘れてはいけない。

急なスコールから身を隠すのも、夜間に自分の体を守るのも、雨避け覆いがあらばこそ。

特に雨に関しては、雲から読めるものと読めないものがある。

後者は龍が気まぐれに運ぶ雨だ。

トゥトゥは狭い船底に縮こまっていた体を、若木のように奔放な手足を丁寧に動かし、関節のひとつひとつ、指先の一本一本まで、己の意識が行き渡るよう研ぎ澄ましていった。

それが終わるとヘリフアルールの茎にもやっていた綱を解き、カヌーを漕ぎ始める。

ヘリフアルールは、真っすぐに育つ茎ばかりの植物だ。

島影の浅瀬で育ち岩のように硬いから、セムタム族は夜になるとこの植物の節に綱を巻き付けてカヌーを固定し、寝床にする。

成人のセムタムなら、どこにヘリフアルールが生えているのかよく知っていた。

実のところ、漕ぎ始めは難易度が高い。

茎はセムタム族の膂力では引きちぎることも、へし折ることも難しいのである。

珊瑚の浅瀬に乗り上げてしまうように、茎の上で座礁することもあった。

トゥトゥは、ヘリフアルールの群生地帯にはまって出られなくなった阿呆のカヌーを助け出してやったことがある。

だから、漕ぎ始めは帆を上げない。

慎重に櫂を操ってゆっくりと茎の間を通り抜け、海面下にも茎が見えなくなったところで、ようやく帆を開く。

順調にカヌーが走り出したら、三柱の龍に向けた祈祷を一通りこなす。

天よりの風を乞い、海の安全を願い、島々の与える安全な寝床を求めるために。

祈祷が終われば、真水を溜めた壺から今日の飲料水を水筒に移し、昨日干しておいた魚の開きを頑丈な歯でもりもり齧る。

味付けなどしなくても、じゅうぶんに美味しい。

噛めば噛むほど潮風のつけてくれた旨味が、口の中にぐっとあふれ出す。

その味は魚が懸命に生きていた証だ。

トゥトゥは敬意を表して食べる。

朝ごはんは干物のときもあれば、作りためておいた包み焼(ホピマウ)のときもあるし、近くに料理人の船が見えれば凝ったものを作ってもらうこともある。

それからは気ままだ。

風任せに海に出てもいい。

美味しそうな生き物がいれば捕まえればいい。

セムタム族に会いたくなったら砂浜に柱の立った(これが定住者の印だ)島を探せばいい。

透明度の高い海の中を覗き、トゥトゥは肺いっぱいに潮風を吸い込んだ。

手早く帆を閉じる。

カヌーを固定するため、重りを舷側から垂らす。

長い髪を適当にひとつにまとめると足首に綱を巻き、片手に銛を持って、海に飛び込む。

綱は重りと反対側の舷側の鉤―――先ほどまで雨避け覆いを引っかけていた鉤に括り付けてあった。

そうすれば潜ったはいいがカヌーに戻れない、という間抜けな事態を避けられる。

トゥトゥは体躯をぐいぐいとしならせて、放たれた矢のように潜って行く。

目指すは、茶色い扇形の二枚貝ミジアカマ。

上から見た限り、トゥトゥの手のひらよりも大きいようだった。

そんな大きなミジアカマには早々出会えないから、見逃す手は無い。

注意深く周囲を伺う。

ミジアカマのいる辺りは、セムタムをも食料にする大型生物の縄張りであることが多い。

この貝が大規模な珊瑚礁を選んで居つくからだ。

珊瑚礁は大きければ大きいほど、より豊かな生態系を育み、より桁の外れた大食漢を養う。

中にはミジアカマの貝がらをわざと珊瑚礁の外れに置いて、寄ってきた魚や小龍やセムタムを捕食する知能犯もいるのだ。

トゥトゥは水面から見ていて、恐らくこのミジアカマは罠ではないと判断したので潜ったのである。

銛で珊瑚と珊瑚の間をこじ開ける。

珊瑚は踏むと怪我をするので、泳ぎながら作業をしなくてはならない。

一息では終わらなくて、いったん水面に浮上する。

ついでにカヌーの位置も確認。

ほとんど流されていないようだったので、もう一度潜る。

海底に異変無し。

しかしミジアカマ掘り出し作業を続けるべく手を伸ばしかけて、

(警戒しろ!)

直感に従い、咄嗟に引っ込めた。

引っ込めたところを空しく捕食者の口ばしが空振りする。

海底の砂が巻き上がって、ゆっさりゆっさりと珊瑚の一部が動いた。

トゥトゥは慌てて浮上を始める。

急がないと足が無くなる。

珊瑚礁に擬態するパンブケは肉食亀の一種で、一番凶暴なパンパナスよりは小さいが、代わりに随分と執念深い。

硬質な口ばしに捕らえられれば、セムタムの骨などあっという間に粉々だ。

亀が追いかけてくる。

かかとのほんの手前で、口ばしがばくんと閉じられた感触があった。

背筋がひやりとする。

だが、ここで後ろを見たら相手の思うつぼだ。

水中の格闘ではパンブケに分がある。

上昇速度を落としてはならない。

トゥトゥはやっとカヌーの舷側にたどり着いた。

へりを掴んで一気に伸びあがり船底に転がり込む。

パンブケは背中に負った珊瑚の分、水面に浮上するのが不得手である。

ここまでくれば安全だった。

海面に棘のように珊瑚を突き出しながら、パンブケがカヌーの周りを泳ぎ回る。

色とりどりの珊瑚が苛立たしげにカヌーにぶつかっては折れた。

龍骨製の船体はびくともしない。

トゥトゥは、ちゃっかり左手に握ったミジアカマ貝を天にかざして、にやにやする。

「はん、取り返せるもんならやってみな」

パンブケの顔が水面からぬっと突き出た。

トゥトゥを凝視する。

そのまま両者にらみ合うことしばし。

おもむろにパンブケは閉じていた鼻を開くと、盛大に水を噴いた。

「げっ! きったねえなこの野郎!」

トゥトゥが顔にかかった亀の鼻水(少々の粘り気あり)を払っている間に、パンブケはこの腹立たしいセムタムが船内にしまい忘れていた重りを綱から引きちぎっている。

カヌーは再び流れに乗って動き出し、トゥトゥが真水で顔を洗い終わった頃には、鼻水パンブケの縄張りから遠く離れていた。

亀に馬鹿にされたような気がして―――いや、絶対にされたのだが、トゥトゥは非常に腹立たしくなる。

あいつも食った方がよかっただろうか?

しかし、カヌーを海水で洗ううちに気を取り直してきた。

笑い話のタネには良いし、ドクが好きそうだと思ったのである。

(トゥトゥ、あなたそうやって余計なことするからよ)

という、いつもの声が頭の中で聞こえた気がした。

下手くそだけど熱意は伝わる俺たちの言葉。

そう、ドク。

トゥトゥは舵を切った。

ゆらりゆらりと、カヌーは回頭する。

太陽の位置、潮の流れ、彼方に見える島影から計算して、貝の鮮度が落ちないうちに、空港島に辿り着くことが出来るだろう。

きっとまともなもん喰ってねえだろうから、とトゥトゥは思う。

あのハンブーガとかシルーアルとかいう名前のけったいな食べ物のことを思い出すと(ハンバーガーとシリアルのことだが)、可哀想になって来るのだった。

透明な袋に入れられて、軒並みしなびたやつ。

水をかけたり温めたりすれば食えるらしいが、口にしたいとは感じない。

一度見せてもらっただけだが酷い代物であるとトゥトゥは判じた。

いや、食ったら美味いのかもしれないし、食わずに決めつけるのは誤りだと神話の中にも説かれている。

偏見を持つのはよろしくない。

余所者の考え方は嫌いだが、その中のドクは好きになったように、トゥトゥの好きなハンブーガだってあるかもしれない。

それはわからなかった。

ただドクは、ハンブーガだかシルーアルだかが、何をどう調理すれば出来上がるのか、説明することができなかったのだ。

その事実ひとつで、トゥトゥの信用を失うに値する。

確かに飲ませてもらうココアは滅法美味いが、と、長い髪から水を切りつつ独りごちる。

陽光が、濡れた背中の入れ墨(オルフ)の線を輝かせた。

俺が作る料理の方が美味えだろ、なあドク。


そうしてトゥトゥの朝は、毎日新鮮な朝になるのである。

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