望み

 バカみたいに暑かった昨日とは打って変わって、降り続く雨は午後になって勢いを増していた。さすがに雨音は聞こえなかったが、じっとりと湿気を含んだ重たい空気は病院の待合室まで入り込んでいた。順番を待つ患者は、みな無言でテレビの天気予報を見るともなく眺めている。


「昨日と気温差が大きくなっています。夏風邪にはご注意ください」と気象予報士が言った。

 鏑木が、ふん、と鼻で笑うと、前の席の老女がちらりとこちらを見た。


「鏑木さん」

 看護師の呼びかけに、ゆっくりと立ち上がる。



 *   *   *   *   *



『カルテは言わば体の通信簿だ。得意なところは伸ばし、苦手なところは克服する。子どもの頃に学校の先生がそうしてくれたように、我々の役目は我慢強く患者とともに歩み、導くことだ。そういう意味において、医者は指導者でなければならない。だから、我々も「先生」と呼ばれるのだ』


 まだ医者になりたての時分に、ある著名な教授がそう言っていたのを思い出した。


「まさか、こんな日が来るとはな」


 男は画面の一番上に表示された患者の氏名を見つめながら、ため息をついた。もって半年。次の桜の季節を迎えるのは難しいかもしれない。おそらく誰が見ても同じ診断結果に違いなかった。その事実を伝えるべきか否か、男は未だに腹を決めかねていた。


 決断を迫るように、扉がノックされた。男は「どうぞ」と緊張した声を返す。

「よお」と手を上げながら入ってきた鏑木も、笑ってはいたがどこか緊張しているように見えた。

「先生、変わりないですか?」

「変わりがなきゃ病院なんか来ねえよ」と鏑木は威勢よく言った。「それに、今はお前が先生だろうが。ややこしいからやめろ」

「じゃあ、何て呼べばいいんですか。『鏑木さん』?」

「まあ、確かにそれも変だな」

「ですね。それに、死ぬまで先生は私にとっては先生ですから」


 言ってから、しまったと思った。「私が死ぬまで」というつもりだったが、縁起でもないことに変わりはない。三十年の間、医師として働いてきた。普段なら絶対にしない軽率な発言だった。


「それにしても、まさかお前が医者になるとはな」と鏑木は男の失言を意に介することもなく言った。

「それ、この間も聞きましたよ」

「確かにお前は成績優秀だったが、手先は不器用だったじゃねえか。写生の授業で描いた裏の神社が宙に浮かんでるみたいに見えて、同級生に馬鹿にされてたよな。『空飛ぶ神社』だって」

「寺ですよ」

「あ?」

「学校の裏にあったのは神社じゃなくて寺です。『空飛ぶ神社』じゃなくて『空飛ぶお寺』」

「どっちにしろ、空を飛んでたのには違いねえ」

「絵が下手なのと手先が不器用なのは別の問題な気がしますけどね。それに、私は内科ですよ。手術はしないから、手先の器用さは関係ありません」

「え? なんだ、お前、手術しないのか?」

「しないですよ。自分が何の病気だと思ってるんですか」

「何の病気なんだよ?」

「だから、先日言ったように……」

「そうじゃなくてよ」

 鏑木の語気が強くなった。「本当は何なんだよ」

 男は思わず黙り込み、ばつの悪さを誤魔化すように咳払いを一つした。


 鏑木は、ぴしゃりと男の頭を叩いた。

「な、何するんですか!?」

「お前、そこで黙りこくったら、本当は深刻な病気だって言ってるようなもんじゃねえか」

「そういうわけじゃ……」

「それに、お前は昔から嘘をついたり誤魔化すときは、そうやって俯きながら咳払いしてたぞ」

「そんなことないですよ」

 そう言いながら、男は再び俯きそうになり、慌てて顔を上げた。

「とりあえず、お前に任せるからよ。薬、出してくれるんだろ?」

「え? あ、はい。処方箋出しておきます。あと、酒と煙草は控えてください」

「煙草はもう随分前にやめたよ」

 そう言って鏑木は席を立った。「もういいだろ? お前も忙しいだろうし。また今度、酒でも飲みながらゆっくり話そうや」

「だから、酒はダメですって」

 そう釘を刺している間にも、鏑木は部屋を出ていこうとしている。


「先生」

 男は慌てて呼び止めた。それから一瞬の逡巡の後に尋ねた。「……近くにご家族はいらっしゃるんですか?」

 奥さんが数年前に他界し、子どもには恵まれなかったことは知っていた。「家族」は「親族」の意味だった。

「千と三百二十六人いるよ。お前も入れてな」

「もう、ふざけないでください」

 そう言ってから、その数字の意味に思い当たり、男は目頭が熱くなるのを感じた。


「そう言えばよ」と鏑木は背を向けたまま、扉に向かって独り言のように呟いた。「お前、須崎って覚えてるか?」

「須崎? ああ、須崎望美。陸上やってた」

 何十年もその名前を口にしていないにも関わらず、不思議と幼い頃の友人はフルネームをはっきりと覚えていた。

「そうそう、その須崎。あいつの息子に昨日偶々会ったんだよ。息子も教え子なんだけどよ」

 次の言葉を待ったが、鏑木はしばらく何も言わなかった。

「先生?」


「この歳になったら、いつ死んでもいいと思ってたんだ」

 その声は震えていた。「何人か順番間違えちまったやつもいるけどよ。俺が先に向こう行くのが当たり前だから、またあの頃みたいにお前らを一番から千三百二十六番まで迎え入れてやろうと思ってたんだ。神社の絵描いたり、百メートル走したりしてよ。一つだけあの頃と違うのは、みんな子どもじゃなくて、じじいとばばあなことぐらいだな。小学校じゃなくて、今度は老人ホームだ」

 そう言って、鏑木はわざとらしく笑った。

 神社じゃなくて寺ですよ、そう茶々を入れてやろうと思ったが、言葉にならなかった。


「けどよ、あいつ来年結婚するんだと。俺、嬉しくて、守れないかもしれない約束しちまったんだよ。先生のくせに。だから、今は、来年の夏までは生きたいんだ」


 堪えきれなかった涙が一粒落ちると、堰を切ったように次から次へとあふれ出た。男は今度は顔を上げることができなかった。



 *   *   *   *   *



 外に出ると青空が覗いていた。雨に洗い流された世界が、きらきらと輝いている。目の前の歩道を、揃いの運動着を着た高校生が走っていく。背中に学校名と「陸上部」の文字が見える。


 不意に、ある光景が鏑木の脳裏に蘇った。


 力強く地面を蹴る足。笑っているような、泣いているような表情。あの日、前の選手が転んだ時、鏑木は思わず叫んでいた。




「走れ!」

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走れ! Nico @Nicolulu

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