襷
「素敵な話ですね」と和希が言った。
「昔の話よ。今は昔」と答えた望美の表情は、どこか晴れやかだった。
「私にはいなかったな。そんな素敵な先生」
「目の前にいる時はそんなこと思わないのよ? どちらかというとずぼらで、素敵とは程遠かったわ。適当だったし。ほら、言うでしょ? 失うまで自分が持っているものに気づかない、って」
「失うまで気づかない、か……」
「大丈夫。あなたが手に入れたものはそう簡単にはなくならないわ」
そう言うと、望美は和希の膝の上に手を置いた。「そろそろ行かなきゃね。花嫁と入場するのは私の役目じゃないわ」
「『夜はよく寝ろ。朝は早く起きて、飯を食え。日が暮れるまで遊んだら、夜寝る前にその日に何を学んだか考えろ』」
望美は驚いて振り返った。和希は、くすっと笑った。
「あの人、今でも時々言ってますよ。だから、私も覚えちゃいました」
「そう」
望美も、くくくっと笑った。「ごめんなさいね、家族揃って変な教えをもとに育っちゃって」
「たぶん、うちの子もその教えをもとに育つと思います」と和希は言った。「『そして、自分の三倍、私のことを大切にしろ』って」
「え?」
「彼、去年の夏に偶然先生に会ったらしいんです。その時にそう言われたって」
「そう。できたのね、新作」
「新作?」
「ううん、何でもないわ」
去年の夏、という言葉は、先生がもうここにはいないことを望美に実感させた。
『お前、長距離やってみるか?』
先生がそう言ってくれたことは、間違いなく望美の人生における転機になった。あれから四十年。長いようであっという間だった。
「ねぇ、和希ちゃん?」
「はい」
「今度、一緒にマラソンしない?」
「え、無理ですよ! 私、五キロ以上走ったことないですし」
「大丈夫。教えるから」
「えー、できるかな……」
そう言いながら、和希は両手を握りしめ、素早く前後に振った。体が激しく上下している。ウェディングドレスに隠れて脚は見えないが、どうやらその場で走っているらしい。
「あら、なかなかいいフォームじゃない? あの子と結婚なんかやめて、このまま走って逃げちゃえば?」
「え、普通、お義母さんがそれ言います?」
二人は声を上げて笑った。
望美は自分が持っているものと、これまでに失ってきたものに感謝した。
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