ON OUR MARKS

「転んだ?」

 望美が驚いたことに俺は驚いた。

「知らなかったのか? 今まで?」

「知らなかった」

 あ、言葉を失うとはこういうことを言うんだな、と俺は思った。




 四年前の全国高校駅伝で、望美は神奈川県代表としてアンカーを担った。最終五区は五キロ。トップと一分三十秒差でたすきを受け取った望美は、その差を着実に縮めていった。ただ、あのアクシデントがなければ優勝はできなかったかもしれない。


 トップのランナーが最後のコーナーを曲がった直後に転倒した。ゴールまであと七百メートルだった。もう余力がなかったのだろう。起き上がるまでに少しの間があった。

 その間に望美は最終コーナーに達した。二人が同じ直線上に立った時、その差は二百メートルもなかった。そこから望美は、まるでいま百メートル走のスタートを切ったかのようなスピードで相手に追いすがった。順位が入れ替わったのは、ゴールまであと百メートルを切ったところだった。




「だからか」と望美はテキーラ・サンライズを飲みながら、納得したように言った。「いや、最後の角を曲がった時、前のランナーが随分近くにいたから、あれ? と思ったのよね」

「それにしても、四年の間そのことを誰からも告げられなかったのか? 地元のテレビでも取り上げられてたのに」

「不思議なことってあるものね」と望美は、遠い国の出来事みたいに言った。


「あんた、最後のコーナーで『走れ!』って言ったでしょ?」

「え?」

 望美は、くくくっと笑った。実に魅力的なその笑い方は、俺たちが出会ったときから変わらなかった。

「走ってる人に向かって『走れ!』って」

「あー、その話か」

「普通走ってる人を応援するのに、『走れ!』って言わないよね」

「うちらにとってはあれが当たり前だったけどね。スタートラインにつく、走る、『走れ!』、でゴール」

「『夜はよく寝ろ。朝は早く起きて、飯を食え。明日も日が暮れるまで走ったら、夜寝る前に……』」

「『その日学んだことを考えろ』」

「久しぶりに先生に会いたいなー」

「いたんじゃないかな、先生」

「うん?」

「俺、言ってないんだ。『走れ!』って」

「え?」

「いや、そう言われて何度か思い出してるんだけど、あの時はゴールの手前にいたはずなんだ。だから、最後のコーナーで『走れ!』って言ったのは俺じゃない」

「そうなの?」

「うん、そう」

 しばらくしてから、望美は「そっか」と言った。


「きっとさ」と俺は言った。「うちらに子どもが生まれて、先生のクラスか陸上少年団に入ったら、同じこと言われて育つんだろうな。『走れ!』『飯を食え!』って。『短距離やるか、長距離やるか、明日までに決めろよー。短距離ではチーターには勝てないけど、長距離なら地球で一番だぞー』って。俺もあの時に長距離選んでれば出れたのかな、高校駅伝。って無理か」

 そこで顔を上げて驚いた。望美が泣いていたからだ。


「え、な、なんで? あ、先生のこと思い出して懐かしくなった?」

「違う。懐かしくはなったけど、そうじゃない。いま、何て言った?」

「え?」

「いま、何て言った?」

「長距離選んでたら、駅伝に出れたかなーって。いや、無理だよ、俺には才能ないし。望美と張り合おうとか、負けず嫌いとかそういうことじゃ……」

「その前!」

「え? チーターには勝てないけど、長距離なら……」

「もっと前!」

「うちらに子どもができたら、先生に同じことを……」


 それから先は言えなかった。望美がテーブル越しに抱きついてきたからだ。テキーラ・サンライズが盛大に吹っ飛んだが、望美はそんなことは遠い国の出来事よりも気にならないみたいだった。




 それが俺の、俺たちのプロポーズだった。


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