on your marks

 白線に沿って手を置き、膝を地面につけると、ちくりとした感触があった。ふぅーと大きく、ゆっくりと息を吐く。


「位置についてー、用意……」


 少しの間があった後、ぱんっ、と手が叩かれる。それと同時に、全身の力を一気に解放する。スタートはよかったと思ったが、すでに両脇の選手は半歩先にいた。徐々に視野が狭くなっていき、足が砂を蹴る音が小気味よく響く。


「走れ!」


 先生はいつも決まってそうげきを飛ばした。速い子にも遅い子にも「走れ!」だ。その度に望美は思わずにはいられなかった。


 もう走ってるっつーの!


 勝負は一瞬だった。練習なのでゴールテープはなかった。もっとも、あったとしてもそれを切るのは自分ではない。思わず心の中で舌打ちが漏れる。


「一着、森、十四秒三八。二着、小笠原、十四秒六二。三着、建部……」


「須崎!」

 先生が少し離れたところで手招きをしていた。


「五着、須崎、十五秒二〇。六着、二村……」


「自分のタイム、どう思う?」

「やっぱり、スタートから少し遅かったです」

 望美は、少し考えた後にそう答えた。「あと、途中でも、なんて言うか、伸びないっていうか……」

「いや、その通りなんだけどよ」と先生は頭を掻きながら言った。

「タイムはどう思うよ?」

「……悪くはないけど、良くもない」

「だよなー」

 そう言ったきり、少しの間があった。


 自分の順位はどの組にいても四着か、五着。そんな感じだった。体育の授業だったら早い方。陸上少年団なら真ん中へん。


「須崎よー、お前別に速くねぇんだけどよ」

「普通、そんなはっきり言わなくないですか?」

「だけどよ、なんか可能性感じんだよな」

「可能性?」

「なんて言うか、一生懸命練習して、条件が揃って、こう、パズルがはまるみたいに、ぴしっといったら、すごい記録が出そうって言うか……」

「パズル、ですか……」

 先生は静かに頷いた。「お前、中学生になっても陸上続けるか?」


 望美がそのことについて考えるのは初めてだった。よくわからなかったが、続けている気がしたのでそう答えた。先生は「そうか」とだけ言うと、空を見上げた。望美もつられて見上げる。

 初夏の雲がぽっかりと浮かんでいた。


「お前、長距離やってみるか?」

「長距離?」

「五千か、一万か。走ったことあるか?」

 そう言われて、頭の中で考えた。五キロか十キロ、か。

「ないです」

「だよなー」

「集合ー!」と同学年のキャプテンが声を上げた。二十人ほどが、ぱらぱらと先生と望美の周りに走り寄ってくる。

「とりあえず」と微笑みながら、先生が言った。「明日、走ってみるか」




 先生が話している間も、望美は明日自分が走ることになる道のりについて考えていた。五千か、一万。四年生で少年団に入って以来、競技では百メートルか二百メートルしか走ったことがなかった。長距離なんて、せいぜい練習前のジョギング程度だ。一万メートルは、百メートルを百回分。そんな距離を、自分は休まずに走り切れるのだろうか。


「今日は六年生に宿題を出すぞー」

 その声に、望美は我に返った。少年団で宿題? 案の定、何人かが「えー、宿題は授業だけにしてよー」と非難の声を上げた。「なんで六年だけなんだよー」


「小学生のうちは百メートルとか二百メートルしかやらないけど、お前らは大きくなればなるほど、もっと長く走れるようになる。だから、中学生になっても、高校生になっても、その先も陸上続けるつもりなら、どっちにするか選んだほうがいい。短距離走の選手になるか、長距離走の選手になるか」


「長距離ってどのくらいですかー?」「マラソンだろ?」「マラソンって何メートルだっけ?」「メートルじゃなくて、キロだよ、キロ。四十二キロ」「キロは体重だろ!?」「てか、四十二キロも走れなくない?」「つらそー」「お前、五年生だから関係ないじゃん!」


 お祭り騒ぎが始まりかけたところで、先生が「よく聞けー」と声を張り上げた。


「お前ら、地球上で一番速く走れる動物は何か知ってるか?」

「チーター!」と誰かが叫んだ。

「そうだな。チーターは百メートルを三秒で走る」

「三秒!?」とあたりがざわめく。

「だけど、それは短距離の話だ。チーターは四十二キロを走り続けることはできない。じゃあ、マラソンを走った時に一番速い動物は何だと思う?」

「馬!」「犬!」「ラクダ!」「キリン!」「カバ!」「カバはないだろー」

「正解は」

 先生は得意げに一拍置いた。「人間だ。つまり、百メートルで世界一になってもチーターには敵わない。でもな、マラソンで世界一になったら、地球で一番になれるんだ」


 恐らくは渾身の一言だったと思うが、小学生の心にはあまり響かなかった。


「まず世界一になれなくない?」「てか、四十二キロも走れない」「つらそー」

「とにかく」と先生は声を一段と大きくした。「明日の練習は長距離もやるから、走ってみたいやつは明日までに考えて来いよ。六年生じゃなくても、やりたいやついたらいいぞ」


 望美も先生の言葉にはさほど感銘は受けなかったが、ただ少しだけ、明日の練習が楽しみになっていた。


「じゃあ、お前ら、夜はよく寝ろよ。朝は早く起きて、たくさん飯を食え。明日も日が暮れるまで走ったら、夜寝る前にその日学んだことを考えろ」

「先生、それもう聞き飽きたよー」

「なんか新作ないの? 新作!」



 茜色に染まった空が、校庭を優しく見下ろしていた。


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