第31話
蓄積した疲労により生活がままならない事も多々あったがそれでもギターと読書の時間は確保し休日だけとなってしまっていたがジムにも通っていた。
ヤりたい一心で身体を無理に動かしていたのだが、気力が切れる事なく、むしろ充実感すら湧いてくるのが不思議であった。何かに取り組むというのはまったく気分がよくなものどと驚いたが、それでも、一瞬雑念が入り込むと、つい、陰入ってしまう事があったが、きっと、疲れがそうさせているのだと思った。
「いつも悪いね。助かるよ」
夜の営業が終わり、店の外で入口のシャッターを下ろす頃に白井さんはいつもそうそう言う。助かっているのは昼夜雇ってもらっているこちらなのだが、勤労の
だが、そこはやはり白井さんであり、手放しで敬意を表するにはいかなかった。
「ところで、石川堂のお嬢さんとは上手くいってるかい」
「……は」
関心した途端これである。二言めには男女の話だ。他に会話ができないのだろうかと疑問に思う。下世話もいい加減にしてほしいものだ。
「何でもないですよ。僕はただ、本を買いに行っているだけです」
その返答に、白井さんは「へぇ」と軽く笑い煙草を燻らせた。
「あそこのお嬢さん。狙い目だよ。美人なんだけど、浮いた話はまるっきり聞かないんだ。どうだい。彼女にしてみたら」
「そんなもの、僕一人で決められる話しじゃないでしょう」
「なら、相手がいいと言えば付き合うのかい」
「そういう話でもないです」
一美の次は揖良か。
そう辟易しながら帰り支度を始める。これではまるで、俺が節操のない色狂いみたいではないかと少しばかり怒りも湧くが、白井さんはいつもこんな調子なものだから、その度に青筋を立ててもキリがないし、馬鹿な話しに取り合っていても時間が足りない。ただでさえ疲れていて、何より空腹で夜の寒さが堪える日である。まともに相手をした方が損だと割り切るのが正解だ。
「それじゃあ、お先に失礼します」
飢えと冷えに加え戯言にまで苛まれてなるものかと、俺はチャリングクロスに背を向けた。
「あぁ、ちょっと待って……はいこれ。いつも、助かってるから」
白井さんから背後から肩を叩かれ、俺の目の前には封筒が差し出されていた。その中身は、言わずもがな……
「いや、そんな、いただけませんよ……」
「いいから。気持ちだよ。気持ち。じゃあ、俺は帰るから気をつけて帰ってね」
白井さんは封筒を押し付けそのまま足早に立ち去っていき、俺はそれを見送った。
やろうと思えば突き返せた。しかし、俺は強く封筒を握っていた。
中には五千円が一枚入っていた。思ったよりも大きな金額に、申し訳なさよりも欲が優先してしまうあたり卑しく思う。
「……何か食べて帰ろう」
そんな野卑た自分を隠すようにわざとらしく一人ごちる。こんな時、まったく思慮なく歓喜できる人間が羨ましい。他人から金をいただいて腹を満たすなど飼われているようだし、そもそも惨めだ。すっぱりと断ってしまうのが健全であるが、しかし、渡した方とて悪意があるわけでもなく、また、こちらとして貧苦に困っているわけだから、どうしても手が伸び、受け取った後に後悔や葛藤をするはめとなるのだ。
そんな暗い、維持の汚い自分が嫌になる。「いりません」とはっきり言えたらどれだけ良いか。いただくならいただくで、素直に喜べたらどれだけ気楽か。他人の金で生かされるというのが、自力できないというのが、苦しい。
「……吉野家にしよう」
再びごちる。食べたくもない牛丼屋の名を口にしたのはそれ以外に深夜営業している店を知らないのと、懐に入れた五千円をあまり崩したくないからというさもしい理由があった。
夜道を歩く。街灯が照らす冷えたアスファルトの道路と、コンクリートの壁。時折すれ違う人はみんな酒気を帯びている。素面でいる事が怖く思え、足を早めて駅前の繁華街にある吉野家に飛び込み席に座ると、対面のカウンターに座っている面々に目がいく。くたびれた男女の四人組が、肘をついて眠っている。夜遊びの帰りだろうか。時間は二時を回っているくらいで潰れるにはまだ早いように思えるが、よほど派手に羽目を外したのだろう。
「ビールと、牛皿」
店員にそう告げ、カウンターに置かれた茶を飲むと凍えた身体によく効いた。
狭い卓で落ち着かないが、一息の安楽は得られる。俺以外の人間が入らない自室で缶ビールを買って飲むよりは寂しくはない。
「ビールと牛皿です」
手早く運ばれてきた瓶ビールと牛肉での晩酌。しみったれた図だが、今はこれでいい。これでいい。これで……
対面の男女を見る。よれた服に崩れた化粧。だらしのない。着飾りが台無しだ。おまけに吉野家で居眠りとは見苦しい限りだ。
しかし、奴らは男女の悦びを知っている。
遊び回り、飛び回り、その果てにこの小さな店舗にやってきて牛丼を喰らい、眠っているのだ。
あいつやはきっとヤっている。昼夜問わず、互いに互いの肉を漁っているに違いない。
いい事、してやがるなぁ。
あぁ
いい事、してやがるなぁ。
「ビールをください」
俺は店員を呼びつけ、空になった瓶を渡して更に酒を頼んだ。
酔いと共に回る妬み。羨望。満ち足りない毎日。
どれだけ働いても、ギターを鳴らしても、本を読んでも、鍛えても、一瞬でも女を浮かべると忘我もできず、落胆として、涙を堪えるばかり。
「たった一度。狼になれたらな」
ふいに、昔聞いたような、そんな歌を思い浮かべ、俺は誰にも聞かれないように、小さくうろ覚えの歌詞を口ずさんだが、うろ覚えなのでよくもわからず、どうでもよくなり、運ばれてきた瓶ビールを煽り、牛皿を平らげると、さっさと金を払って帰路を辿った。千円とちょっとの酒代は、酩酊の享楽ではなく虚無と失意を促し、身体も心も重くなるばかりであった。
寒い夜道を歩いて帰ってきた普請の真っ暗な部屋には、俺がただ一人いるだけだった。
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