第5話
冷静と正常を取り戻した俺は無事業務へ戻り、その後は難なく給仕に従事してタイムカードを切った。その際に一美から「大丈夫ですか?」「突然だったからびっくりしちゃった」としきりに心配されたものだから多少の負い目と気恥ずかしさを覚えたが、痴態が露見しなかっただけ良しとする。
「お先に失礼します」
「はい。今日もありがとね」
形式的な挨拶を交わし退店。チャリングクロスを後にする。瞬間、冷えた外気が肺を満たす。夕暮れの残火に照らされた影のない街角は闇そのものとなり、外に出た俺を呑み込んでいく。恐る恐る。少しずつ足を運ぶ。一歩進む毎に、どこかへ引きずられていくようは思いがする。店であった不愉快な記憶が蘇り、それにつられるように、過去の不手際や失態が呼び起こされるのだ。堪らず大きく息を吸うと、途端に身体が動かなくなり、不安が胸を縛っていくのが分かった。周りを見ると人のいない往来がなんとも広く感じられ、俺を縮ませる。自分の居場所のないこの世界に立ち竦むと、虚無がそこにあった。
孤独とは、つまりこういう風なものだろう。そこにあってないような存在となるのが、独りの骨頂であるのだろう。
然るにそれは、海に漂う泡と等しく、起こりては消え、起こりては消え……
そこまで考えて俺は得体の知れない恐怖に囚われ怯えた。この先、俺は生きていたという痕跡すら残らないまま死に消えていくのだろうか。誰にも看取られず、存在した事さえ虚ろなままに、衰え果てて、灰となるのか。
いつかくる人生の終焉。自分のそれを思うと、吐く息は重くなり、骨身が収縮していく。
何も残せぬまま誰の記憶にも残らぬ生になんの意味があるのか。地を這うように日銭を稼ぐ日々にどのような意義があるのか。いったい俺は何の為に生まれ、何の為に死ぬのか。ただただ辛くただただ苦しい辛苦が満ちた一生をどうして生きねばならぬのか。考えれば考えるほどまるで分からぬ。底なしの沼にはまったように、思考がもがく。
深淵に覗き込まれているような感覚。粟立つ肌。自身の否定。至る地点の一つが頭を過る。自死。
俺は思わずその場に崩れ膝をついた。
夜風が吹き荒み、闇が包む。陽はとうに落ちている。物体の輪郭は、曖昧なまま溶けている。
その一連が命の終わりを意味しているように思えた。この場にある命は一つだけだった。俺は自らの首を自らの手で絞めつけたくなった。あぁ死ぬしかない。死ぬしかないのだ。何者にもなれぬ、何も残せぬお前は死ぬしかないのだ。
幻聴が響く。呼吸が困難となり、脈が音を立てているのが分かる。苦しい。苦しい。苦しいが、このまま……
つい先ほどまで女とまぐわえず果てる無念を残すわけにはいかぬと思っていたがもはやこれまで。このまま死んでしまった方がどれだけ楽か。いいだろう。腹は括った。いざ逝かん。影なき国へ……
などと逃避していると、しばらくの後に頭から狂気が薄れて冴えていった。身体の感覚が戻っていく。アスファルトの破片が食い込んだ手の平が痛み、自分が正気を取り戻した事が分かる。俺は先までおかしかった。一瞬だが、気が触れていたのだ。
過去の不足。現状の不満。未来への不安。渦巻く後悔、不平。恐怖。発作的に起こる激情。抑圧された自我はうねりを産み心を濁していく。斜陽の光が引いたは後は、人の濁りを深く浮き彫りにする。この状態はまずい。磨耗した精神の傷痕から膿んでいくような、いわば狂気の手前である。一線を越える前に感情の淀みを吐き出し清流のように正さねば、まさしく狂ってしまう。
こうした発作は珍しい事ではない。俺はどうにも精神薄弱気味で己律ままならぬ時があるのだが、殊に誰に頼る事もできず逃げ場さえない現実を自覚してしまうとその患いが顕著に現れ耐えられなくなる。そうすると、もう駄目なのだ。心の弱い人間にとって、街の風は冷たい。寄り添う相手がいないと、倒れてしまうほどに……
「生きるも死ぬも一人か……」
頭が回り始めた俺は自嘲気味にそう呟いた。まともに生きる事もできない自分がどれだけ恥ずかしい存在であるか身に染みる。今日は飲もう。意識がなくなるまで。そう思い立ち上がろうとしたところで、微かに聞こえる声があった。
「村瀬さん」
その声は確かに俺を呼ぶもので、徐々に近付いてくるのが分かる。誰だ。何の用だと耳をすませば、驚いた事にそれは一美のものであった。混乱が先立ち、足がもつれ立ち上がれず、俺は産まれたばかりの子鹿のように覚束ず地に伏した。この光景は一美の目にしかと焼きついた事だろう。また恥を重ねてしまった。憂鬱である。
「村瀬さん。大丈夫ですか」
一美は目の前で転がる俺に向かってそう問うた。あぁまったく情けないったらない。
「はい。ちょっと立ちくらみがしたもので……それより、何か用でしょうか」
俺はようやく立ち上がると、一美の果実が目に入った。間近で見るとなんと豊かな実りであろうかと思わず触れそうになったが、寸でのところで堪え事なきを得た。
「はい。いえ、大した用ではないのですけれど、毎日、難しいお客様のお相手ばかりしていただいているので、お礼をと……」
一美は言葉の最後を消して、控えめに小さな手を前に出した。そこには缶コーヒーが一つ握られていた。俺が毎朝飲む、微糖のものである。
「あ、ありがとうございます。でも、悪いな……」
「いえ、こんな事しかお気持ちを返せませんが……」
受け取った缶コーヒーが、シンと胸を熱っする。
他者の心遣いが暖かいという事を、俺は今まで忘れていた。一美の優しさが濁流を掃いた心に真っ直ぐ伝わり、久しく失われていた希望の慶兆を呼び覚ましてくれたような気がした。何もない虚構の影を彷徨う中で、生きていて良かったと心の底から思えたのだ。
「それじゃあ、私、荷物お店に置いてあるので」
「あぁ。それじゃあ」
手を振り別れる。去っていく一美の後ろ姿を、ずっと見る。
一緒に帰らないかと誘ったら、彼女はどんな顔をしただろうか。
邪が走った。走って追いかけようかと思った。だが、俺はその場で立ち尽くし、風に吹かれた。
次。次があったら、きっと誘おう。一緒に帰って、食事でもできたら、素敵だろうな。
子供のような妄想は溜め息とともにかき消えた。
俺は、また一人夜の世界に残されたのだが、しかし、先程までとは違い、孤独は感じなかった。
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