第13話
しかしいつまでも慈母像を崇めているわけにはいかない。俺は本を買いに来たのであるからして、やはり適当なタイトルを手に取りそれを購入しなければ単なるひやかしとなってしまうのだ。揖良としても本が売れねば商売上がったりなわけだから、ここはなけなしの小銭を吐いて僅かばかりの甲斐性を見せたいところである。
「あの、村上春樹で読みやすいものはありますか」
本棚を眺めてもいても始まらないため俺は揖良に助言を請うことにした。別に村上春樹が読みたいわけではない。単に、小説家と呼ばれる人種を知らないだけである。
だが、こうしたごく自然に交わされる会話こそが愛の試金石となり得るのであると俺は信じる。内容は短く退屈なものだが、信頼とはこうした小事の積み重ねによって育まれていくように思うのだ。
「春樹ですか……無難に、ねじまき島クロニクルやノルウェイの森辺りが良いのでは……」
しかしその目論見に早くも陰りが見える。揖良の返事はどこか歯切れが悪くはっきりとしない。いったいどうしたというのか。以前、魔王を買った時などは伊坂幸太郎の別作品にまで話しが移り、重量ピエロの映画やアニメーション作品についても話題を広げてきたというのに嫌に逡巡とした態度である。これはどうした事か。本の虫を自称する彼女にしては珍しい口籠もり。不可思議に尽きる。いやいや。これは、もしかしたら……
「……村上春樹はあまりあまり読みませんか」
その可能性は十分にあり得た。いくら本が好きといってもこの世界の全ての物語を網羅する事など不可能だろう。
きっと彼女は村上春樹をあまり知らないのだ。
そう合点した俺は、それがなんだか愉しく思えた。揖良への支配欲がほんの少し満たされた気になったからだと思う。
「いえ、その……少し、拝読しましたけれど、まぁ、読んでないといえばそうなのですが、その、村上春樹は、少々苦手でして……」
なるほど。読んでないわけではないが、肌に合わなかったと。そういう事もあるか。確かに好き嫌いはあろう。
しかしそうなると何が気に入らぬか知りたいのが人情というもの。なれば聞いてみるのもまた一興。話の肥やしにも丁度いいだろうし、揖良の理解を深めるのはヤルための必須プロセスであるからして、耳を傾けるのは悪くないだろうと、俺はやや俯瞰したような態度で話しを続ける事にした。
「へぇ。例えば、どのようなところが苦手なんですか」
「……分からないんです」
「……分からない」
「……はい」
顔をしかめる揖良。「分からない」とは、何読難解のという事であろうか。本が好きで本屋で働いている彼女にそう言わしめる作品とは、如何なるものなのか。
「彼の作品、全てが分からないんですか?」
「二作。それ以上は、読みたいとも、読んでみようとも……」
「なるほど……」
「それと、暴力描写と、その、せ、性的な……」
「あぁ……」
俺はそれ以上の言及はやめておいた。揖良のただならぬ表情を見てこの話題は危険だと判断したのだ。
どうやら村上春樹は彼女の読者家としての矜持を揺るがす作家なのだろう。あまり追求すると関係が拗れかねない。ここは話しを逸らすのが賢明であり最良である。
「なら、他にお勧めの本はありますか。そろそろ、ちょっと古い作品も読んでみたいなと」
餅は餅屋だ。分からぬならその筋に詳しいの間に聞くのが手っ取り早い。
「それなら太宰などいかがでしょうか。古典ながらどれも読みやすく、おすすめできます。あちらの棚にだいたい揃えてありますし、全集もありますよ」
「あぁ。太宰。太宰治ですね。それなら、走れメロスを読んだ記憶があります」
暴君をあばれくんと誤読したのは伏せおく。
「それでは、太宰のいずれかの作品を……」
「……」
相槌ついでに揖良を見ると何か訴えるような顔をしている。先までの微笑はなく、困惑とした眼差しを俺に向けているのだ。
「あの、なにか……」
「え、あ、いえ……大した事ではないんですけど……」
もじと身体を揺する揖良は明らかに大した事のあるような素振りである。さては遠慮してしまって気後れしているなと気づく。何ぞ提言でもあるのだろう。
優しさ故に物申せぬとはなんと儚く健気だろうか。よかろう。ここは男の大器を見せる場面と心得た。聞こう。君の言葉を。
大言壮語も内に秘めたれば咎められまいと俺は胸を張り、努めて柔らかに「言ってください」と偉そうに返答を待つ。それでも揖良はしばらく身体を揺すっていたが、ついには折れたのか、「あの……」と、小さく呟くように言葉を落としたのであった。
「その、私のおすすめばかりではなく、あの、色々な本を読んでいただきたいというか、予備知識なく自分で手に取ってみて、どんなお話なのかを読み解いていくのも読書の楽しみといいますか……」
必死に伝えようと汗を滲ませながら赤面する揖良のなんと尊い事か。このままずっと要領を得ぬとしらを切り続け彼女の一所懸命を眺めていたい悪戯心も湧くには湧いたが、それはあまりに嗜虐が過ぎるというものである。俺は柔和な面を保ったまま「分かりました」と手を打ち、いかにも物分りがいいように立ち振る舞うのであった。
「では、ちょっと気になっていた本がありましたので、そちらを買わせていただきますね」
「あ、そ、そうですか。そんなんですね。うん。それがいいと思います」
俺の一言に揖良は返り咲いた。やはり彼女には笑顔がよく似合う。できるのであれば、俺だけにその艶花を見せてほしいものだ。
「それで、その、なんという作品なんですか」
控え目な興味津々。これも可愛らしい。孫娘のようだ。その愛い仕草に応えねば男ではなかろう。
俺は幾らか気取った風に体を崩し、吐息とともに、揖良の問いに答を返す。
「あぁはい。俗物図鑑というのですが」
「え……」
固まる揖良。その異変はあからさまで、どれだけ感情が重鈍であろうとも感づかねばおかしいくらいに彼女は驚愕としていたのであった。
「……なにか」
「あ、いえ……あ、筒井康隆でしたら、左の棚の中程にありますので……」
煮え切らぬ。だがここで追求するのもくどく思い、俺は示された通りに左の棚から俗物図鑑とやらを見つけ出し、ついでにタイトルに惹かれ、聖痕と最後の喫煙者と銘打たれた作品を手に取り会計をした。
しめて七百八十円の出費でありかなりの痛手であったが、それよりも、終始よそよそしくしている揖良の方が気になる。
何か声をかけるべきか悩んだが、あまり馴れ馴れしいのも考えものだと一歩引き、俺は二冊の古本と一抹の疑念を抱え帰路に着いたのだった。
宅に着き早速ページをめくった俺は全てを理解して頭を抱えた。
「やってしまった」
後悔先に立たずである。
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