第27話
ブースに入り借り物のギターを鳴らしてみてもアンプに繋いでいない弦の揺れる音が寂しい。
没頭していたはずのギターが冷たい。
音楽を奏で悦を感じていたのは、音楽が好きだったのではなく、やはり女への執着があったからであろうか。
「どうしたものか。どうにもならん」
嘆息に混じる失意落胆。動機こそ不純であったがギターには真摯に取り組んでいるつもりであった。しかし、演奏の感動さえ原泉が下心だったとは。低俗下劣に尽きるというもの。俺が得ていた音楽の芸術性は所詮リビドーから流れ出る偽りの律動だったのだ。紡いでいたと思い込んでいた音の粒の正体は、とめどなく製造される精子の意思が作り出した魂の幻影なのだろう。なんともはや俗悪の極みではないか。これからは、ギターを弾けば弾くほどに品性が欠落してしまいそうだ。まったく得意げな顔をして「ギターをやっている」などと一美に告白してしまった事が悔やまれる。俺がしているのは、手淫と変わらぬ哀れで満たされぬ賤の愚だったのだ。誇れる要素がなど塵ほどもない。
「どうしようもない。どうするもない」
続く落胆。吐き出す言に顔を伏せる。自ら披露した恥辱に深く後悔をするも、自身で言ったようにどうしようもない。俺はただ過去にした己の発言を呪い、馬鹿だ馬鹿だと己を誹謗するしかできないのだ。
この精神的な自己否定は当然揚羽から指導を受けている時も続いた。継続理由が定まらぬ稽古では師からの助言も身に入らず、どうにも下手を踏み続ける。しまいには、「今日は何をやっても駄目みたいですね。間が抜けてらっしゃる」と、匙を投げられる始末であった。
「すみません。どうも、調子が悪くって」
「そうでしょうね。教えた事が馬耳東風のようですから、脳が働いていないのでしょうね」
きついことを言う。確か地に足がついていない俺が悪いが、言い方というものがあろう。
やはり女は平気で人に牙を剥く。倫理や道徳が通じぬ獣なのだ。俺は斯様な存在に幻想を抱いているのだ。
そんな益体も無い文句を巡らせる。底辺に落ちた活力が、さらに、沈んでいく。
「すみません」
しかし如何に相手の言葉に棘があっても不手際を起こしたのは自分なのだから叱責苦言の類は甘んじて受けねばならぬ。失態を働いたうえ、反論などできようはずもない。
「村瀬さん。貴方、つい最近までしっかりとできていたじゃありませんか。なのに突然のこの体たらく。どうしてしまったんですか」
尚も俺を追い詰める揚羽。しかしわざわざ理由を説明せねばなるまいか。いくら講師とはいえ、他人に対し胸襟を開く無作法を強いるとは傲慢ではあるまいか。言葉を選ばず申せば不愉快である。
「……」
俺は意図して口を閉ざす。文句の一つでも言ってやりたかったのだが、口に出してしまえばもう取り返しがつかなくなってしまうという恐れがあったために、沈黙という形でしか抗議を示せなかった。
しかし、それが返って揚羽の禁忌に触れてしまったようだった。
「……愚図!」
強烈な一言とともに放たれた鉄拳。俺は左頬に衝撃を受け座っていたパイプ椅子から転げ落ちてしまった。
「情けない! 恥知らず!」
更に絶叫に近い揚羽の声が響く。
地べたに這いつくばる俺は、怒りより先に困惑に陥った。
「な、殴りましたか」
馬鹿な事を聞いた。今しがた受けた拳骨が殴打以外になんというのか。だが、これは弁明であるが、よもやいい歳をした女が拳を叩き込んでくると誰が想像できようか。俺が「殴りましたか」と聞いたのは現状に理解が追いつかなかったため、今一度確認の必要があったからである。逸脱した行為を真正面から受けられるほど俺の精神は強靭ではない。
「殴りましたとも。殴ってなぜ悪いのですか」
しかし、真人間である俺とは反対に揚羽は狂人のような開き直りを見せたのだった。殴ってなぜ悪いかだと。人に害を加える行為が良いわけなかろう。悪いに決まっているではないか。こうなったらこちらに非があるなどと言っている場合ではない。異議申し立てをしなければ、尊厳に関わる。口にせねばならぬ。非難を。
「いや、暴力はよくない」
そう思い咄嗟に出てきた言葉がこれである。我ながら、情けない。
「分からず屋に言葉で説明できるほど私の気は長くありません。それに軟弱者は痛い思いをしないと分かりませんからね」
「な、な……軟弱者……」
「そうです。言いたいことも言えず、子供みたい拗ねて黙って。これが軟弱でなくなんというのですか」
随分な言い様。さしもの俺も斯様な暴言には腹を据えかねる。
「な、何も知らないくせに、説教をするんですか。風間さんは」
「何も知らないから話してみろと言っているのですよ村瀬さん」
「……」
揚羽の声色が変わった。先までの、咎めるような、唸りのような怒声から、打って変わって慈しみのある音色を奏でたのであった。
「話してくださいよ、村瀬さん。でないと、私も教えようがないのですから。せっかくギターを覚えようと頑張っていたのに、これじゃもったいないですよ」
「……」
嘘のような台詞だと思った。しかし嘘ではない。
熱が、魂が、真がこもった言を、確かに揚羽が俺に向けて放ったのだ。
「村瀬さん」
詰め寄ってくる揚羽。しかし、その表情は柔らかく、包容力があった。これが女が持つ母性というものなのだろうか。だとしたら、これは……
「話していただけませんか。お悩みがあるのでしょう」
「……はい」
意識なく頷いてしまっていた。
揚羽の慈雨のような言葉に負けた俺は、先まであった女への、揚羽への疑心が薄まり、この日初めて正面から彼女を見る事ができた。
あぁなんと美しい事か。やはり彼女は素晴らしい。芸術の域に達している。
思わず感嘆に至る。これだけの美女を前に俺は何をしていたのかと、自らの愚考愚行に後悔の念を禁じ得ない。揚羽に対し、謝りたいと心から思った。
だがしかし、その、女への疑念が一時的に晴れた事により困ってしまった。揚羽の言葉に絆された俺は、抱いていた疑念を口に出すのが、恥ずかしく思えてしまったのである。
「……」
「……村瀬さん」
「……はい」
「お黙りになられると、困ります」
その通りだ。話せと言われて頷いた以上、黙っていては筋が通らぬ。
「では、お話しさせていただきます……」
「はい。お願いします」
さて、何を話そうか。
俺は口を動かしながら、どうしたものだろうかと他人事のように思案した。
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