第3話

 しかしながら、ちらほらと客足が伸び始めると落胆している場合ではなくなってきた。手狭な店内。少ない人員。衆人環視に人手不足。サボるわけにも手を抜くわけにもいかぬ条件。常連にはご贔屓スマイル。一見にはベストサードプレイスアピールを欠かさない。ホールは店の花であり鏡である。妥協はできない。正解の存在しない接客業においては最前最高を尽くしてもまだ足りぬ。一所懸命。誠心誠意を持ってお客様へのご対応に当たらねば給仕失格といえよう。本日も精進あるのみである。


 と、意気込むはいいものの、やはり世の断りは理不尽につき不平等。持って生まれ個性や特徴により、気概や努力は蹂躙される。


「いやぁこの店はやっぱりシンちゃんがいてこそだなぁ」


「そんな事ないですよ。白井さんのお料理があってこそです」


「いやいや。やっぱり花があるから。シンちゃんは。それを目当てに来てる人もいるからね」


「ありがとうございます」


 一美に群がりそう言うのは常連のオヤジ連中である。奴らはもっぱら一美がシフトに入っている日を狙って入店してくるスケベ共で、店をキャバクラかなにか勘違いしている節さえ見られる。もし一美が空いているにも関わらず俺が配膳しようものなら舌打ち咳払い小言のオンパレードであり、まったく不愉快極まりない仕打ちを受けるのだから堪ったものではない。

 まったく碌でもない人間だと心中で毒づくも、あんな連中でさえ真っ当な職に就き嫁を娶り子をこさえマイホームを建てたりマンションを購入しているというのだから面白くない。時代が違うとはいえ、まざまざと人間力の差を見せつけられたようで憎々しく思う。奴らと俺の間には社会的な溝ができており、それを考えると、自身の不甲斐なさにどうにもやるせなくなるのだ。

 俺とて好んでフリーターをしているわけではない。高校を卒業して工場なりスーパーなりで退屈ながらも安定した生活を得ていれば労せず女も作れただろうし、コンビニでコーヒーとチョコレートを買うのに懐具合の心配をせずに済んだのである。それをあの体裁ばかりを気にする愚かな両親のせいで行きたくもない大学へ行かされ無い内定のうちに卒業ときたものだから笑えない。思えば大学進学が、俺の人生における分水嶺であった。

 四年間を惰性で過ごした人間が就職活動などできるはずがない。俺は数多の面接で責め苦を受け、傷心ばかりを重ねた。疲弊した精神は限界に近く、もう死んでしまおうかとさえ思った。それをあの二人、情けないだの堕落していたからだのと文句ばかりを言って一方的に絶縁宣言を叩きつけ俺を家から追い出したのだ。情も愛もあったものではない。気狂いの所業である。おかげで今は大卒底辺非正規労働者という現代に巣食う弱者のお手本のような身分となってしまった。こうなってはもはや正規ルートへの復帰はほぼ絶望的であろう。このままでは一生低賃金で不安定な職に従し身心を擦り減らす生活を送るか、アウトサイダーとなって脛に傷をつけるくらいの道しかないのではないかと最近になって考える。仮に自ら命を絶たないのであれば、俺は、死ぬまで悲しいほど長い時間が残されていながら、爪弾きものとして生きていくしかない。


 しかしそれでも女が欲しい。

 だがこれでは見向きもされない。


 故にもはや正攻法ではモテないのだ。小手先や欺瞞で戦わねばならぬのだ。さもなければ一生童貞なのだ。俺は腐れたオヤジ共に劣るのだ。それでも女を得なければ俺の欲望が満たされる事は無いのだ。なんという悲劇ではないか。


 突き付けられる現実。俺は持っているトレーを投げ捨て膝をつきたくなったがそうもいかなかった。客は俗物ばかりではないのだ。一美がそちらに手を取られている以上、カップの向きまで指定してくる気難しいマダムやいつも水ではなく氷を持ってこさせる妙なババアなどの相手は俺がしなければならない。揃いも揃っておかしな客が集まり、その中でも面倒な輩ばかりを半ば押し付けられているわけなのだからへこたれている場合ではない。だが、しかし、どうにも、これでは報われぬという気持ちが褪せない。せめて、気持ち程度でも賃金に色が入ればまだ救いがあるのだが……




「あら。ハンドルが四度ズレていてよ。それにソーサーが欠けているわ。代えて頂戴」


 しまったと思った。身が入らぬままの配膳であった。迂闊な事に、俺は地に足つかない朧ろな状態で例のマダムのところにエスプレッソを出してしまったのだ。


「……大変失礼いたしました。すぐに準備いたします」


「貴方も長いわよね? 駄目よこんな失敗しちゃ」


「……申し訳ありません」


 雑念が入りお叱りを受ける事もしばしばである。俺もまだまだ甘い。

 


 大小のいざこざが起きつつも、仕事は進行していく。

 客相手に機械的に、あるいは人間的に接し、時々失態を晒しながら時間は進み、賑わいを見せる店内では笑顔の者や仏頂面の者。ずっと俯きため息を吐く者など三者三様で十人十色の様相である。俺はこれらを羨望や嫉妬の念を押し殺しながら横目で観察する事がしばしばあり、胸の中で「あいつは幸福だろう」とか、「あいつは金を持ってそうだ」とか値踏みをするのが常であった。どうにも自分以外の人間が素晴らしい人生を送っているに違いないと思えてしまうし、また、不幸面している人間にも、どうせ大した悩みではないだろうと決めつけてしまう癖がついてしまった。他を評するなど下品極まりないと重々承知の上であるが、うだつの上がらぬ身の上が俺をそうさせるのだ。

 そんな折、自己嫌悪と自己反省の傍らに見る一美の豊満なる胸は精神的滋養作用を生み出し俺の鬱屈を一時的に排してくれる。一挙する毎に震える果実は視線を奪い、もうその事しか考えられなくなってしまう。悩みも苦しみも二つの半球に吸い込まれ、世の中の全てがどうでもいいとさえ思えてしまうのである。


 あぁ。俺はやはり、一美とヤりたい。



 津波のように押し寄せる情念。劣情。しかし悲しい事に、俺は一美とヤれない。そうした関係性を築いていないのだ。そこに考えが至り落胆すると、途端に夢から覚めたような思いがして、周りの騒音が皆俺を嘲笑しているような気がしていたたまれなくなる。童貞という二文字がいやに重くのしかかり、俺を辱めるのだ。

 気が付けばババアが氷を持って来いと怒鳴っている。俺は「ただちに」と一声を放ち、裏に回って製氷機から氷を取り出しそれをグラスに容れて持って行くのだったが、店内に設置された鏡に映る陰が差した俺の顔は、とても客に見せられるものではなかった。

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