第2話

 カフェ『チャリングクロス』は駅から近すぎず遠すぎずの絶妙な位置に居を構えている。そのおかげか客足は安定しており働く分には丁度いい塩梅。稼ぎが少ない事に目を瞑れば、それなりに快適な職場である。何より部屋から近いのがいい。歩いて十分。走れば後分。遅刻の心配もほぼないといっていいだろう。本日もやや遅く起床したものの、出勤十五分前には無事到着し、社会人としての体裁は保てた。


「おはようございます」


 入店時に挨拶。これは基本。礼を持たざるは信を失する。如何にフリーターであろうとも、最低限の作法は心得ている。


「おはよう村瀬君。今日もよろしく」


 挨拶を返すはオーナー兼店主の白井さんである。

 白井さんの朝は早い。聞くところによると、六時には店に来て開店の準備をしているというのだから頭が下がる。おまけに、十九時から二十五時はバータイムとなりその間にバイトはいない。必然、締め作業も一人という事となる。如何に熟達した人間とはいえ完全閉店まで一時間はかかるだろう。となと、帰る頃には二十七時近く。いったいいつに寝ているのか、たまに不安になる。


「今日、シンちゃん十時からだから、それまでホールよろしくね」


「かしこまりました」


 シンちゃんとは俺が狙っている女。辛 一美の事である。名字をニックネームに含ませ適度に距離を縮めるテクニックは参考にしたい。まぁ、小心者の俺が他人をあだ名で呼べるはずもないのだが、それでも、いつまでも他人行儀に辛さんと呼んでいては一向に発展は見込めぬし、辛酸と言っているようで演技が悪い。いつかは側に寄りたいこの気持ち。勝負に出るか。いや、だが、しかし……

 

「よし。開店しよう」


 白井さんの言葉に頷きOpenの札をドアノブにかけた。毎度繰り返すこの作業の際、俺はいつも、今日こそは辛 一美をシンちゃんと呼んでやろうと決心するのだが、実際に決行される事はなかった。人をあだ名呼びするのは恥ずかしく行い難く、それが女であるあれば尚の事。元来の小心と人付きいの拙さからくる社交能力のなさは折り紙つきで、人々が愛称で呼び呼ばれ和気藹々としている中、俺一人その輪に入れぬなどままあり、そうした際はどうにも自分の人間としての不完全さが身に染みるのであった。

 暗鬱とした過去を思い出すと、自然と頭が重くなり、靄がかかったように思考が不鮮明になる。すると決まって自己嫌悪や他者に対する不満や誹りが記憶から掬われ辛苦に苛まれ、来店のあまりない朝の時間はより鬱気を沸き立たたすのであった。この悪習はもはや癖になってしまい自分ではどうしようもできない。

 念願の女さえできれば、果たしてこの鬱屈とした感情を排斥できるのであろうか。それとも、永遠と悩み続けねばならぬのか。陰の射す身に独り身の俺には予想ができるわけなく、毎朝毎昼毎晩と、暇な時間があれば、思春期の如く不毛に不安がるのであった。女々しく情けないと自覚はあるのだがこればかりは如何ともしがたい。


「村瀬君。最近、シンちゃんとはどうなんだい?」


 そんな事を考えていると、白井さんは必ず俺に話しを振ってくる。まるで心を見透かされた上、気を遣われているように感じられる為、ありがたいやら不気味やらで何と形容したものかイマイチ要領を得ないし、話の内容はだいたい一美に関するものであるから返答に困のであった。


「どう。と、言われましても……何もありませんよ。他人なんですから」


 故に、俺はいつも茶を濁したような言葉を口にし遠回しに迷惑である旨を伝えるのだが、そんなものお構いなしと前屈みに追撃してくるのだから質が悪い。


「つまらない事を言うね君は。デートに誘うとかさ。あるだろう。色々と、男女の交際ってやつが」


 ほらきた。中年らしい不躾かつ無遠慮な言葉責め。閉口。辟易である。見てくれは四十手前のナイスミドルなくせに、こうしたところが実にもったいない。顔も声も身形も女受けするというのにまったく下世話なのだ。白井さんを嫌っているわけではないのが、嫌悪感しか湧かない俗な部分はどうにも許容しがたい。


「僕なんかが辛さんに手を出せるわけないでしょう。住む世界が違うんだから」


「何故だい。同じ地球に、しかも日本にいる者同士じゃないか。いったいぜんたい、どこが違う世界だというんだい。同じ星、同じ国に生まれた異なる人間が惹かれ合うのはごくごく自然な成り行きだと、僕は思うんだけれどね」


 詭弁だ。だいたいそういう話ではない。

 と、言ったところで無意味であろう。白井さんの表情は愉悦に溢れている。つまり楽しんでいるのだ。きっと俺が一美を狙っていると分かっていて、あえて茶化すような軽口を叩いているに違いない。品性下劣とはまさにこの事。まったく、こうした大人にはなりたくないものだ。いや、俺の年齢は二十五でありもう大人なのだから、こうした大人にならなくてよかったと安堵すべきなのだろうか。いやしかし、俺より白井さんの方がはるかに大人の気概を持っている分、こうなれなかったのを悔やむべきなのか。会社を辞めて店を持ち、朝から朝まで働くなど並みの覚悟でできるわけがない。小賢しい屁理屈をこねている俺よりも、よほど良い大人なのではなかろうか。

 ……なるほど。今まで考えてもみなかったが、大人になるとはこういう事なのかもしれん。もしかしたら俺に不足しているのは、白井さんのような大人の立ち振る舞いもしれぬ。ならば、俺も白井さんに倣い軟派となった方がモテる気もする。

 実際白井さんはモテている。店の常連に古い友人。町内の未亡人や隣に住む偏屈ババアetc……多様な女から言い寄られているのを俺は目撃している。であれば、それを模倣すれば、あるいは……

 揺れ動くレゾンデートル。積み上げてきた価値観を崩す時がきたか……


「白井さん。俺も……」


 俺も白井さんのようになりたいです。どうしたらなれますか。と、そう聞こうとした。その瞬間。


「おはようございます」


 女の声が響き俺の質問は中断されてしまった。果たして突如割って入ってきたその声の主は……


「あれ、シンちゃん。どうしたの。今日は十時からだと伝えたと思ったけれど」


 豊満な胸を持つ、俺が狙う意中の女。辛 一美であった。勝手口に立つその姿。なんと可憐な事だろうか。胸もそうだが、厚ぼったい唇が劣情を誘う。


「はい、そう伺っていますが、この前まかないでいただいたクロックムッシュが美味しっかたので、お客さんとして来ました」


「なるほどね。言ってくれれば、またまかないで作るのに」


「いえ。たまには売り上げに貢献しないと。破産されたら困りますから」


「きつい冗談を言うね……」



 談笑する二人を前に俺は出かかっていた言葉を呑み込む。女の前で「軟派になりたいです」などと言う気はなれなかったし、なにより、自分が場違いであるかにように思え、抱いた情念ごと冷めてしまった。


「白井さんの作るお料理も、淹れるコーヒーも美味しいですからね。なくなったら嫌ですよ私」


「嬉しいけどね。素直に喜べないなぁ」


 笑顔で白井さんと話す一美を見ると惨めに拍車がかかる。俺は必要のない整理整頓をしながら消沈し、店の端で一人涙を堪えた。

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