第4話

 それでも仕事をしなければならないのが社会人の務めである。食う為には勤労に励まなければならないのだ。嫌だ嫌だと言っていても誰も助けてはくれない。故に、如何に精神不安であっても俺は給仕として振舞わねばならない。苦心は募る。が、喉元過ぎればの精神で忍ぶれば、陽、落ちたりて影伸びる。業務終了まで幾ばくもない。十五時を過ぎれば人も捌け楽なもので、また本日は殊更やるべき業務などもなく、ゆるりと流れる時流に身を任せれば、潮は満ちて滞りなく退勤の流れとなりギター教室へと向か事ができるのだ。モテたいという一念で初めた習い事だが、これが中々どうして面白い。弦をかき鳴らしエレキを響かすのは存外快感で、抱えたストレスが削がれていく。アルバイトとはいえ、労働に従事すれば心労が蓄積するのだ。精神衛生の上でも、早々とタイムカードを切り、趣向に悦を求めたいところである。




「村瀬君。買い物いってくるから、少しばかり頼めるかな」


 白井さんはこの時間になると買い物を口実に紫煙を燻らせに外へと出る。長い労働時間の束の間の休息を誰が止められようか。あと少しで俺も一美も上がる。その前の一服。是非とも満喫していただきたい。


「分かりました」


 二つ返事での承知。白井さんがおらねば料理はできぬが、ランチの時間は終了しておりオーダーされる事は稀。何より、ここに来る客は皆この時間に店主がいないのを知っている。不測の事態はまず起こらぬと思っていいだろう。


「悪いね」


「いえ。ごゆっくり」


 白井さんを目で見送る。客席もちらほらと寂しくなっていく頃合い。気付けば店に残されたのは僅か。カウンターを挟んで向こう側にいる人間少数と、俺と一美だけである。皆それぞれが自我を持ち各々が別々の何かであるはずなのだが、店内に射す落陽の兆しに感化さると不思議と皆黄昏に耽り、寂寞の中に全体一帯として共同しているかのように思える。それぞれがそれぞれ異なる意思を持ちながら、心臓の鼓動が一致しているという錯覚は思いの外居心地が良く、先程まで早く帰りたいと願っていたのが嘘のように、この昼と夜の間に未練が生じるのであった。人はこれを、アンニュイと呼ぶのだろう。

 曖昧な世界の中、俺は虚ろななままで客席に目を向ける一美を見た。厚い唇からは吐息が漏れ、気怠げに髪を揺らし虚空を観み立っている。その姿はフェルメールが描いた女に似ているように思え、感銘とまではいかないまでもつい見入ってしまい惚けるのだった。美しいと、そう感じたのだ。すると下腹部に異常な血の巡りを感じ膨張していく感覚が走った。一挙に意識が尖鋭となり汗が噴き出す。これはまずい。勃起だ。勃起してしまったのだ。

 いやはや大変な事になってしまった。もしこの勃起が一美に勘付かれようものなら一発退場。ヤレるヤレない以前に人間として終了の宣告されてしまう。何とかせねば。幸いにして今は誰もが暖和な雰囲気に呑まれ俺への認識が淀んでいるが、それも長くは続かないだろう。コーヒーを啜る音や服が擦れる音で人は瞬間的に我へと帰るものである。意識明確となれば俺の破廉恥に気付かぬはずなく、運良く一美が見過ごしたとしても、客席にいるご婦人の目に止まるのは明白で、もしその眼で俺を捉えればただちに金切りの悲鳴が響き渡るだろう。

 いかん。考えただけで青ざめる。そうなれば一美との信頼関係はご破算確実。なんとかせねばならぬ。


「……」


「……」



 横目で確認。注意は未だ散漫。一美は夢想の檻の中。行動を起こすならば今の内。思考を巡らせ、解決策を探る。

 ご立派に隆起したイチモツを如何にして秘匿するか。これほどの難問そうはあるまい。男子たるもの魔羅が制御不能となる事はしばしばあるのだが、手綱の執り方を知る者は少ないように思える。少なくとも俺の周りにその術を持つ者はいない。皆、勃ったら勃ちっぱなしという危険な状況に身を置かざるを得ず、ただ波が過ぎるのを待つのである。何とも悲惨な話だ。これでは命がどれだけあっても足りぬだろう。事実、俺も誤勃起が露呈し社会的損傷を負った男をごまんと見てきた。南無阿弥陀。

 そしてその中に、とうとう俺も含まれてしまうかもしれないというわけだ。事によれば小事件。お縄となる可能性も十分考えられ誠に恐ろしい。左様な失態を晒せば女を作るなど夢のまた夢。ヤル事叶わず、生涯不犯を貫き果てるであろう。悪夢だ。それはなんとしも避けたい。いや、避けなければならない。男たる者ヤラずに死ねるか。

 俺は意気込みを掲げ魂を震わせる。窮鼠猫を噛むというように、窮地に落ちいれば一縷の希望が見えるに違いないと足掻きに足掻いた。

 が、浮かばず。刹那の中で重ねる熟考。まとまらぬ打開策。一秒が重い。あぁいっそ、この場で三擦り半を仕り、愚息の白濁をお披露目できたらどれだけ楽か。白眼視されるのであればそれも良いかもしれない。人目を憚る粗相なれど、自棄糞に居直れば非も是となるやも……

 ……人目を憚る……そうか。人目がなければ、問題は解決するのだ。ここにきて妙案。俺は閃いたのだ。この窮地を脱する最善策を。


「……三番。行って参ります」


「え、あ、はい」


 一美の間抜けな返事を全て聞く前に俺は彼女に背を向け店の奥へと小走った。

 三番というのは便所の符丁である。客の前で花摘みを連想させる言葉はご法度である為そう呼ぶ。そしてこの店の便所は個室。中に入れば誰の目に留まることもない。つまり俺は、便所に篭りキカンボウを鎮めようと目論んだのだ。

 便所は店の奥。カウンターとは正反対の方角。一美は客席を向いているわけだから、逆方向に進めば当然股間の膨らみは死角となり俺の不始末は確認できないはずである。問題は声を掛けた瞬間であったが、浮遊している意識の隙をついての一声であった為彼女の焦点が定まる前に移動に成功。全ては計画通り。万事抜かりなく、滞りなく運び万々歳。後は取り憑いた邪悪が出て行くまで待つだけ。そう思った矢先であった。店を後にした白井さんと邂逅したのは。


「おっと、すまない。お疲れさん……おや」


 譲り合わねばならぬ程狭い通路。鉢合わせれば自然と全身が見える仕様。目ざとい白井さんが俺の異変に気付かぬわけはなく。鉢合わせの数秒の後、薄っすらと口角を上げ、何があったか察したように俺の肩を叩くのであった。


「まぁ、ゆっくりしていなよ」


 白井さんはそう言って、半身になった俺の尻の方からすり抜けて行き店へ戻っていった。恥辱にまみれ血が顔面に上ったせいか暴れん棒はすっかりと消チンし蛹へと変態。俺は身も心も惨めとなり、隙間風に吹かれるのであった。

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