椿の海に眠れ

三谷銀屋

椿の海に眠れ

(一)


「くそ・・・・・・道を誤っちまったかな?」

 新九郎は、つやつやと光る葉で覆われた鬱蒼とした森の道に佇んで、ちっと舌打ちをした。前を見ても、後ろを見ても、横を見ても同じような木が延々と立ち並んでいる。重なり合う葉の間から顔を覗かせる赤い花が、まるで途方に暮れる新九郎をあざ笑っているように感じた。毒々しい程の赤い花弁が、吉原で見た遊女の真っ赤な唇を思い出させるためだろうか?

 新九郎が迷い込んでしまった森・・・・・・なぜかここには椿の木しか生えていない。


 鳶職人見習いだった新九郎がつまらない事で親方と揉めた挙げ句、ついカッとなり殴って怪我をさせてからそろそろ一月が経つ。

 頭を下げて謝る気にもなれず、鳶の職を辞めた。しかし江戸にいても特に他にやりたいこともなかった。

 とりあえず勢いに任せてわずかな路銀を手にして東へ向かった。どうせ家族もいない天涯孤独の身の上である。若さの勢いだけでどこへでも行ける気持ちだった。

 日本橋から成田参詣に行く人達に紛れるように船に乗り、大川(今の隅田川)、小名木川、江戸川を下って行徳河岸で降りる。そして、佐倉街道をひたすら東へ。

 目指したのは下総国の東の果て、九十九里だ。

 九十九里は鰯漁で利を上げている地だと伝え聞いた。体力には自信がある。人が増え続ける江戸でせせこましく窮屈に生きるより、九十九里で漁師の真似事でもやって暮らそうかと思い立ったのである。

 出立の時に持っていたわずかな銭はすぐに尽きた。乞食のような身なりになりながら野宿を繰り返し、時には飢えて畑のものを盗みながら、それでも東に向かって歩くしかなかった。

 そうして、今日の昼過ぎ、山道の途中から遠くに海が見える場所までようやくたどり着くことができた。新九郎は疲れ切った体に活を入れ、残りの道程を急いだ。

 この道をまっすぐに行けばきっと人里に出るだろう。そうすれば、村人に頼んで一夜の宿を貸してもらうこともできるかもしれないし、運が良ければ鰯漁の人足の雇い口も見つかるかもしれない。

 しかし、新九郎の期待は裏切られた。

 行けども行けども薄暗い森が続き、歩いていくうちに目に入る木は椿だけになった。

 自然に出来た森とは思えない。椿の油を採るためにお上が植えさせたのだろうか。それにしては人気もなく深閑としすぎている。

 得体の知れない不気味さを感じ、新九郎の背筋にひやりと冷たいものが走る。

(元の道に戻った方が良さそうだな)

 新九郎は踵を返した。しかし、そこに道はなかった。視界いっぱい、急に壁が立ちふさがったかのように椿の葉と花で覆われている。

 新九郎はごくりと生唾を飲んだ。

(俺はどの方角から来たんだ・・・・・・椿が生い茂りすぎて道が分からなくなったのか・・・・・・しかし、さっきはこんなにまで密に椿は生えていなかったような気がする)

 見渡す限り同じような景色で、新九郎の頭の中では方向感覚がめちゃくちゃに狂わされたようだ。めまいがする。引き返そうとして無理に椿の間に分け入って歩けばさらに迷ってしまいそうだ。

 もはや前に進むしかない。

 新九郎は覚悟を決めて再び歩き出した。


 両側から椿の木々に圧迫され、獣道のような細く頼りない道は無限に続いているようにすら感じる。どのくらい歩いただろう。新九郎の疲労はとっくに限界を越え、何かを考えることはもうやめていた。それでも足だけが別の生き物のように、ただ、歩いている。まるで何かに引き寄せられるかのように。

 その時、ふと、薄暗い道の行く手にかすかに明るい光が差し込んだ。新九郎の目に希望の色が浮かぶ。

 辺りは徐々に明るさを増し、そして、椿の木々の並びが突然途切れた。日の光が新九郎の顔を照らす。森を抜けきったのだ。目の前には柔らかな草で覆われた草原のような場所が広がっている。

 新九郎はほっとして、力尽きたようにガクリとその場に座り込んだ。不安にとりつかれて、もしや森から一生涯出られないのではないか等と思ったりもしたがどうやら杞憂だったようだ。

 腰に下げた竹筒の水を喉を鳴らして飲む。

 その時、はらり、と視界の端に何か赤いものが横切った。隣を見やると椿の花が落ちていた。拾い上げる。両の掌にのせてなお、指を覆ってはみ出すくらいに大きい。こんなに大振りな椿の花を見るのは初めてだった。

 上を見上げた。青空のところどころに黒く太い筋のようなものが走っている。不思議に思ってよくよく見ると巨大な樹木の枝だと気がついた。大きな椿の花は遙か上空に張り出したあの枝から落ちてきたようだ。そして枝を目で追っていくと、全ての枝は「何か」に繋がっていた。その「何か」が椿の木の幹であることは、新九郎にも理屈としてはわかる。しかし、それは樹木の幹と呼ぶにはあまりにも奇怪なものだった。

 それは・・・・・・木の肌を持った巨大な赤子だった。

 新九郎は何度も瞬きをした。曲がりくねった椿の古木の幹が、見ようによって赤子の形に見える、いわゆる錯覚なのではないかと思ったのだ。

 しかし、何度見ても手足を丸めて眠っている赤子の形にしか見えない。雲にも届きそうな巨大な赤子だ。見渡す限りの広々とした草原の中に座り、眠り続ける赤子。そして、その頭からは無数の椿の枝が生えて縦横に伸び、ところどころに赤い花を咲かせていた。

 大きな椿の花ははらり、はらり、と次々に落ちてくる。しかも、それは新九郎のいる場所をめがけて落ちてくるようで、新九郎の周りはたちまち椿だらけになってしまった。


 アアアアアアアア・・・・・・


 突如として、空を割るような大音声が響いた。赤子が口を開けて泣き声を上げたのだ。そして、ピシリ、ピシリ、という破断音が泣き声に混じって聞こえてくる。木の幹が裂けるような音。その音に合わせて、赤子はゆっくり、ゆっくりと目を開けた。

 木のうろのような、真っ黒な闇に塗り潰された目が開く。赤子は暗黒の目で、まっすぐに新九郎を見つめていた。


 アアアアアアアア・・・・・・


 ピシリ、ピシリ、ピシリ・・・・・・


 新九郎は恐怖のあまり全く動けなくなった。呼吸が浅く、早くなる。めまいがする。

 今度は、赤子の泣き声に共鳴するように、新九郎の周囲に落ちていた椿がもぞもぞと生き物のように動き出した。見ている内に、椿の花は赤い肌の小鬼に姿を変化させた。

 角を生やした禍々しい形の小鬼達は新九郎に群がり、キイキイと鳴きながら足に、腕に、腹によじ登ってきた。

「ひいいいいっ!」

 新九郎は悲鳴を上げて跳ねるように立ち上がると、疲れも忘れて全力で駆けだした。


 アアアアアアアアアア・・・・・・


 赤子が泣いているのか、自分が泣いているのか、もう分からない。涙と鼻水を顔から垂れ流しながら駆けた。気が狂いそうだ。

 血痕のような椿がまき散らされた草原をどこまでも走る。何かに足をとられ、躓いた。倒れ込む。

 倒れ込んだ先は、無数の椿の花が一面に敷き詰められた真っ赤な「椿の海」だった。


 アアアアアアアアアアアア・・・・・・


 新九郎は椿の海の中で溺れた。手足を必死に動かしてもがけばもがくほど体は何千層、何万層にも重なった花の中に沈んでいく。椿は波のようにうねり、新九郎の体を頭から包み込む。息を吸い込もうとすると、椿の黄色い花粉が口の中に流れ込んできて、噎せた。苦しい。

 椿の花の一輪一輪は、小鬼に姿を変えて新九郎を責め苛む。かと思うと、花弁の一枚一枚が女の赤い唇の形になってケタケタと笑い転げたりしている。


 アアアアアアアアアアア・・・・・・


 新九郎は、赤子の泣き声を耳元で聴きながら、椿の海の奥底に深く深く沈んでいった。

 めまいがする。


(二)


 目が覚めた。全身がじっとりと汗ばんでいる。

 新九郎はぼんやりとした頭を持ち上げて辺りを見回した。

 見たことのない座敷だ。しかも、自分はこざっぱりとした清潔な着物を着て、柔らかな布団に横たわっている。

「起きられましたか?」

 女の声がした。声の方へ顔を向けると若い尼僧が座っていた。

「道ばたで倒れておられたので当寺にお連れしました。熱もあって大層具合が悪そうでしたので。寝ている間、ずっとうなされておいででしたね」

 尼僧の白い手が新九郎の額に触れた。ひんやりと冷たかった。

「熱は下がったようです」

 尼僧はにっこりと微笑んだ。紅など引いているはずはないが、尼僧の唇はくっきりと赤い色をしていた。

 新九郎は礼を言って体を起こした。座敷に続く縁側の向こうに光る水面が見える。

「ここは九十九里ですか? 海が見えます」

 新九郎は尼僧に尋ねた。

「九十九里の海は近いですが、あれに見えるのは海ではなく湖ですよ」

 尼僧は笑いながら答えた。

「対岸が見えないほど広い湖で、この辺りの者は[椿の海]と呼んでいます」

「椿の・・・・・・」

 新九郎は思わず眉根を寄せた。

「どうかなさいましたか?」

「いえ・・・・・・寝込んでいる間に気持ちの悪い夢を見たのですが、その夢が椿にまつわるものだったので・・・・・・」

 新九郎は自分が見た悪夢を尼僧に語った。

「その夢・・・・・・もしかすると、この地に古来より棲みついていた悪鬼が、こなた様の夢に入り込んで悪さをしでかしたのかもしれませんよ」

 新九郎の話を最後まで聞き終わると、尼僧は微笑みながら事も無げに言った。

「この[椿の海]には言い伝えがあるのです。大昔、この地には枝葉が天を覆い尽くすほどに巨大な椿の木が植わっていて、その木には人々に悪事を働く鬼が住み着いていた。そこで、猿田彦という神が鬼を退治しようと矢を射かけたところ、鬼は椿の木を地面から引き抜いていずこかへ逃げ去った。引き抜かれた椿の木の根の跡に水がたまり椿の海になったというのですよ」

「悪鬼はこの地を去ったのですか?」

「はい、そう伝えられています。しかし、逃げたはずの鬼は、案外この湖のすぐ近くに今も棲んでいるのかもしれませんね」

 尼僧はそう言ってくすりと笑った。


 数日間寝たきりだった体を動かすため、新九郎は外に出ることにした。尼僧と並んで「椿の海」のほとりを歩く。芦の生い茂る水辺に、鳥達がポウ、ポウ、と長閑な声で鳴き交わしていた。

 尼僧の言った通り、遙か遠くの対岸の景色はうっすらと霞んでいてよく見ることができない。海という名を冠するに相応しく、本当に広大な湖だ。

 日の入りの刻が近い。山の端からこぼれる夕焼けの光が湖面を赤く輝かせていた。

「いにしえ人は、夕暮れのこの水の色を見て椿の花を思い浮かべていたのかもしれませんね」

 そう呟いた尼僧の横顔も、夕日の光に照らされて赤く染まっていた。

 新九郎は先ほどまで見ていた夢を思い出してしまい、どうにも落ち着かない心地で尼僧の唇をちらりちらりと眺めている。

 ふっと辺りが急に暗くなった。山の向こうに日が沈みきったのかもしれない。周囲は急速に闇に呑み込まれる。

 その時、新九郎は奇妙なことに気がついた。日が沈み切ったにも関わらず、椿の海の湖面の赤い輝きが消えないのである。夜の闇の中、広大な椿の海から赤い光が揺らめきながら立ち上り天を照らしている。

 新九郎は驚愕して水面に目をこらした。水の底で大きな椿の木が枝葉を広げている様子が見えた。その枝に咲いている無数の椿の花が赤い不思議な光を煌々と放っているらしかった。

「これはっ・・・・・・」

 新九郎は思わず後ずさって尼僧の袖を掴んだ。

「おや、どうされました?」

 慌てふためく新九郎とは対照的に尼僧の声は落ち着いて涼しげだった。

 尼僧が新九郎の方を振り返る。

 その顔を見て新九郎は、ぎゃっ! と悲鳴を上げた。

 木のうろのような、真っ黒な闇に塗り潰された暗黒の目。夢で見た巨大な赤子の顔と全く同じだった。

 尼僧が笑う。


 アアアアアアアアア・・・・・・


 尼僧の真っ赤な唇から、泣き声のような、悲鳴のような声が漏れ、湖を渡って反響した。

「うわああああああ!」

 新九郎は逃げた。がむしゃらに。

 足元でばしゃばしゃと水が跳ねる。袴の裾が濡れて重い。気が動転して、芦の原の中に駆け込んでしまったのかもしれない。しかし、そんなことももう構わない。とにかく全身の力を振り絞って逃げた。目の前の草木をかき分け、泥まみれになりながら、ただひたすら逃げる。

 足を何かにとられた。泥水の中に勢いよく転がり落ちる。それでも新九郎は手で泥を掴んでは這ってでも前に進もうとした。進まない。足に絡みついているものがある。振り返る。うねるような歪な形の黒い枝。蛇のように蠢き、足に巻き付いている。枝には赤く光る大きな椿の花が揺れていた。

 椿の花は赤い唇の形に変わった。

「新九郎殿・・・・・・どちらへ参られるおつもりですか?」

 赤い唇はにやりと弧を描き、尼僧の声でしゃべった。

 すると不意に、体のあちらこちらにモゾモゾとした不快感と刺すような痛みを感じた。


 キイキイキイ・・・・・・キイ、キイ・・・・・・


 二十匹ほどの赤い小鬼が鳴き声を立てながら新九郎の体に取り付いていた。小鬼達は新九郎の手足に噛みついたり爪を立てたりしながら傷をつけている。傷口から血が滴り落ちた。その血もまた、夜の闇の中で赤い光を放ち、みるみるうちに椿の花に変わっていく。

「うぐっ・・・・・・がぁ・・・・・・げぇえ・・・・・・」

 新九郎の恐怖はついに頂点に達し、泣きながら嘔吐した。口の中からも沢山の赤い花が溢れ、ぼとりぼとりと泥水の上に落ちた。


 アアアアアアアアアア・・・・・・


 耳の奥に、頭の中に、あの泣き声が響く。痛い。頭も体も壊れてしまいそうに痛い。めまいがする。


 ず・・・・・・ずず・・・・・・ず・・・・・・


 枝が動き出した。引きずられていく。新九郎に絡みついた枝は「椿の海」の水底に新九郎を連れて行くつもりだ。

 抵抗する力はもはや新九郎には残っていなかった。新九郎にべちゃべちゃとまとわりついていた粘っこい泥水は、やがて冷たく澄んだ水に変わった。

 透明な暗い水の中、こぽこぽと息の泡を吐き出しながら、新九郎はただ、沈み、そして落ちていく。

 揺らめく水の向こうに、ひしめいて林立する椿の森が見えた。

 赤子がいる。

 上へ下へと水の中に張り巡らされた椿の枝と花の向こうに、巨大な赤子の頭が浮かんでいた。新九郎を見つめてくる空虚で真っ黒な目。もう恐怖は感じなかった。

 自分もこの場所で一輪の椿の花になり、あの赤子の一部となるのだ。わけもなくそう感じていた。


 アアアァァアアアアァァァ・・・・・・


 赤子の声が聞こえる。水が震えた。

 目を閉じる。瞼の裏の闇の中で赤い唇が笑う。


 アアアアァァァァアアアアア・・・・・・


 あれほど恐ろしかった声が、不思議なことに今は美しい旋律の子守歌のように聞こえてくる。

 新九郎は穏やかな気持ちに包まれた。そして、わずかに口を開けると、最期の息を頭上に向けてこぽり、と吐き出した。


(三)


「和尚様、行き倒れのようです・・・・・・」

 三人程の村人が莚で覆われた死体を戸板にのせて寺に運び込んできた。鉄牛道幾てつぎゅうどうき和尚の朝の勤行がちょうど終わった時分だった。

「この辺じゃあ見ねぇ顔です。ヨソのもんでしょう」

 村人の一人が言った。鉄牛は無言で頷いて、筵をめくった。

「・・・・・・溜め池で溺れたのか?」

「いやぁ、山の麓の林ん中で倒れていまして」

「それにしてはびしょ濡れではないか」

 鉄牛が不思議に思った通り、その死体は髪も着物も水気を含んでぐっしょりと濡れていた。まるで今さっき浜に打ち上げられた溺死体のようだ。

「ここ数日は雨も降っておらぬのに・・・・・・」

 鉄牛は一人ごちながら屈み込んで死人の体を改めた。首筋にぺたりと赤いものが張り付いている。指でつまみ上げると花弁のようだ。椿の花弁のように見える。しかし、それにしては片手の掌を半分程度覆ってしまうくらいに大きかった。

「この者が倒れていた林には椿の木が植わっていたのか?」

「いえ、ありませんよ・・・・・・椎や樫ばっかりです」

「なるほど・・・・・・それに今は椿の花が咲く時節でもないのう」

「あのう・・・・・・和尚様・・・・・・」

 今まで黙っていた村の男の一人がおそるおそると言ったように口を開いた。

「やっぱり祟りでしょうか・・・・・・椿の海の神様の・・・・・・」

 それを聞いて他の二人の男たちもぎょっとしたように顔を見合わせた。

「馬鹿なことを言うでない」

 鉄牛は叱咤するような強い口調になり、ぎょろりとした鋭い目つきで村人たちを見た。

「大方、この男は旅の者で、昨夜この辺りにたどり着き、先の見えぬ夜の闇の中で不幸にも足を滑らして溜め池に落ちたのであろう。なんとか池から這い上がって人家を歩いてしばらくさまよったものの、水に濡れて体が冷えすぎ、死んでしまったのだ。旅に疲れ、体が弱っている者なら体の冷えが命取りこともあるだろう」

 鉄牛は三人を諭すように言葉を続けた。

「祟りなどという言葉を軽々しく口にするものではない。今は皆が一丸となってこの椿新田を盛り立てていかねばならぬ時じゃ。くだらぬ噂に気を取られて人心を惑わされるのは本末転倒というもの。よく心得て不用意なことは口にするでないぞ」

 椿新田・・・・・・それは現在の千葉県匝瑳そうさ市、旭市、東庄とうのしょう町に跨がって広がる大水田地帯のことだ。

「干潟八万石」とも呼ばれるそこは、五十一平方キロの広大な湖「椿の海」を干拓したものであり、六年前の延宝二年(1674)から新田として売りに出されている。

 椿の海はもはや存在しない。

 江戸白金台の瑞聖寺に住まっていた鉄牛道幾がこの地にやってきたのも、椿の海の干拓が終わった後だった。

 もっとも彼は江戸に住みながらも椿の海とは深い関わりがあった。幕府お抱えの大工棟梁、辻内刑部左衛門つじうちぎょうぶざえもんから相談を受け、彼が熱心に取り組んでいた椿の海の干拓工事に資金の援助が下りるよう幕閣に働きかけてやったのが鉄牛だったのだ。その縁があって、椿新田に創建された黄檗宗の寺に鉄牛が住職として招かれたのが昨年のことだ。

(祟り・・・・・・か)

 寺の裏手の墓地で村人たちに墓を掘らせ、行き倒れの男を葬り、簡単な供養を済ませた。そうして村の者達を帰した後も鉄牛は新しく盛り土をした墓の前に佇み、しばし物思いにふけっていた。

 今日葬った男のように、奇妙な行き倒れが増えている。行き倒れが多いこと自体は不思議ではない。椿新田が出来てからは、新しい土地に希望を求めて移り住んでくる人が増えた。また、東の先の九十九里では鰯漁が盛んだ。人の往来が多くなれば、様々なことが起こり、この地で力尽きて無縁仏となるものも少なからず出てくる。

 しかし、不思議なのは、行き倒れの死体の多くが不自然な程ぐっしょりと濡れていたりすることだ。季節はずれの椿の花弁が付着していたりすることも少なくない。行き倒れだけでない。最近では村の若い者が、原因もよく分からないまま突然死する例が何件かあった。その死体に、なぜか口いっぱい椿の花弁が詰まっていたこともある。

 かろうじて息を吹き返した者も、無くなったはずの椿の海の幻影を見た、と語った。

「かつて椿の海に棲んでいた鬼が住処を奪われたために怒り、祟りをなしている」等という噂が村人の間で囁かれるようになったのも自然な成り行きだったかもしれない。

 鉄牛は、多くの幕閣の要人の帰依を受け、その気になれば政事を裏から動かすことができる程の力を持った、いわゆる政僧である。合理的な考えの持ち主である鉄牛は、祟り等という話に容易に心を動かされるような男ではない。

 しかし・・・・・・。

 無縁仏の墓前に供えた線香の白い煙が空に向かって上っていく。その煙がふぅっと、一瞬、陽炎のように揺らめいた。

 煙の向こうに白い頭巾を被った尼僧が立っていた。

 真っ黒な闇を湛えた眼窩で鉄牛をしばらく見つめ、そして、消えた。

 鉄牛が尼僧のあやかしを目にするのはこれが初めてではない。鉄牛はこの墓地に新しく無縁仏を埋める度に尼僧の姿を見ていた。

 この寺が幕府の指示によって創建される前にも、別の寺があったという。つまり、古寺を潰して新しい寺を建てたのだ。前の寺で何かがあったのかもしれないが、鉄牛がそれを詳しく知る手だてはない。尼僧に関わる何か不幸な出来事が過去にあったのだとしても、「江戸から来たえらいお坊様」に村人たちが語るのはほんの表面的な事だけだ。

 消えた尼僧の姿を目で探すかのように、鉄牛はゆっくりと首を回して辺りを見渡す。たくさんの土饅頭が目に入った。ほとんどの墓は、鉄牛がやってくる前から既にこの地にあったものだった。これらの墓に古そうなものは少なく、むしろ最近作られたばかりと思われる新しそうな墓が目立つ。きっと椿の海の干拓の犠牲になった人々の墓だろう、と鉄牛は思う。

 周辺の村人達の反対を押し切ってまで進められた干拓工事だったが、幾度となく失敗を重ね、ついに寛文十年(1670)十二月、とりかえしのつかない大事故を引き起こしたことはまだ生々しく記憶に残っている。

 そもそもの干拓計画では、椿の海の大量の水を人工の掘り割りの川に流しこみ、太平洋に向かって排水して湖を干し上げる算段だった。しかし、いざ排水作業の段になって惨事は起こった。椿の海と掘り割りの間を塞いでいる土俵を取り除くと、たちまち大量の水が掘り割りから溢れ出し、凄まじい濁流となって周囲の村々を押し流したのである。

 それは後の世に「井戸野、仁玉、駒込、下根、神宮寺、小笹、吉崎此の村々十五、六日は水付け、田畑砂押しに成り、人馬流れることを数しらず」と記録される程の大災害であり、多くの人命が失われた。

 事故で亡くなった村人達と、尼僧の霊が直接関係あるとは、鉄牛は思ってはいない。しかし、死んだ者達の無念と、元々この地に宿っていた怨念がともに混ざりあえば、さらに不吉なものが生まれることもないとは言えない。


 アアアアアアアアアア・・・・・・


 不意に鉄牛の耳に赤子の泣くような甲高い声が響いた。

 目を閉じる。瞼の裏の闇に、またしても尼僧の姿がぼんやりと光るように浮かび上がった。その腕にべっとりと血にまみれた嬰児を抱えている。泣き声はその嬰児が発しているのだった。

 ふと気がつけば、尼僧の足下にも血だまりができており、彼女の僧衣もたっぷりと血を含んでいるようだった。黒い僧衣なのですぐには気がつかなかったのだ。

 鉄牛は目を閉じたまま手を合わせ、一心に経文を唱えた。


 アアアアアアアアアアアアア・・・・・・


 いくら経を唱えても、眼裏の尼僧の姿も、泣き声も、いつまでも消えなかった。

 ・・・・・・めまいがする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

椿の海に眠れ 三谷銀屋 @mitsuyaginnya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ